落語の中の言葉238「下谷山崎町」

     五代目古今亭志ん生「黄金餅」より

 「黄金餅」の西念は下谷山崎町の貧乏長屋に住んでいます。江戸期の下谷山崎町には実際に貧乏長屋が多かったようです。

下谷山崎町切絵図.jpg
        嘉永三年近吾堂板の切絵図(部分)
 因みに地図にある「高岩寺」は、現在巣鴨にある「とげ抜き地蔵」と呼ばれるお寺で、明治二十四年にここから移転しています。

安政三年1856二月二十四日より六十日の間、下谷高岩寺延命地蔵開帳(世にとげ抜き地蔵といふ)。(『武江年表』)

 下谷山崎町に貧乏長屋が多かったのは、この町が黒鍬之者の大縄拝領地から成立したためだと思われます。江戸の土地は明治二年の調査によると武家地が七割ほど町人地と寺社地が各一割五六分に区分されていました(内藤昌『江戸と江戸城』)。
 幕府は旗本・御家人に屋敷を与えていますが、旗本の屋敷は武家地で、町人に貸すことは禁止されています。旗本より少禄の御家人には、町人に貸すことが出来るように町屋敷として与えたり、武家地から町人地(町屋敷)への変更を許可している場合もあるようです。その場所は多くは場末でしょう。
 御家人は大きく分けると、譜代と抱入とになります。譜代は家禄があるもので、相続が可能です。抱入は一代限りの職禄で相続はできません。実際には多くの場合その子が同じ職に就きますが、新たに抱入れられた形をとります。譜代には拝領屋敷がありますが、抱入席の者には個人別の拝領屋敷はありません。その所属する組全体の分として与えられた屋敷を「大縄拝領屋敷」といいます。黒鍬之者の「大縄拝領屋敷」も町屋敷への変更を願出て許可され、その一部を町人に貸しています。町屋敷を拝領した譜代席の御家人も、黒鍬之者と同様に拝領町屋敷の一部を町人に貸して生活費の一部に充てています。
僕レ今三十俵三人扶持ヲ賜ハレリ、之ヲ今蔵宿無借シテ、年分ノ収納三十俵ノ内、札ノ差シ料、諸色ノ入用等ヲ差引キテ、僅十両前後ナリ、而シテ最上ノ拝領地ヲ賜ハリテ、之レヲ他貸シ付ケ、是亦年分ノ上リ、僅金二両前後トス、然ラバ年分ノ収納、総合シテ十二両トス、之ヲ一ケ月配当シテ、金一両ヅツナリ、然ル僕ガ如キハ、親夫婦妻子供二人、自分共都合六人暮シシテ.三人扶持ハ食料不足、依テ三十俵ノ内、当時十五俵ハ、以テ食料充ツルナリ、然ラバ残り十五俵ノ米ハ、僅金五両前後地代二両ヲ加ヘテ、僅金七両ナリ、此内勤メ向キ、仲間ノ諸雑費トシテ、年分一両前後ヲ差出シテ、全ク残ル処ノ金六両前後ナリ、(以下略)(大久保仁斎「富国強兵問答」安政二年1855 『史料による日本の歩み 近世編』)

 下谷山崎町一丁目の一部が公収され、代地として成立した浅草浅留町について、小森隆吉氏は『江戸浅草町名の研究』(昭和五十九年)に次のように書かれています。
 浅草浅留町。元禄十一年(一六九八)十月、下谷山崎町一丁目の一部が公収された。翌年、三十三間堂跡地の内に、代地の給付を受け、下谷山崎町一丁目から黒鍬組の者が移り住んだ。黒鍬組は黒鍬者とも呼ぶ。戦国時代には軍備・土工の役を勤め、江戸時代には江戸城の警備・作事・防火を職務とし、また城内の掃除・荷物の運搬も勤めた。慶応三年(一八六七)の食禄は十二俵一人扶持。時代によって、食禄は若干変ったものの、いずれにしろ軽輩の士であった。山崎町一丁目は明治二年に万年町一丁目と改称し、現在は東上野四丁目の内になっている。浅留町は元禄十二年三月二十六日、町並屋敷とされ、同年九月三日には町奉行支配地とされた。武家方支配地から町方支配地に変更されたのにともない、浅留町の名が付定されたのではないだろうか。町名の由来は不明である。

 下谷山崎町一丁目・二丁目・浅草浅留町の「町の起立」は、文政九年九月の町方書上によると次のようでした。

  一、元和二年1616、黒鍬之者百人の大縄拝領地となる
  一、元禄十一年1698十月、その一部三百八十五坪が六郷伊賀守の御用地に
    召し上げられ、浅草三十三間堂跡に代地を与えられる。
  一、元禄十一年十一月、町屋敷にするよう願出る
  一、元禄十二年三月、願いの通り町屋敷に仰付られ、下谷山崎町一丁目・
    二丁目となる。同時に代地も町屋敷となり浅草浅留町となる。
  一、元禄十二年九月、町奉行所支配となる。
  一、享保九年1724より公役銀を納める

