落語の中の言葉237「ヤシ(香具師)の続き-乞胸」

 乞胸というのは特殊で、身分は町人でありながら、その生業は非人と同様の者です。その職を行う事については非人頭善七の支配を受けています。
 その辺の事情を文政九年1826に乞胸頭仁太夫が住む下谷山崎町一丁目の名主が書上げていますので次ぎに紹介します。

一明和五子年1768中より町内に罷りあり候乞胸頭山本仁太夫と申す者起立の儀、往古長嶋磯右衛門と申す浪人これあり、当時は小嶋上町と唱え、その砌は薬師堂前と相唱え候場所に罷りあり。所々寺社境内ならびに明地などにて草芝居、その外種々見世物など仕り渡世送り候ところ、おいおい同様の者差し加わり、大勢に相成り、磯右衛門儀世話致し罷りあり候ところ、善七手下の者仕来たり候家業にこれあり、右の者ども迷惑致し候間にて差し留められ候ゆえ、仕馴れ候儀につき、右家業躰に拘り候儀は、自今善七支配を請け申すべき積りに対談の上、慶安の度その段中御番所石谷将監様御勤役の節、磯右衛門・善七両人よりお願い申し上げ、すなわち、磯右衛門儀乞胸頭に相成り、町人にて右躰家業致し候者は、これまた家業ばかり磯右衛門支配仕り、その節より鑑札相渡し、一人前四十八文ずつ毎月請け取り、浅草溜り近辺出火の節は囚人警固として人数二十人ずつ召し連れ、相詰め来り候。もっとも、寺社境内そのほか明地辻々へ罷り出で、家業仕り候者何国より参り候や、身元聢と相知れ申さず候者はこれあるべく候間、右取締りとして家業筋支配に仰せ付けられ候儀に御座候て、往古より家業場所相廻り、諸事心づけ来たり、当仁太夫まで十一代相続仕り候。もっとも、往古の書き留めなどたびたびの類焼にて焼失仕り、くわしき儀は相知れ申さず候えども、前々より町宅仕り、家業ばかり善七支配を請け来り申し候。かつ、往古より仕来り候家業左の通り。
一綾取り 猿 若 江戸万歳 辻放下
一操り  浄瑠璃 説 教 物真似
一仕形能 物読み 講 釈 辻勧請
 右の外にても、所々寺社境内ならびに明地葭責(簀)張り、水茶屋の内にて見世物仕り、木戸銭申し請け、或いは芸など仕り、惣じて見物人より銭を申し請け候者は、往古より仁太夫支配にこれあり。もっとも、古来より致し来たり候家業の内見古し候品は家業に相成り申さず候間、時々品を替え渡世仕り候儀の由。もちろん、寺社境内にて草芝居の儀は、正徳四年中寺社御奉行森川出羽守様御勤役の節、御停止仰せ付けられ候につき。それより配下の者ども編笠を冠り、謡浄瑠璃・三味線を弾き、その外種々の芸など仕り、門々へ立ち銭を申し請け家業仕来り候。かつまた、所々寺社境内ならびに町々へ仁太夫手下の者日々相廻り、乞胸同様の家業致し候者見当たり候えば、鑑札の有無を相尋ね、鑑札これなき家業筋乞胸支配の旨弁えざる者は、右家業は乞胸支配筋の旨、得と申し聞かせ、慥かなる者請人に取り、御法度の儀は申すに及ばず仲ヶ間作法を相守らする旨の一札を取り、支配仕来り候。もっとも、乞胸支配筋の儀存じながら家業内證にて鑑札これなき者は道具取り、相詫び候上は、その品相返し、いよいよ家業致し候えば、鑑札相渡し支配に致し候定法の由、もっとも、仲ヶ間入りの者これあり候節は、そのたびたび、善七方へ相届け候由、右仲間家業相止め候節は、これまた相届け、鑑札差し戻し勝手次第仲間相除き申し候。この儀、家業ばかりの支配にこれあり候えば、仁太夫儀も同様に家業相止め候えば、善七方引合い候儀これなく候。全く家業仕り候内ばかり支配請け候儀にこれあり、家業筋の儀につき、諸御役所よりお呼び出しの節は善七方同道にて罷り出で申し候。身分の儀につき、お呼び出しの節は、町役人差し添え候て罷り出で候。乞胸家業の儀は、善七支配請け候えども、仁太夫始め仲間の者ども、元来町人に紛れ御座なく候間、町法町並相勤め来たり申し候。浪人者など古主より帰参相願い候うち渡世これなく、乞胸に相成り候者は脇差など帯し、家業に罷り出で候ところ。安永二巳年1773三月中町御奉行牧野大隅守様御勤役の節、乞胸の者ども帯刀は申すに及ばず、脇差躰の者家業先ヘ一切無用仕るべき旨仰せ渡され、その節より支配一統脇差躰のもの堅く差し留め申し候。乞胸住所の候は、所々これあり申し候。夜分門づけ致し候者、または素人にても浄瑠璃を語り、銭を乞い候者は鑑札相渡し、毎月二十八文ずつ請け取り支配仕り候。日々袖乞いに罷り出で候者の儀は、前書家業づきにこれあり候辻勧請にこれあり。無芸成るもの。または妻子どもの稼ぎにて、身分は町人にて御座候。

