落語の中の言葉240「女髪結」
「厩火事」より
この咄の主人公は女髪結です。江戸の後期には、得意先をまわって女性の髪を結って歩く女髪結が大勢いたようです。「お江戸吉原ものしり帖正誤」で簡単に触れましたが、改めて資料をあげて紹介します。
もともとは女性は自分で髪を結っていたといいます。天保十三年1842七十二歳の老人が「安永度より寛政度(1772~1800)迄之江戸表町之風俗、見聞およびあらまし、左之様に覚候」という『昔ばなし』には
「女髪結と申もの無之、其頃葺屋町新道駿河やと申茶屋の母におさいと申もの
上手故、其者結歩行、夫より女髪結之元祖の様に相成候。」
とあり、
喜田順有『親子草』(寛政九年1797)には
「三十ヶ年程以前迄は、悪場所は格別、町家の娘達の髪をゆひ候女髪結は無之候、わけて二十ヶ年〔割注〕安永ノ末ノ頃」此方は、発向にて、武家、町家とも、女髪ゆひ入込申候、其価は、女芸者などは、月極にて一ヶ月壱歩、鳥渡(ちょっと)頼候が二百文、なで付候が百文などゝ申事に候、昔のごときこき元結にこそ成間敷に、余りの事に候、其方達縦富貴に暮し候とも、左様成空侗(ウツケ)者の事に候(ママ)、決て致間敷候、右体の者家内へ入候はゞ、滅亡の基と心得可申候、」
とあります。
遊女も、もとは自分で結っていたようです。
安永四年1775の洒落本にも自分で髪を結う女郎が出て来ます。舞台は蒟蒻島(霊岸島埋立地の俗称)の岡場所。女郎〔おせつ〕と客の番頭がいる部屋に別の女郎〔お咲〕が来て話す所に
〔おせつ〕お咲さん。そつちを。むいて。見せな。お前の髪は。だれぞにいつて。もらつたか 〔お咲〕ムンニヤわつちかいつた。ナセ わるいか 〔おせつ〕ムンニヤヨ とんたいゝからよ。せんたへ。おまへにやア。丸まげが似合よ。(南鐐堂一片『寸南破良意(すなはらい)』安永四年1775自序)
江戸、大坂といった大都市の町方は格別、武家、村方では自分で髪を結えなければ一人前の女性とは言えないとする考えが明治になっても維持されていたらしく思われます。
この書は明治二十三年生まれの著者が、安政生まれで水戸藩の下級武士の妻であった母から聞いた話を主にまとめたもの。
そして女髪結の起こりは大坂だったといます。
女のかみゆひはむかしはなかりしが、宝暦のすへより少しづゝ出来たり。敵討御未刻太鼓といふ浄るり本を見るに、今の世に男の取上婆々と女のかみゆひとはなきものなりと有。此浄瑠璃に書あらはしたるは享保年中(1716~35)の事也。(『浪花見聞雑話』文化十四年1817)
宝暦(1751~63)のすゑ大坂島の内に採花局(はなや)あり。これが妻を霜と云。この霜はじめて遊女の髪を結ひ出してより、野待話(おんなかみゆひ)と云者出来、漸々五十年に成れり。(田宮仲宣『愚雑俎』)
大田南畝は支配勘定の地方出役として大坂銅座に勤めていた時、この田宮仲宣に各種の質問をし、その答えを書き留めています。
一宝暦中より女の髪結出申候て、上下甚勝手と成申候。尤嬾婦出来申候様に御座候へども、せわしきくらしのものは自髪にて時を移し申候処、甚手早く日数を持申候。凡月に弐度位結ひ申候へば済申候。全体京大坂の婦女、一切髪を休候事無御座候。此髪結の初り、大坂島の内花石の霜と申もの祖にて御座候。(『所以者何』享和二年1802成)
それが江戸に移ったようです。
寛政から天保に至る世態の変遷を記したものといわれる『寛天見聞記』には、
