落語の中の言葉239「浅草観音年の市」

     古今亭志ん生「姫かたり」より

 この落語は弁天小僧もどきの「かたり」の話で、その舞台は浅草観音の年の市です。オチも市の商人の売り声「市まけた市まけた、注連か飾りか橙か」を使い、「医者まけた医者まけた、姫が騙りか、大胆な」となっています。
浅草の年の市はたいそう賑わったもののようです。
十二月十七日 今明日、浅草寺、年の市(今日宝前には修法なし。堂前にて大黒天開運の守りを出だす。当寺境内は言ふに及ばず、南は駒形より御蔵前通り、浅草御門まで。西は門跡前より下谷車坂町・上野黒門前に至るまで、寸地を漏らさず仮屋を補理し、新年の儲けとて、注連飾りの具・庖厨(くりや)の雑器・破魔弓・手鞠・羽子板等の手遊び、その余種々の祝器をならべ售(あきな)ふ声は巷にかまびすしく、都鄙の諸人これを求むるを恒例とし、陰晴を嫌はず群集すること、さらに昼夜のわかちなく、大路に駢闐(へんてん)して〔人馬が頻繁に往来する意〕東西に道を分けかね、縦横に目も配りがたし。また裏手の方は山の宿・砂利場に満ちて夥し。この日吉原の賑はひ、いふもさらなり)。 (『東都歳事記』天保九年1838)


年の市名所図会.jpg
        『江戸名所図会』より

 年の市は各所にありましたが、浅草寺が最も盛んで、また古かったようです。

浅草観音の寺内、三月十八日三社の祭礼にて簑市あり。十二月十七日十八日、正月の祝の品々市立也。いつより初ると云事は不知。古き事也。近年は芝あたご、神田明神、糀町天神、深川八幡抔にても市立といふ。兎角まんがちの世中ゆへ、我先と取計ふも世の有様なるべし。 (柴村盛方『飛鳥川』文化七年1810序)

 縁起の良い売り声とともに「まけたまけた」と安売りを標榜しています。

古中に新しき春待道具。浅草の市には。江戸田舎の人共に入こみ群集す。観音の賽銭は白雨(ゆふだち)の降しきるにことならず。さわらをまけたまけたと。しやれ過た商人の声は。我年の寄事は忘れて。春の来る声といさみをなす。むかしは。物買人々も能ものを好。多の中にてゑり出して買をよしとす。今の世の人は気性大に違。あしき物にても価安物をこのむゆへ。ゑり残しの。らうづ物をよしとす。故に商人も通にて。今売始たものも。しまひをまけたまけたといふ也。 (時雨庵主人『百安楚飛(ひゃくあそび)』安永八年1779序)

 また、なぜ観音の境内に年の市が立つのかについては、次のように言われます。

毎年十二月十七日、十八日にたつ浅草の市は、いかなる故に正月の物を売買するとて、仏閣に参りつどふにやと、こゝろ得がたく思ひしかば、これを土老(とろう)に問ふに、この市は当初雷神門の左のかた、大神宮の摂社なる蛭子の宮の市なりき。往昔は十二月九日、十日両日なりしが、観世音の会日(ゑにち)には、参詣の老幼群聚する事、市の日にましたり。よりてこの市を十七、十八両日にせば便宜なるべしとて、遂にその事を聞えあげて、今のごとくにはなりしといへり。しかるや否はしらず。 (簑笠漁隠(馬琴)『燕石雑志』文化七年1810序)

 この浅草の市にはいくつか特徴がありました。市で大黒天の像を盗むと富貴になるという俗信。これはすでに「大黒」で紹介しました。また縁起物として張子や木製の陽物が売られていました。

『川柳末摘花詳釋』(岡田甫著)には
  ふだらくに二日へのこの山をつき  (末四28)
の句について「主題句の『山を築き』は、この大小のファロス状のものが、年の市には山のやうに並べられてゐたといふ意である。」とあり、次の句をあげています。

