気になる言葉11「本所松坂町の吉良邸」
赤穂浪士の討入りを語る時、「本所松坂町の吉良邸」と言われる事がありますが、本所松坂町に吉良邸があったわけではありません。家禄4,200石の旗本である吉良家の屋敷は武家地にあります。武家地に「町」はありません。
そもそも「本所松坂町」という町が、討入りの当時存在したのかどうかも問題です。
竹内 誠氏は『元禄人間模様』(平成十二年一月刊)に次のように書かれています。
また、近松鴻二氏は「吉良邸と幕府の犬小舎が描かれるー改撰江戸大絵図」(江戸東京博物館監修『江戸の町を歩いてみる』2002.09)の中で次のように述べておられます。
「鍛冶橋付近」というのは誤りで、松の廊下事件当時の吉良邸は呉服橋御門内にありました。元禄十一年の大火で鍛冶橋御門内から呉服橋御門内にかけての地区は類焼し、吉良邸は鍛冶橋御門内から呉服橋御門内に移っています。
左、元禄十二年1699、右、天和二年1682、 江戸大絵図より
「本所松坂町」には一丁目と二丁目の二つの町があります。その近辺を支配する名主の文政十一年九月の報告(本所松坂町の町方書上)によれば、一丁目と二丁目の町の起立は次の通りです。
本所松坂町壱丁目
一、町内起立之儀は北側西側之地所は元明地ニ而有之候処、元禄九子年十二月七日拝領町屋敷ニ相成、東側之分は元御竹蔵跡ニ而元禄初年之頃近藤登之助殿屋敷ニ相渡り、其後吉良上野介殿下屋敷ニ相成候処、元禄十六未年1703十一月上り屋敷跡拝領町屋敷ニ相成申候、依之町名松坂町壱丁目と相唱申し候、(以下略)
引用者註:本所松坂町壱丁目の惣坪数1,018坪余 内東側は240坪(南北京間拾弐間、東西同弐拾間)
本所松坂町弐丁目
一、町内起立之儀は元御竹蔵跡、元禄初年之頃近藤登之助殿屋敷ニ相成、其後年月不知吉良上野介殿下屋敷ニ相渡候処、元禄十六未年1703十一月上り屋敷ニ相成、右跡宝永年中(1704~10)町屋ニ相成候ニ付町名松坂町弐丁目と相唱申し候、(以下略)
引用者註:本所松坂町弐丁目の惣坪数1,545坪余(九ヶ所に分かれる)
なお、「吉良上野介殿下屋敷」とありますが、旗本でも御側・大番・高家衆は下屋敷を拝領することもあったようですが、吉良家が本所の他に上屋敷を拝領していたかどうかは知りません。赤穂浪士討入りの時、当主である義周もこの屋敷に居たことから「下」屋敷というのは間違いかと思われます。
松の廊下事件以後の吉良邸と松坂町関連の年表は次のようになります。
元禄十四年三月十四日、松の廊下事件
元禄十四年三月廿六日、上野介義央高家の職を退く
元禄十四年九月、吉良邸を呉服橋御門内から本所へ移す
元禄十四年十二月十一日、上野介義央隠居、左兵衛義周家督
元禄十五年十二月十五日未明、吉良邸を赤穂浪士襲撃、義央の首をあげる
元禄十六年二月四日、大石内蔵助を初め四十六人切腹
同日、吉良左兵衛義周改易の上、諏訪安芸守忠虎へお預け
元禄十六年十一月、吉良家上り屋敷跡の一部、拝領町屋敷となり松坂町壱丁目起立
元禄十七年三月、宝永と改元
宝永年中、吉良家上り屋敷跡の残り、拝領町屋敷となり松坂町二丁目起立
吉良邸の場所の絵図をあげます。右から元禄十二年 元禄十五年、その後(時期不明)
絵図の上が西です。
本所松坂町二丁目という町は、吉良邸がなくなったあと、宝永年中にその跡地にできたことはハッキリしていますが、一丁目の方がハッキリしません。
「本所松坂町一丁目」は北側、西側、東側の三つに分かれていて、東側の土地だけが吉良邸跡地です。その東側が、「元禄十六未年十一月上り屋敷跡拝領町屋敷ニ相成申候、依之町名松坂町壱丁目と相唱申し候」とあって、「町方書上」当時の「本所松坂町一丁目」という町ができたのは吉良左兵衛義周改易後の元禄十六未年十一月であることは分かりますが、それ以前に「本所松坂町」という町が存在したのか、しなかったのかが不明です。というのは、北側と西側は「元禄九子年十二月七日拝領町屋敷ニ相成」とあるからです。その時何という町が出来たのかは書かれていません。一方、元禄十二年の絵図にも、吉良邸が本所にあった元禄十五年の絵図にも、その「町」は載っていません。しかし、これらの絵図に載っていないからといって、そこに町が無かったとも断定出来ません。というのも、竪川沿いのところに「あいおい丁」と書かれていますが、相生町は一丁目から五丁目まであって、すべて元禄十年までに成立しています(各町の「町方書上」)。ところが、上の絵図には相生町一丁目のところに「あいおい丁」と書かれているだけです。二丁目以下のスペースは空白で載っています。この絵図も当時の状況を正しく表わしていません。したがって、以上の資料だけからでは、赤穂浪士討入りの時点で、「本所松坂町」という町が存在したかどうかは不明です。