町内惣家数
 下谷山崎町一丁目 二百六十七軒。
          地主四十九軒・名主一軒・家守五軒・地借十軒・
          店借二〇三軒
 下谷山崎町二丁目 三百四十四軒。
          地主四十六軒・家守五軒・地借十七軒・
          店借二百七十七軒
 浅草浅留町    十九軒。

 惣家数は内訳の合計と一致しません。浅草浅留町の内訳は記載がありません。
一丁目二丁目とも大多数が店借です。

この下谷山崎町について吉田伸之氏は『成熟する江戸』の中で次のように説明されています。
 同町は一、二丁目の二町からなるが、「黒鍬屋敷大縄地」という特殊な性格を持った。ここは当初元禄期に、黒鍬(作事や普請に携る)とよばれる御家人百人に対して一括して与えられた町で、大縄拝領町屋敷とよばれる。一八二六年(文政九)当時には、こうした御家人ー拝領地主とよぶーは九十五名で、役職は御目付支配無役(十六人)、御庭方(十五人)など三十一種に及び、黒鍬は十二名となっている。つまり黒鍬の拝領町屋敷から、多様な役職が混在する町へと大きく変わっていることがわかる。町屋敷の大半は八十~九十五坪に集中し、ほぼ均等に分割されたことがうかがえる。
 また地主を含めた家数や、家守・地借・店借数は次頁表のとおりである。(引用は省略)店借が圧倒的に多く家数の八〇パーセント前後に及ぶ。こうした様相を、二つの町屋敷図から見ておこう。次頁右側の図は同町二丁目の一橋徒(御三卿の一橋家に付せられた下級の幕臣)中島専之助の一八〇八年(文化五)における拝領町屋敷図である。ここは当時更地であり、新たに長屋を作ろうとした時の見積り図である。町内における位置は未詳だが、間口七間・奥行十四間三尺、七十五坪の町屋敷の地内はすべて店借に賃貸すべく計画されていることがわかる。裏店は十軒あるが、いずれも「九尺二間」の零細な借屋である。当の地主がこの地面内に居住するか否か、図からはわからない。
 左側の図は、同じ二丁目の目付支配無役高原八十次郎が拝領していた地面の、一八二九年(文政十二)における現状を示すものである。町屋敷の表間口は五間半、奥行は十四間という規模である。一番奥に地主住居(二十一坪余)があり、このほかは二軒の表店(一軒は地借〔アミ部分〕)、五軒の裏店ーこれも九尺二間ーに賃貸されている。
 この図からうかがえるように、拝領地主であるこれら御家人たちは、幕府から与えられた市中場末の町屋敷の大半を地借や店借に賃貸し、その経営ー町屋敷経営とよぶーを家守にゆだねながら地代・店賃を収取し、これをもってわずかな切米(俸給として与えられる米)収入の補助としているのである。

   
下谷山崎町長屋.jpg

 町方書上によれば、黒鍬之者百人の大縄拝領地になったのは元和二年1616で、この時点では武家地です。83年後の元禄十二年1699に町屋敷への変更が許可され町人地となり、町人へ貸すことが出来るようになりました。そして拝領町屋敷の多くが「九尺二間」の零細な長屋として貸し出されています。しかも天保十三年時点では、乞胸頭仁太夫をはじめ、乞胸749人のうち478人がこの町に住んでいます。また願人の宿所83軒のうち7軒も下谷山崎町二丁目にありました。乞胸の宿も願人の宿も「ぐれ宿」と呼ばれ、六十六部、千ヵ寺順礼、金比羅・伊勢参りなどの類も逗留していました。
 八丁堀地区に集住していた町奉行所の与力・同心も拝領屋敷の一部を貸しています。中には自分は別の所に借家して、拝領屋敷全部を貸している者もいます。与力の拝領屋敷は武家地なので町人に貸すことが出来ないため(慶応四年1868に許可される)、医者などに貸しています。武家以外で貸すことが出来る相手は次の者です。「藩中並扶持人諸科醫師鍼冶導引の類樂人猿樂御用達町人又は御用逹諸棟梁の外、武術師範歌學者儒者素読指南、書家手跡指南画家、躾方點茶挿花聞香蹴鞠、連舞(ママ)俳諸圍碁將棋指南、浪人にても武家方家來名目有之検校勾當の類、何れも其頭支配え届に相成候程の者は差置不苦、但三味線指南は盲人に限、尤芝居え出る者は不相成」。(『青標紙』前編 天保十二年1841)
 一方同心の拝領屋敷は町屋敷なので町人に貸しています。やはり九尺二間の長屋が多かったようですが、場末の下谷山崎町と違い江戸中心部に近いところから店賃は倍程になっていました。

八丁堀細見&貸長屋S.jpg
  左は尾張屋板「八丁堀細見絵図」の一部分、右は中村静夫「新作八丁堀組屋敷図」解説1981より

「八丁堀細見絵図」で赤は南町、青は北町、「カ」は与力です。
嘉永元年の銭相場は金1両(=銀60匁)が6,500文に固定されていましたので、銀8.5匁は約920文になります。9尺x2間は3坪です。


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