「寛政の初めは、女髪結と云ふもの至て稀なり、堺町近辺の三光新道に、下駄屋のお政とて、髪結銭百銅にて結しも、今は類多き故か、十六銅にて結ふも有とぞ、」
とありますが、寛政七年1795には目立つようになったようで、町年寄の樽与左衛門から肝煎名主へ、他の渡世に変わるよう申し聞かせるよう指示が出されています。
しかしその数は減るどころかますます増えたようです。
天保の改革では禁令として出されています。
天保十一子年1840
前々ゟ女髪結と申、女之髪を結渡世致候者は無之、代銭を出し為結候女も無之処、近頃専女髪結所々ニ有之、遊女并歌舞伎役者女形風ニ結立、右ニ準し衣服等迄花美ニ取餝、風俗を猥し如何ニ候、右為結候女之父母夫等何と相心得罷在候哉、女とも万事自分相応之身嗜可致様貴賤共可心掛事ニ候、已来軽キ者共之妻娘共自分髪ヲ結、女髪結ニ為結不申候様、追々可心褂候、是迄女髪結渡世致候もの家業を替、仕立物洗濯其外女之手業ニ渡世を替候様、是又追々可心掛候
右之通寛政七卯年十月中申渡置候所、年数相立候故等閑ニ相心得、当時専女髪結流行致、裏住居之賤しき者迄も相雇為結、無益之銭を費し候趣ニ相聞、畢竟右等ゟ町家之娘子共奢之風俗ニ成行、以之外不埒之事ニ候、巳来有渡世は堅相止、外手業営候様、町役人共厚世話致可遣候、若見遁置候者有之候ハヽ急度咎可申付候条、銘々心付候様可致候
子十二月
右之通従町御奉行所被仰渡候間、組々不洩様申通、急度可相守候
処罰もされたようです。
その後弘化四年1847にも町触が出されています。
弘化四年六月
市中取締掛
名主共
女髪結之儀は厳敷御制禁之処、近年次第ニ相弛、市中徘徊いたし候趣ニ相聞候間、猥成義無之候様精々心付、紛敷者も有之候ハ丶、早々可申立
右之通惣名主支配限、月行事持之場所迄、不洩様可申通
右之通被仰渡奉畏候、仍如件
弘化四未年六月十三日
是迄張出し
右北御番所被仰渡店連判取置候事
堀江町名主
熊井理左衛門
外五人
右之通今日内匠頭様於御白洲被仰渡候間、御達申候、番屋江張出し置、店々一同行届候様御取計可被成候、以上
六月十三日 月 番
但、町々ゟ店連判取置候事
こうした取締は次のように批判されています。
実際の取締はそれ程でもなかったようです。というのも町奉行所では町触は出すものの本腰を入れる気は無かったように思われるからです。
嘉永五年1852町奉行池田播磨守頼方から老中阿部伊勢守宛の上申書中には次のようにあります。
女髪結御法度之起本は、畢竟市中之婦女子共身嗜を仕覚候為メ、寛政度連々相止メ候様町年寄ニ而申渡候儀ニ有之候処、相弛ミ候ニ付、猶又去ル子年中女髪結流行致し裏店住居之もの共迄相雇為結候は無益之儀ニ而、奢之風俗ニ成候ニ付急度為相止候様被仰渡、其後相背候もの共は召捕、夫々吟味之上出格之訳を以、当分之内巌重之御仕置等被仰付候儀ニ有之候得共、尚又品を替櫛道具等は先方之品相用ひ忍ひ而右様之渡世致し候段以之外之儀ニは候得共、何レも親夫等病身ニ而給続成兼候もの共之妻等、不得止事竊ニ致し成、大行之儀ニは尤相聞不申、近来右躰厳重之御処所(ママ)有之候を乍弁、右及所業候は実々窮迫之余り致し成候事情ニ而、起本は至而寛カなる町年寄共諭之趣等参考仕候得は、乍不届も隠レ忍ひ候而親夫を養候儀ニ付、於事実敢而可惜(ママ)筋ニも無之、乍去右様之儀ニ申成余業有之もの、右渡世相始増長可致気配ニも至り候ハヽ、其節取締方申付候は勿論ニ付、兼而心附候様組廻り之もの江別段申付置、(以下略)
