落語の中の言葉232「灸」

    五代目 柳家小さん「強情灸」より

 江戸時代には現在と比べ、灸はずっと一般的でした。その効果への信頼も厚かったようです。
治病針灸薬ノ三方アリ。就中即効アルハ灸治タリ。蝮蛇其外一切毒虫ノ螫(サシ)タルモ、灸スル時ハ痛止ム。云々(『雑説囊話』明和元年1764刊)

灸は百病を治す、其疾をつかさどる要穴を求て灸すれば、薬を用るよりも其功験速也、牛馬にても又灸すべし、躄(こしぬけ)猫の尾の上の根に灸すれば立所に治す、果樹にはかに槁(かれ)んとする時、地の上三寸、日の向ふ所に灸すれば則治す、其功の大なるを知るべし、凡灸をするには日辰吉凶に拘るべからず、唯晴天和気の日を選むべし、霖雨風湿常に異なる日は必用ゆべからず、人身も亦天気と共に燥き湿れば也、(『享和雑記』享和三年1803序)

灸点所.jpg
      「目で見る江戸・明治百科」第一巻より

治療の為以外に、健康保持や健康増進のためにも利用されていました。松尾芭蕉も「奥の細道」へ旅立つ準備として三里に灸をしています。
もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先(まず)心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
  草の戸も住替る代(よ)ぞひなの家
 面八句を庵の柱に懸置。

『徒然草』にも次のようにあります。
第百四十八段 四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。

 また山東京伝は『青楼和談 新造図彙』(天明九年1789)に
女郎屋のしやうばいハ。いきものが代物(しろもの)ゆへ。わづらハれてはならぬゆへ。土用まへ。寒まへにハ。のこらずかふろに灸をすへるなり。又ほれたきやくの心中(しんちう)にハほりものへもすへ、いやな客をかへすにハ。そうりへすへ。寝ごひしんざうのかゝとへすへ。ね小べんをするかふろにすへる

と書いています。

このうち「のこらずかふろに灸をすへるなり」について佐藤要人氏は次のように註解を加えています。
健康保持のため、禿に灸をすえてやる。これは親の勤めでもあり、季節の変わり目にすえるのが一般で、二月二日、八月二日にするのを特に二日灸といった。
  灸すへる禿の㒵を見にたかり   四30
  すへた灸禿の親に見せてやり   三三39

このほかに、
  灸みせて禿の親を安堵させ      柳多留五八
もあります。

 二日灸(ふつかきゅう・ふつかやいと)については俳諧季寄の書『滑稽雑談』(正徳三年1713)第一巻には、日次紀事の引用を含めて次のように書かれています。
二日灸 紀事曰、二月二日、男女各點灸、是謂二日也伊登(やいと)、中華書有八月朔日宜針灸之事、依之誤用二日乎。凡民間點灸時、口唱當病其處、人神當去、相傳此語、聖徳太子之所言也、八月二日亦同。和俗大人小兒各點灸、是謂二日也伊登、其効驗倍于他日云、中華歳事謂、此日以朱點小兒額、名為天灸、以厭疾也。今京師祇園社頭老婆、以朱印小児額、稱狗子、然則免病云。(割注、和俗二月・八月共、以二日點灸、是稱二日灸、是亦天灸之微意乎。」)

 子どもの灸については川柳に多くあります。

  灸すゆる子の側逃る女親       不角評『二息』元禄六年1693
  赤団子丸める手をば喰はぬ孫     不角評『双子山前集』元禄十年1697
  子のきうをすへて四五日にくがられ  柳多留七
  一つ身を前からきせる大さわぎ    柳多留十
  二日には母の手あつひ恩をうけ    柳多留五二
  かあいさのあまり泣かせる二日灸   柳多留五九
  二日には母も子のため鬼になり    柳多留七一
  灸すへる側え出しとく菓子袋     柳多留一三五
    灸をすえたご褒美に与える菓子等を灸饗(やいとぎょう)といいます。
子供への灸は二月二日・八月二日に限ったものではなかったようです。

  父母の慈悲四季にくわせる赤団子   柳多留五八
    赤団子とは灸のことです。

また、小児ばかりか乳児にも灸をすえたようです。
「延べ一二〇年余もの日々の暮らしについて書かれた『臼杵藩奥日記』」に基づく江後迪子(えごみちこ)著『隠居大名の江戸暮らし』(一九九九年)には次のようにあります。
灸 治 灸は漢方療法のひとつであるから、江戸時代には広く普及していた。とくに二月(ママ)灸といって二月二日に灸をすえるとよく効くという言い伝えがあったため、稲葉家でもこの日に行っている。
 殿様、奥様をはじめとして、雍通の第十三子良之助は生後四ヵ月の赤ん坊のとき、尊通は九ヵ月で灸をしている。云々


