雑話07「大江戸の正体・正誤」その2

 前回に続いて「大江戸の正体」から「御能拝見」関係の項目を採りあげます。長くなりますので別にしました。

219 能は幕府にとっては最も重要な式典用の芸能であった。とくに「御大礼能」(将軍宣下・官位昇進・将軍の代替わり・婚礼・誕生などの祝典の際の演能)は盛大に行われ、幕臣・諸大名・江戸市中の町人(地主)にも観覧を許した。これを「御能拝見」といった。場所は前記した江戸城の玄関脇の大舞台で、四座の能役者総出演だった。(中略)
 この場合の町人とは、徳川の江戸町草創の時からの地所持ち=地主ばかりでなく、各町の角屋敷所有地主をはじめ、将軍から種々の理由で町屋敷を拝領した町人に限られた(以下略)

○能が行われたのは「江戸城の玄関脇」というより、大広間の南庭に常設された能舞台です。
 
町入能場所.jpg

町人能徳川盛世録.jpg
        『徳川盛世録』より
○拝見を許されたのは、江戸の初期の寛永期頃迄に成立した「古町」と呼ばれる町(古町三百と呼ばれる)の地主(家持)、或いはその町役を代行する家守(家主とも大屋とも呼ばれます)だけです。
浅草平右衛門町
平右衛門町の儀は古町につき、御代替り・御昇進・御転任、そのほか格別の御祝儀にて御能これあり、御本丸御白洲において町人拝見仰せ付けられ候節、先例の通り、平右衛門町にて二十人罷り出、御能拝見仕り、瓶子御酒・御菓子ならびに傘頂戴仕り候。かつ拝見相済み候のち、御月番町御奉行所へ召し出され、拝見の者一人前銭一貫文ずつ、平右衛門町分二十貫文、ほかに月行事へ銭一貫文下し置かれ候。右二十人割り合い方古来より上平右衛門町にて七人、下平右衛門町にて十三人、右は家持ち・家主どものうち罷り出、拝見仕り候。(浅草平右衛門町の文政八年1796『町方書上』)

 雉子町名主斎藤市左衛門が寛政四年の御能拝見について記録した「御能拝見出候人数之覚」によれば、その頃の町数1,700程のうち御能拝見を許された町数は374で、札数は5,118です。(片倉比佐子『大江戸八百八町と町名主』)

「古町」の一部が強制移転させられて二つの町に分割された場合には、元の町に割り当てられていた札数を分割しています。町数は増えても札数は変わりません。
例えば
宝暦十三未年1763
     以書付申上候
一御能拝見ニ罷出御銭被下候町々之内、元地之人数幷代地之人数ニ加り拝見ニ出候分、幷訳ニ而も有之、古来ゟ他町之人数之内江加り拝見ニ出候町々も有之候哉、尤右ニ準し候類ニ而も有之候哉之旨、御尋ニ付左ニ申上候
一南大工町之儀は年月不相知、先年元大工町壱町目弐町目共ニ両側御用地ニ被召上、為代地桶町後広小路ニ而被下置、夫より南大工町と唱申候、然処右代地不足故、足シ地正木町、福島町、小松町、音羽町右四ケ所之内ニ而、間口六拾四間弐尺弐寸、裏行拾弐間被下置、尤御能拝見人数札之儀は高三拾四人ニ而、元大工町南大工町壱紙ニ被下置候而、右之内拾七人宛両町ゟ罷出申候、御銭之義も右ニ準し、同町一同に仕候
 御能拝見ニ罷出候人数
一拾七人             南大工町
 内七人、代地小松町、音羽町、福島町、正木町ゟ罷出申候
  但、南大工町之儀は前書申上候通、御用地ニ被召上、代地不足地之分小松町、音羽町、福島町、正木町ニ而被下置候ニ付、御能拝見之節も、南大工町人数江小松町ゟ三人、音羽町ゟ弐人、福島町ゟ壱人、正木町ゟ壱人、元地南大工町江相加り罷出申候、尤御銭拾八貫文被下置候処、壱貫文月行事分引、残而拾七貫文之内、右足シ地町々江六拾四間余、割合を以割渡申候
 右之通御尋ニ付申上候、已上
   未五月      南大工町
              月行事 市郎兵衛
              名 主 藤 五 郎
         小松町・音羽町・福島町・正木町の分省略
               (『江戸町触集成』第六巻)