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この咄の主人公は女髪結です。江戸の後期には、得意先をまわって女性の髪を結って歩く女髪結が大勢いたようです。「お江戸吉原ものしり帖正誤」で簡単に触れましたが、改めて資料をあげて紹介します。
もともとは女性は自分で髪を結っていたといいます。天保十三年1842七十二歳の老人が「安永度より寛政度(1772~1800)迄之江戸表町之風俗、見聞およびあらまし、左之様に覚候」という『昔ばなし』には
「女髪結と申もの無之、其頃葺屋町新道駿河やと申茶屋の母におさいと申もの
上手故、其者結歩行、夫より女髪結之元祖の様に相成候。」
とあり、
喜田順有『親子草』(寛政九年1797)には
「三十ヶ年程以前迄は、悪場所は格別、町家の娘達の髪をゆひ候女髪結は無之候、わけて二十ヶ年〔割注〕安永ノ末ノ頃」此方は、発向にて、武家、町家とも、女髪ゆひ入込申候、其価は、女芸者などは、月極にて一ヶ月壱歩、鳥渡(ちょっと)頼候が二百文、なで付候が百文などゝ申事に候、昔のごときこき元結にこそ成間敷に、余りの事に候、其方達縦富貴に暮し候とも、左様成空侗(ウツケ)者の事に候(ママ)、決て致間敷候、右体の者家内へ入候はゞ、滅亡の基と心得可申候、」
とあります。
遊女も、もとは自分で結っていたようです。
昔は遊女も髪を手づから結はざるを耻としたる事にて、女の髪ゆひなどいふものは、たえてなきことなり。女髪結の出来たるは後の事にて、女の文書(ふみかき)といふもの多く有たり。(中略)
江戸町泉屋勘吉が抱遊女の証文とて、古き書物(かきもの)の中に、
一此女、髪結書物(ものかき)候事は、親々より教置候間御世話相懸不申候。
と有。当時の証文とは趣のちがひたる事どもなり。(以下略) (桃花園三千麿『萍花漫筆』)
安永四年1775の洒落本にも自分で髪を結う女郎が出て来ます。舞台は蒟蒻島(霊岸島埋立地の俗称)の岡場所。女郎〔おせつ〕と客の番頭がいる部屋に別の女郎〔お咲〕が来て話す所に
〔おせつ〕お咲さん。そつちを。むいて。見せな。お前の髪は。だれぞにいつて。もらつたか 〔お咲〕ムンニヤわつちかいつた。ナセ わるいか 〔おせつ〕ムンニヤヨ とんたいゝからよ。せんたへ。おまへにやア。丸まげが似合よ。(南鐐堂一片『寸南破良意(すなはらい)』安永四年1775自序)
江戸、大坂といった大都市の町方は格別、武家、村方では自分で髪を結えなければ一人前の女性とは言えないとする考えが明治になっても維持されていたらしく思われます。
どうやら自分の着物は縫うことが出来、自分の髪もまとめられます、というのがそのころの娘の嫁入り資格でしたから、髪は十二、三から、一人で結う稽古をし、互いに結い合いをして、ひとの髪も結えるようにします。女の子は、六、七歳までは、前髪と両鬢を切ってさげ、「おたばこぼん」か、小さなチョン髷に結っていました。それからお稚児の時代を四、五年経て、桃割れ、唐人髷、銀杏返し、そのあとが島田となります。そして奥さんともなれば、たとえ十五、六にせよ、自分で丸髷が結えなければなりません。銀杏返しまではとにかく、島田や丸髷を、人前へ出てもおかしくないように自分で結うには相当稽古をしなければなりません。腕がだるくなるほど髪を結ったり、ほどいたりして、どうやらまとめても、初めのうちは見っともなくて外へは出られず、ほかの人に結い直してもらうのでした。