  文政九戌年九月            下谷山崎町一丁目
                      月行事 丈 八
                      五人組 忠兵衛
                      名 主 藤 七
         (『江戸町方書上(三)下谷・谷中』)

それぞれの家業の内容について、乞胸頭仁太夫は天保一三年1842に次のように説明しています。(「乞胸家業書上」)

  一綾取    竹之房ヲ付、是ヲ持而曲取り申候事
  一猿若    芝居狂言仕候役者也
  一辻放下   手玉ヲ取或は手妻等之事
  一浄瑠璃   惣而三味線合語り唄候事
  一物真似   芝居役者之口上ヲ真似、身振ヲ似セ或は鳥獣真似致候亊
  一物読    古戦物語り等之本ヲ読候事
  一江戸万歳  三河万歳之真似年中仕道家万歳之事
  一操り    箱目鏡ヲ付中之摸様見世候事或は人形抔遣ひ候亊
  一説教    昔物語節ヲ付ケ語り候事
  一仕方能   能之真似ヲ仕候事
  一講釈    太平記或は古戦物語り又は四書五経等講釈仕候事
  一辻乞胸   寺社境内町々所々罷出、銭ヲ乞候もの之事

 「辻乞胸」はもと「辻勧進」と云っていましたが、願人と乞胸の出入り(訴訟)の際に寺社奉行大久保安芸守から「勧進」という言葉は仏道に係わるもの故に使用を禁止されたため「辻乞胸」と書上げています。

 例えば、乞胸の一種の芥子之助について、二代目瀬川如皐は『只今御笑草』(文化九年自序1812)に次のように書いています。
芥子之介只今御笑草.jpg
 これまた、観音の奥山に出て人を集め、
 豆と徳利を手玉にとりて、合には鎌を
 なげて、空中にて豆切るのれんまん、
 其外、かな輪、まくらの曲放下、手づ
 まのしなじな、今もその跡のこりて、
 浅草寺の境内に見る事のあれば、くわ
 しくいふにおよばず、

 ヤシ(香具師)は、建前上は売薬が本業で、芸などを行うのは客集めのための「愛敬」ということになっていますが、乞胸は物は売らず芸とは言えないようなものも含め、何らかの行為をして銭を貰うことが家業です。ただし「辻乞胸」はなにもせず、非人乞食と同じです。

 仁太夫は奉行所からの尋ねに対し、何回か文書を提出しています。その中には文政九年の名主書上げに書かれていない事項もありますので、その分を次ぎに掲げます。

寛政五丑年1793書上 (『類集撰要』)
*鑑札料之儀は役儀と申往古ゟ家内は何人御座候共壱ヶ月銭四拾八文尤家業柄依三拾弐文弐拾四文と取立申候、外出銭揚と申候儀一切無御座候