可能性としては次の場合が考えられるかも知れません。「本所松坂町一丁目」のうちの北側と西側が元禄九年に「本所松坂町」として起立し、元禄十六年十一月に吉良邸跡地の一部が町屋敷となって「本所松坂町」に編入され、宝永年中に吉良邸跡地の残りの大部分が町屋敷になった時、それまであった「本所松坂町」が「本所松坂町一丁目」になり、新たに出来た町が「本所松坂町二丁目」となった。この場合には赤穂浪士討入りの時点で「本所松坂町」が存在したことになります。しかし、その場合でも、通りを挟んで東側が吉良邸、西側が「本所松坂町」であって、「本所松坂町」に吉良邸があったわけではないことにかわりありません。
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そもそも「本所松坂町」という町が、討入りの当時存在したのかどうかも問題です。
竹内 誠氏は『元禄人間模様』(平成十二年一月刊)に次のように書かれています。
元禄十四年(一七〇一)三月十四日、江戸城中の松の廊下において赤穂藩主浅野内匠頭長矩は、高家筆頭の吉良上野介義央に切りかかり傷を負わせた。浅野長矩は即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易となった。これが、いわゆる「赤穂事件」の発端である。 その一年十ヶ月後の元禄十五年十二月十五日の未明、元赤穂藩家老の大石内蔵助良雄ら赤穂浪士四十七名が、本所(墨田区)の吉良邸に討入り、義央の首を討って芝の泉岳寺(港区)にある亡君長矩の墓前に捧げた。(中略)
ここで、先に記した「その一年十ヶ月後の元禄十五年十二月十五日の未明」云々の文につき、いささか注釈を付しておこう。
一年九ヶ月でなく「一年十ヶ月」と記したこと
十二月十四日の夜でなく「十二月十五日の未明」と記したこと
本所松坂町でなく「本所」と記したこと
吉良邸の所在地を、単に「本所」と記したが、詳しく記すとすれば本所松坂町ではないかという意見に対してである。私も以前はそのように思い込んでいたことが、これは誤りであった。江戸の武家屋敷地には、もちろん例外はいくらでもあるが、原則として町名がついていない。そこで吉良邸が本所のどこかを、もう少し限定していうとすれば、吉良邸は、一ツ目橋と二ツ目橋の中程の北側にあったから、あまり正確ではないが、本所一ツ目とか本所二ツ目という言い方はできる。
事件後の元禄十六年に、吉良邸は収公され、その跡地が町屋となって本所松坂町が成立した。したがって大石らによる吉良邸討入りの時点では、まだ松坂町という町は江戸になかったのである。
また、近松鴻二氏は「吉良邸と幕府の犬小舎が描かれるー改撰江戸大絵図」(江戸東京博物館監修『江戸の町を歩いてみる』2002.09)の中で次のように述べておられます。
松の廊下事件当時、江戸城にほど近い鍛冶橋付近に住んでいた義央は、半年後の(元禄十四年)九月本所に移され、十二月に隠居した。義央は同年十二月十四日夜(正確には十五日未明、一七〇三年一月三十一日)内匠頭の遺臣四十七名に襲撃され、命を落した。(中略)吉良家は元禄十六年二月に改易となり、屋敷は取り壊された。敷地は町人地になり、本所松坂町二丁目が起立した。したがって本所に吉良邸が存在したのはわずか一年半であった。(以下略)
「鍛冶橋付近」というのは誤りで、松の廊下事件当時の吉良邸は呉服橋御門内にありました。元禄十一年の大火で鍛冶橋御門内から呉服橋御門内にかけての地区は類焼し、吉良邸は鍛冶橋御門内から呉服橋御門内に移っています。
左、元禄十二年1699、右、天和二年1682、 江戸大絵図より
「本所松坂町」には一丁目と二丁目の二つの町があります。その近辺を支配する名主の文政十一年九月の報告(本所松坂町の町方書上)によれば、一丁目と二丁目の町の起立は次の通りです。
本所松坂町壱丁目