(中略)
維新後、まだ束髪のできないうち、一時東京でも女髪結はすたったそうですが、これは地方人が多く移住し、お国風をそのまま、髪は自分で結うか、上流ならば女中、女中のない家でも親類や近処の女同士互いに結い合うことが多かったせいでしょう。髪結いの出入りする家といえば、奥さんが堅気でない証拠のようにいわれたものでした。(山川菊江『武家の女性』昭和十八年自序)
この書は明治二十三年生まれの著者が、安政生まれで水戸藩の下級武士の妻であった母から聞いた話を主にまとめたもの。
そして女髪結の起こりは大坂だったといます。
女のかみゆひはむかしはなかりしが、宝暦のすへより少しづゝ出来たり。敵討御未刻太鼓といふ浄るり本を見るに、今の世に男の取上婆々と女のかみゆひとはなきものなりと有。此浄瑠璃に書あらはしたるは享保年中(1716~35)の事也。(『浪花見聞雑話』文化十四年1817)
宝暦(1751~63)のすゑ大坂島の内に採花局(はなや)あり。これが妻を霜と云。この霜はじめて遊女の髪を結ひ出してより、野待話(おんなかみゆひ)と云者出来、漸々五十年に成れり。(田宮仲宣『愚雑俎』)
大田南畝は支配勘定の地方出役として大坂銅座に勤めていた時、この田宮仲宣に各種の質問をし、その答えを書き留めています。
一宝暦中より女の髪結出申候て、上下甚勝手と成申候。尤嬾婦出来申候様に御座候へども、せわしきくらしのものは自髪にて時を移し申候処、甚手早く日数を持申候。凡月に弐度位結ひ申候へば済申候。全体京大坂の婦女、一切髪を休候事無御座候。此髪結の初り、大坂島の内花石の霜と申もの祖にて御座候。(『所以者何』享和二年1802成)
それが江戸に移ったようです。
女髪結の起立
安永の末1781[割註]再按、山下金作、宝暦七年始て下り、安永の末は二度目の下りなり。」山下金作といふ女形下り、深川の栄木と云所に住む。時鳴の正旦なりき。此者のかつらつけ[割註]かつらの髪結なり。」仲町の妓に通じたりしに、ある日、此妓の髪を金作がかつらのやうにゆひけるを、妓輩うらやみ、謝物を贈りてゆはせけるに、のちは一度を二百銭と定めけるに、結はするもの多ければ、かつら付を止めて、妓の髪を結ふを渡世としけり。甚吉といふ若き男、弟子となり、一度を百づゝにて、妓家の仲居どもの髪までゆひけるに、百づゝゆゑ百さん百さんと呼れ、つひには名となりけり。此百は拳音声、天然婦女の如く、男に情をゆるすを好みけるとぞ。されば、女のわざなる、女の髪をゆふ事をも習ひしならん。此者後に八町堀大井戸と云所に住み、芸者どもあるひはかこひもの抔ゆひあるき、女の弟子ありて、弟子に髪をすかせ、そのあとへ廻りて結ふ。うかれ地女などゆはすれば、茶屋ものなり、驕りなりとて、他に譏らるゝ故、此悪風俗、他の女には移らざりけり。こは寛政二三年の比なり。是れ女に髪結といふ悪風起りたる起源なりけり。其後、百が孫弟子、玄孫弟子、あるひは自立の者も多くいできたる故、起立の百をくづして五十となり、三十二文又は二十四文の安売りもありて、女髪結千筋に別れ、招くものも櫛の歯をひくが如くなれば、今三十代の市中の婦女は、髪ゆふすべを知らざるにいたる。是他なし。かの百が妖風の毒を残しゝなり。然るに、維新の御時(引用者註:天保の改革のことか)に遇ひて、此妖風一時に止たるは、忝くも賢き事にぞ有ける。