*乞胸仲間支配之分人数日々出入御座候へは定候事は無御座候得共凡四百人程、尤家内共

*私住宅之儀十坪程住居いたし罷在、家内四人暮而召仕は御座なく候へ共、手代共近所罷在候得は仲間諸用等間似合申候、私義諸用之間手透之節は持前之家業罷出候

寛政十一未年1799書上 (『類集撰要』)
*乞胸家業仕候もの相渡候鑑札之義は壱人壱枚つゝ相渡来候、幼年之もの親共付添家業出候者は其親相渡子供は相渡不申候、尤幼年而も親病気等而不罷出、右幼年之もの壱人而家業出候者は鑑札相渡候、尤稀成義御座候、右之通銘々鑑札請置家業出候節は急度持参可仕旨堅申付置候

*鑑札之儀家内不残乞胸家業出候得は不残鑑札相渡亭主斗出候へは亭主斗相渡、家内には相渡不申候、尤家内江鑑札相渡候而も亭主壱人より四拾八文宛請取来候

*男女不限何拾歳以上は定候儀も無之候得共、乞胸仲間年久鋪罷在老衰致、身躰不相叶候者には鑑札料請取不申候、尤右躰之者而も辻勧進家業は相成候間、鑑札は相渡置儀御座候、老人而も達者候得は定之通四拾八文請取申候、年若而も手足不自由之者は鑑札料差出候義相成候得は可納と申渡心次第為仕、押而鑑札料請取不申候

天保十三寅年1842書上 (『市中取締類集』)
*仲ヶ間入申込、鑑札相渡候義は長煩而段々不如意相成、極難渋而外商売相成兼候もの共御座候、女子共之儀親夫長煩等之上零落致乞胸相成候義御座候、 尤右之者共慥成請人取置

*乞胸家業仕候場所之儀は御府内中、南は六郷川手前目黒池上辺迄、西は四ッ谷内藤新宿板橋戸田川手前、北は河口手前千住宿迄、東は本所深川不残迄入候義御座候

*当時乞胸の者男女七百四拾九人程有之、右之内妻子共極老衰之もの病身之もの三百人余も有之候、尤人数増減月々有之候

 また文化十二丑年1815に下谷山崎町の名主が町奉行所の尋ねに対しての書上げた中に
*乞胸頭仁太夫義、旧来同町壱丁目住居仕当時家主忠兵衛店罷在、前々ゟ町方人別之もの而組頭壱人手代四人有之、此もの共義は同町弐丁目罷在、是又町方人別之者有之、

 ヤシ(香具師)の十三香具のうち覗(覗きからくり)・軽業・見世物は実際には売薬を伴わず、乞胸の家業と同一のため、乞胸は浅草寺境内のヤシを相手取って町奉行所へ訴訟を起こしています。三年越しの訴訟は内済となり、願書を取り下げていますが、玉虫色の決着となっています。即ち、鑑札料は浅草寺がまとめて乞胸に支払い、ヤシは鑑札を受取らないという結果です。詳しいことは、吉田伸之『成熟する江戸』と『都市 江戸に生きる』及び喜多村筠庭『きゝのまにまに』を御覧ください。
 原則から云うと、ヤシは売薬商人であり、乞胸は物は売らず銭を貰う事を家業とする者です。江戸時代に於いては商人は町人身分(良民)であり、銭を貰う家業は非人身分(賤民)でした。それでヤシは乞胸(家業は非人頭善七の支配下)の支配を受けることを拒否するのです。
 落語の「唐茄子屋政談」でも、銭はやるが唐茄子はいらないと云う半さんに、「この人は乞食ではない」といい、「高田の馬場」や「蝦蟇の油」で、蝦蟇の油売りが「投げ銭、放り銭はお断りするよ」と云うのも身分に係わるからなのです。


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