一、町内起立之儀は北側西側之地所は元明地ニ而有之候処、元禄九子年十二月七日拝領町屋敷ニ相成、東側之分は元御竹蔵跡ニ而元禄初年之頃近藤登之助殿屋敷ニ相渡り、其後吉良上野介殿下屋敷ニ相成候処、元禄十六未年1703十一月上り屋敷跡拝領町屋敷ニ相成申候、依之町名松坂町壱丁目と相唱申し候、(以下略)
引用者註:本所松坂町壱丁目の惣坪数1,018坪余 内東側は240坪(南北京間拾弐間、東西同弐拾間)
本所松坂町弐丁目
一、町内起立之儀は元御竹蔵跡、元禄初年之頃近藤登之助殿屋敷ニ相成、其後年月不知吉良上野介殿下屋敷ニ相渡候処、元禄十六未年1703十一月上り屋敷ニ相成、右跡宝永年中(1704~10)町屋ニ相成候ニ付町名松坂町弐丁目と相唱申し候、(以下略)
引用者註:本所松坂町弐丁目の惣坪数1,545坪余(九ヶ所に分かれる)
なお、「吉良上野介殿下屋敷」とありますが、旗本でも御側・大番・高家衆は下屋敷を拝領することもあったようですが、吉良家が本所の他に上屋敷を拝領していたかどうかは知りません。赤穂浪士討入りの時、当主である義周もこの屋敷に居たことから「下」屋敷というのは間違いかと思われます。
松の廊下事件以後の吉良邸と松坂町関連の年表は次のようになります。
元禄十四年三月十四日、松の廊下事件
元禄十四年三月廿六日、上野介義央高家の職を退く
元禄十四年九月、吉良邸を呉服橋御門内から本所へ移す
元禄十四年十二月十一日、上野介義央隠居、左兵衛義周家督
元禄十五年十二月十五日未明、吉良邸を赤穂浪士襲撃、義央の首をあげる
元禄十六年二月四日、大石内蔵助を初め四十六人切腹
同日、吉良左兵衛義周改易の上、諏訪安芸守忠虎へお預け
元禄十六年十一月、吉良家上り屋敷跡の一部、拝領町屋敷となり松坂町壱丁目起立
元禄十七年三月、宝永と改元
宝永年中、吉良家上り屋敷跡の残り、拝領町屋敷となり松坂町二丁目起立
吉良邸の場所の絵図をあげます。右から元禄十二年 元禄十五年、その後(時期不明)
絵図の上が西です。
本所松坂町二丁目という町は、吉良邸がなくなったあと、宝永年中にその跡地にできたことはハッキリしていますが、一丁目の方がハッキリしません。
「本所松坂町一丁目」は北側、西側、東側の三つに分かれていて、東側の土地だけが吉良邸跡地です。その東側が、「元禄十六未年十一月上り屋敷跡拝領町屋敷ニ相成申候、依之町名松坂町壱丁目と相唱申し候」とあって、「町方書上」当時の「本所松坂町一丁目」という町ができたのは吉良左兵衛義周改易後の元禄十六未年十一月であることは分かりますが、それ以前に「本所松坂町」という町が存在したのか、しなかったのかが不明です。というのは、北側と西側は「元禄九子年十二月七日拝領町屋敷ニ相成」とあるからです。その時何という町が出来たのかは書かれていません。一方、元禄十二年の絵図にも、吉良邸が本所にあった元禄十五年の絵図にも、その「町」は載っていません。しかし、これらの絵図に載っていないからといって、そこに町が無かったとも断定出来ません。というのも、竪川沿いのところに「あいおい丁」と書かれていますが、相生町は一丁目から五丁目まであって、すべて元禄十年までに成立しています(各町の「町方書上」)。ところが、上の絵図には相生町一丁目のところに「あいおい丁」と書かれているだけです。二丁目以下のスペースは空白で載っています。この絵図も当時の状況を正しく表わしていません。したがって、以上の資料だけからでは、赤穂浪士討入りの時点で、「本所松坂町」という町が存在したかどうかは不明です。
可能性としては次の場合が考えられるかも知れません。「本所松坂町一丁目」のうちの北側と西側が元禄九年に「本所松坂町」として起立し、元禄十六年十一月に吉良邸跡地の一部が町屋敷となって「本所松坂町」に編入され、宝永年中に吉良邸跡地の残りの大部分が町屋敷になった時、それまであった「本所松坂町」が「本所松坂町一丁目」になり、新たに出来た町が「本所松坂町二丁目」となった。この場合には赤穂浪士討入りの時点で「本所松坂町」が存在したことになります。しかし、その場合でも、通りを挟んで東側が吉良邸、西側が「本所松坂町」であって、「本所松坂町」に吉良邸があったわけではないことにかわりありません。
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