百樹再按、天保十五年1844辰、大坂板に、二千年袖鑑と云ふ、事物の始原の年数のみを記したる物に、女髪結は明和七年1770より始るとあり。思ふに、件の金作がかつらつけ、妓の髪をゆひ、後には女髪結を渡世としたるも、大坂の風に拠りたるなるべし。しかりとすれば.女髪結は大坂をはじめとすぺし。(岩瀬百樹(山東京山)『蜘蛛の糸巻』弘化三年1846自序)
寛政から天保に至る世態の変遷を記したものといわれる『寛天見聞記』には、
「寛政の初めは、女髪結と云ふもの至て稀なり、堺町近辺の三光新道に、下駄屋のお政とて、髪結銭百銅にて結しも、今は類多き故か、十六銅にて結ふも有とぞ、」
とありますが、寛政七年1795には目立つようになったようで、町年寄の樽与左衛門から肝煎名主へ、他の渡世に変わるよう申し聞かせるよう指示が出されています。
寛政七卯年十月三日
前々ゟ女髪結と申、女之髪を結渡世ニいたし候者ハ無之、代銭を出し結セ候女も無之処、近頃専ら女髪結所々ニ有之、遊女并哥舞妓役者女形風ニ結立、右ニ準し衣服等迄花美ニ取飾り、風俗を猥し如何ニ候、
右為結候女之父母夫何と相心得罷在候哉、女ハ万事自身ニ相応之身嗜を可致義、貴賎とも可心掛事ニ有之、妻娘とも自身髪を結、女髪結ニ結セ不申様ニ追々可心懸候、是迄女髪結渡世ニいたし候者、家業を替、仕立物洗濯其外女之手業ニ渡世を替候様、是又追々可心懸候
右之通、御口達を町々江申渡候様ニとの御沙汰ニ候事ハ、女髪結忽ニ相止候而は、不結習女共も差当り困り可申、女髪結渡世致候ものも、今日より暮し方ニ差支可申間、追々渡世を替候心掛致候様ニとの御義、全ク御慈悲ニ而、兼而外渡世ニ移候様心懸候様ニとの御事ニ有之間、此段を弁候様、委敷教聞セ可申事
右之通今日樽与左衛門殿被申聞候間、支配限女髪結名前調置、組合肝煎立合、前書之趣得と申聞、町々江は其支配名主ゟ申聞、尤右書付写さセ候義ハ致間敷と申合
卯十月三日
右之通御達申候、右書面は各様江御控置、御支配江は被仰渡之趣御演説ニ而可被仰渡候、以上
十月八日 神田肝煎 (『江戸町触集成』第十巻)
しかしその数は減るどころかますます増えたようです。
此廿年来、女髪結といふ者出来り、遊女は此女にのみ結する事の由、此已前より、女髪結ありし事にや、予知らず、此頃は、江戸町々、其日暮しの婦女迄も結する事に成けり、油、元結等は此方より出し、一度の結賃百文ヅヽ也、昔より、相応に暮す者の婦女は、毎朝、髪結、粉飾(ケシヤウ)する事にて、今以かわらず、右髪結に委ぬる者は、持髪にて、五六日に一度結よし、(以下略)(小川顕道『塵塚談』文化十一年1814)
天保の改革では禁令として出されています。
天保十一子年1840
前々ゟ女髪結と申、女之髪を結渡世致候者は無之、代銭を出し為結候女も無之処、近頃専女髪結所々ニ有之、遊女并歌舞伎役者女形風ニ結立、右ニ準し衣服等迄花美ニ取餝、風俗を猥し如何ニ候、右為結候女之父母夫等何と相心得罷在候哉、女とも万事自分相応之身嗜可致様貴賤共可心掛事ニ候、已来軽キ者共之妻娘共自分髪ヲ結、女髪結ニ為結不申候様、追々可心褂候、是迄女髪結渡世致候もの家業を替、仕立物洗濯其外女之手業ニ渡世を替候様、是又追々可心掛候
右之通寛政七卯年十月中申渡置候所、年数相立候故等閑ニ相心得、当時専女髪結流行致、裏住居之賤しき者迄も相雇為結、無益之銭を費し候趣ニ相聞、畢竟右等ゟ町家之娘子共奢之風俗ニ成行、以之外不埒之事ニ候、巳来有渡世は堅相止、外手業営候様、町役人共厚世話致可遣候、若見遁置候者有之候ハヽ急度咎可申付候条、銘々心付候様可致候