 また二日灸とは反対に、灸をしてはいけないとされる日等もありました。

灸疾三所まではくるしからず。四所あればけがるゝと吉田の神竜院申されし。此神竜院は二位殿の御舎弟左兵衛殿の叔父にて侍し。神道よくまなび給ひし人也。
ある人三里をすへぬ年あり。そのすへぬ年すへたる人。おほく灸穴より血はしりて死したる事ありとかたられしを、うきたる事と思ひ侍しに。そのかみある撿挍のすへぬ年をしてすへしが、灸疾いへかねて終に血はしり死去せしを見侍りてならひ伝へ侍し。
  八歳、十七歳、廿六歳、四十四歳、五十三歳、六十二歳、七十一歳、八十歳、以上禁之。(大田南畝『杏園間筆』巻之一 享和二年1802壬戌六月十三日起筆、十一月終巻)

灸治するに、生れ年によりて忌日あるは、世の人の知る所也。その余忌む日あり。暦にチイミとある日は忌む也、又毎年あしき日、左に記す。
 正月未日、二月戌日、三月辰日、四月子寅日、五月午日、六月巳日、七月酉日、八月申日、九月亥日、十月子日、十一月丑日、十二月卯日。(石上宣続『卯花園漫録』文化六年1809緒言)

 灸をしてはいけない日がいつ頃から云われるようになったのか分かりませんが、綱吉強権政治の時代に以下のようなことがありました。
元禄二年1689
一当四月、灸致さゞる日有之由、書物ニも無之儀、むさと申ふらし不届ニ候、町々ニ而致僉儀、最初ニ申出シ候もの有之候ハヽ早々可申出候、若隠置、脇より相知候ハヽ急度曲事に可申付者也
  巳四月廿二日 (『江戸町触集成』第二巻)

 実際に調べが行われたようです。
元禄二年1689
立花左兵衛・能勢三十郎(頼香)・長谷川権左衛門(貞情)・佐々喜六(成興)四人、家来に御穿鑿之事有、大目付高木伊勢守(守勝)幷ニ松平五郎右衛門(忠周)・戸田喜右衛門(忠重)三人ニ被仰付、是ハ一年之内灸針いたさざる日之書付之事ニ依也と云、又桂昌院様ニて被召遣候ゆふた十(伝)右衛門も、右之儀ニ付而御穿鑿にあふとも云、西之丸御留守居与力ニも右之儀ニ付御穿鑿有といふ、しかとしれず、由多伝右衛門(清房)、竹中主膳(重栄)ニ御預ケ、是ハ桂昌院様の御広敷御番頭也 (戸田茂睡『御当代記』)

 穿鑿の結果、新規に言い出したことではないことがわかり、処罰はされませんでした。
(元禄二年1689九月)五日令せらるゝは。此度針灸の事異説流言するによて。査覈せられしところ。駿河国にある田口是心といへるもの。傳家の書にあるをこふものありて。寫して贈りたりと聞ゆ。もし己が心もて新に著作したらば。をごそかに罪に處せらるべけれど。其故定かなれば本人はとがめられず。されど此後かゝる新奇の事流言せしむべからず。もしさりがたき故あらは。其地の奉行に告て。指揮にまかすべしとなり。 (『常憲院殿御実紀』巻二十)

 灸には他にも禁忌がありました。

あついめをしたのもしたでむだに成リ (末三・22)

「あついめをした」とは、灸をすゑた意味である。昔の人は病人でなくとも、健康保持のために必ず灸治を行つたもので、俗に二月二日の灸を二日灸と稱し、その日の灸は特に効目があると信じられた。それだけに灸に関する注意事項もいろいろあり、産後は七十五日、大病後は百日、疱瘡の後の半年は灸を禁じてあり、また灸を施した後は、鱠・麺類・冷えたものは食すべからず、或ひは大いに立腹することはよろしくない、飢ゑ疲れることも悪いなどと云はれた。勿論その禁忌事項の中には、房事なども含まれてゐる。
  灸は前三日後七日、房事を忌むべし。(『鍼灸重寶記綱目』享保三年)
  別して男女のまじはりは、ぜん三後七とて灸する三日まへよりして、のち七日があいだかたく慎しむべし。(『萬暦大雑書三世相大全』)
(中略)
  新世帶灸を無にする出来心    (三三・8)
  お前まあ昼間の灸を忘れたか   (三九・13)
  灸を無になされますかと襟を折り (拾八・4)
  きゝますまいぞえと笑ふ聟の灸  (末四・30)
など、灸の前三後七禁忌の風習を詠んだ句がある。(岡田甫『川柳末摘花詳譯』昭和四十二年)


 このほかにも
  灸よりも後七がこらへにくい也    柳多留五六
というのもあります。

 ところで、灸は中国あるいは朝鮮から伝わったものなのに、次のようにも云われます。

朝鮮の人疾病なき時は、灸をするに及ずと云。一人として灸の痕あるはなし。阿蘭陀にても、近来日本より伝へたり。唐人も十人が十人ながら、三里及風門などに灸痕あるを見ず。此故を問へば、疾病なき故に灸するに及ずと云。琉球人は十人に九人は灸痕あり。しかれども、日本人の如く総身にはなし。只三里に多く見るなり。唐は都て灸の本なれども、日本の如く宜しき事は伝らずとしるべし。(佐藤成裕『中陵漫録』文化九年1812序)


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