  失禮な賣物の出る市二日      (三一25)
  とんてきな商売をする市二日    (安四桜4)
  閉乃古見世まりや達磨とばかり呼び (天三智2)
  市の張形は男へ売れるなり     (安八仁5)
  張形の男へ売れる賑かさ      (安九禮6)
  志道軒このかた閉乃古市で売れ   (天二義3)
    志道軒はリンガを扇子代りに使用した浅
    草の有名な大道講釈師。
  買物は裏白根松閉乃古なり     (天五禮4)
  市土産やれ手まりだの閉乃古だの  (天元天2)
  間に合はぬ閉乃古が二日売れる也  (天五宮3)

 「ふだらく」は普陀落山で、観音菩薩の居る山。ここでは浅草観音をさします。
浅草観音の年の市で陽物が売られるようになったことについては、次のような話があります。

   ○年の市張形男根の起
鳩渓遺事に云(割註 此の本は平賀源内の事をあらはせし本なり」或人家産を失ひ歎くもの有しかば、平賀源内活業の一奇計を教へて曰く、今浅草年の市も近ければ何か面白き物あるべし、凡そ世の人皆目出度を喜べば、よき品こそあれ、張子にて陽物をこしらへ金箔を置て是を商ひ其の言葉にえんきえんき御利生御利生とて売しなばよかろべしと云ふ、此者大に歓びて売し処、按の如く売れて幾許の利潤を得しと云ふ、是より年々年の市には此の陽物なければならぬやうになりしこと、この源内の工夫より始ると云ふ、面白き工夫なりと皆々感じけると云々、(宮川政運『俗事百工起源』慶応元年1865?)

 また浅草観音の市に限らず、江戸の人込みでは女性の尻をつねる悪戯がしばしばあったようです。そのため以前は浅草の市へも女性はあまり出かけなかったといいます。出る場合も男性の姿になったと川柳では詠まれています。
同じく『川柳末摘花詳釋』には
  としの市男に化してねれるなり  (末三25)
という句について次のようにあります。

 この年の市はあまり夥しい人出のため、女子などは決して行かなかつたものであるが、もし行く時は、男装をしてゆかねばならなかつた。
 女裝のまゝだと人込みにまぎれて、尻などを抓る悪戯者が多かつたためである。
  変生男子御内儀は市へ立ち       (十八22)
  噌らしいなりで女房は市へ立ち     (安八松5)
  市へ立つ女房は髭のないばかり     (安元智2)
  革羽織はぐれまいぞと捕(とか)まらせ (明五智6)
 即ち女には男の着る革羽織などを着せ、防備厳重な男装をさせた。しかもなほ、
  股を引つ掻かれて女房市にこり     (安四亀3)
  女房は手のつけられぬ市戻り      (明五信3)
といふ状態であつた。主題句は、男装をした女房が年の市へいつて、大いに練れて戻つて来たとの句。しかし、
  年の市に、女子は決して出ざりしが、近来女子大勢出る。(『続飛鳥川』文化七年)
といふ記述もあるから、本編の時代から廿年ぐらゐ後には、次第に女子も相当数は年の市へ行くやうになつたものらしい。

 また『東都歳事記』に「この日吉原の賑はひ、いふもさらなり」とあるように、市の帰りに吉原へ行く者も多かったようです。あるいは市は口実で。

   供部やを手桶でふさぐ市の客    誹風柳多留三
   ほとぼりがさめぬで市の足を留   誹風柳多留三
   かい物が違ふとおそく市へたち   誹風柳多留九
   百両とへのこを禿床に置      誹風柳多留一七
   弓削の道鏡参内と市の客      誹風柳多留四二

「ほとぼりがさめぬで」とあるのは、紅葉狩りを口実に品川で遊んでからさほど間がないの意でしょう。
「百両とへのこ」の百両は縁起物の小判でしょうか、陽物などとともに売られていたものと思われます。へのこ(陽物)とともに床の間に置くというのです。
 亭主を市へ出すと帰りに吉原へ寄って帰ってこないため

   亭主をばいゝこめ内義市へたち   誹風柳多留九

また吉原へ行かずに真っ直ぐ帰ると

  女房へ恩は其日の市もどり     誹風柳多留三
  市帰り大戸上げろとしよつて居る  誹風柳多留五
 後ろの句の前句は「ほめられにけりほめられにけり」です。


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