子十二月
右之通従町御奉行所被仰渡候間、組々不洩様申通、急度可相守候
処罰もされたようです。
天保十三年1842
下谷竜泉寺町
田川屋幸治郎妻
い そ
此者義、御触之趣不相用、女髪結雇自分并召仕之女迄髪為結候に付、吟味中手鎖。女髪結右同断。
其外女髪結一人、髪為結候者九人、右同断也。
(『藤岡屋日記』)
その後弘化四年1847にも町触が出されています。
弘化四年六月
市中取締掛
名主共
女髪結之儀は厳敷御制禁之処、近年次第ニ相弛、市中徘徊いたし候趣ニ相聞候間、猥成義無之候様精々心付、紛敷者も有之候ハ丶、早々可申立
右之通惣名主支配限、月行事持之場所迄、不洩様可申通
右之通被仰渡奉畏候、仍如件
弘化四未年六月十三日
是迄張出し
右北御番所被仰渡店連判取置候事
堀江町名主
熊井理左衛門
外五人
右之通今日内匠頭様於御白洲被仰渡候間、御達申候、番屋江張出し置、店々一同行届候様御取計可被成候、以上
六月十三日 月 番
但、町々ゟ店連判取置候事
こうした取締は次のように批判されています。
天保度、官より種々の法度仰出され、其中に女の髪結をことごとく制禁なり、若も犯すものあれバ、重き御沙汰可有之旨なり、此髪結ふ手業する者、市中に殊の外多く、是らは有福に暮すものにあらず、夫の稼薄く家内人数多にて営兼るか、または夫死して女の手ひとつにて、親小児の露命やうやうつなぐなど、何れも困窮の世わたりにて、今其業を失ひ、外渡世を心ざすにも一金之元手なく、是非なく親子兄弟飢渇に迫り、夫ハ妻子を捨、欠落する者甚多く、夫なき婦人ハ乞食にもなり、果ハ官の御苦難にかゝり候も間々有之、夏秋の頃も冬のやうに出火度々あり、其中には怪しき事もきゝぬるが、是らは其日送り兼るもの悪事としりて心得違いたすものか、前に言、信陽太宰が経済録に述たるごとく、大都会ハ下下の者、利潤得る事の御主法こそ願ハしけれ、 (『真佐喜のかつら』明治)
実際の取締はそれ程でもなかったようです。というのも町奉行所では町触は出すものの本腰を入れる気は無かったように思われるからです。
嘉永五年1852町奉行池田播磨守頼方から老中阿部伊勢守宛の上申書中には次のようにあります。
女髪結御法度之起本は、畢竟市中之婦女子共身嗜を仕覚候為メ、寛政度連々相止メ候様町年寄ニ而申渡候儀ニ有之候処、相弛ミ候ニ付、猶又去ル子年中女髪結流行致し裏店住居之もの共迄相雇為結候は無益之儀ニ而、奢之風俗ニ成候ニ付急度為相止候様被仰渡、其後相背候もの共は召捕、夫々吟味之上出格之訳を以、当分之内巌重之御仕置等被仰付候儀ニ有之候得共、尚又品を替櫛道具等は先方之品相用ひ忍ひ而右様之渡世致し候段以之外之儀ニは候得共、何レも親夫等病身ニ而給続成兼候もの共之妻等、不得止事竊ニ致し成、大行之儀ニは尤相聞不申、近来右躰厳重之御処所(ママ)有之候を乍弁、右及所業候は実々窮迫之余り致し成候事情ニ而、起本は至而寛カなる町年寄共諭之趣等参考仕候得は、乍不届も隠レ忍ひ候而親夫を養候儀ニ付、於事実敢而可惜(ママ)筋ニも無之、乍去右様之儀ニ申成余業有之もの、右渡世相始増長可致気配ニも至り候ハヽ、其節取締方申付候は勿論ニ付、兼而心附候様組廻り之もの江別段申付置、(以下略)
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