 「古町」にはこの御能拝見の特権のほかに、年頭の江戸城参賀という特権もありました。江戸城参賀を許されたのは「古町」の名主と「古町」の角屋敷の家持だけです。
寛文二年1662
     覚
一明三日御城様江御年頭之御礼ニ上り申候面々、さかやきをそり、麻対之上下を着シ、明ヶ六ッ前ニ銘々献上物持参仕、御大手御大腰掛迄可被相詰候、縱雨降候共、無遅々可罷出候、旧冬書上之名主幷四ッ角之外壱人も出間敷候、勿論子共幷手代名代堅ク無用ニ可仕候、前々猥成儀共有之間、其町々名主方ゟ急度吟味可仕候、若於相背は可為越度候、以上
  寅正月二日     町年寄三人 (『江戸町触集成』第一巻)

御能拝見の様子を述べたところに
221しかし文字通りこの騒ぎの埒外で「会場」を警備する「御能勤番」に従事する御徒組の与力・同心の勤務は厳しいものがあった。能舞台と大広間の間の石畳に革布団を敷いただけで、微動することもできずに交替が来るまで着座していなければならなかった。
 前にも述べたように天下の文人として知られた大田南畝の七十四歳まで続いた本業の実態は、このようなものであった。

○御徒には与力・同心はありません。
天保十二年1841四月生まれで、安政三年1856十月御徒に抱入れられた山本政恒(まさひろ)は次のように記しています。(『幕末下級武士の記録』)
「御徒は一組(頭一人、組頭二人)、御徒弐拾八人内(組役凡六七人、若手凡拾六人、出役五人)、此組二十組あり、六百人なり。」

御徒頭は1,000石高の旗本、組頭は150俵高、御徒は70俵高でともに御家人です。
御能勤番について山本政恒は次のように説明しています。
熨斗目麻上下着用、御舞台と大広間の間、石畳あり、其左右向合、三人宛六人、皮(ママ)蒲団三枚づゝを敷、帯刀にて着座す。之を御目通りと唱ふ。又大広間御縁頬の下へ六人着座す。之を御前置と唱ふ。何れも行儀正しく、聊かにても動かざる様可致に付、甚だ苦敷勤めなり。御能一番済したときは、御座の間御簾下る。其時交代の者左り脇後ろに来り、膝を付たれば、右後へずり下り、交代の者着座したれば、静かに腰をかゞめ立退くなり。

 
御能勤番.jpg


演じられる能の数は多く。嘉永二年1849の場合では、
嘉永二年十一月廿七日 右大将殿(家定)御婚儀済ませられし御祝として猿楽あり。(中略)番組は翁。三番叟。松竹。風流。高砂。田村。東北。春日龍神。祝言金札。狂言二番。末廣がり。福の神なり。(中略)要脚。廣蓋。中入ありて。席々にて饗せられ。芝居の市人へ折櫃。酒。青蚨を下さる。(以下略)(『愼徳院殿御実紀』巻十三)

一番終わる毎に交代するにしても、じっと正座しているのですから「甚だ苦敷勤め」であったでしょう。

○大田南畝は一生御家人のままでついに旗本身分には成れませんでしたが、ずっと御徒だったわけではありません。寛政八年には出世して支配勘定になっています。御徒と支配勘定の違いは111「太郎稲荷」を参照してください。
大田南畝の身分上の変化は次の通りです。
  寛延二年1749三月三日  誕生
  明和二年1765七月六日  御徒被抱入
  寛政八年1796十一月二日 支配勘定被仰付
  文政六年1823四月六日  歿

享和三年1803の大田南畝の由緒書の一部をあげます。

     由緒書
                         支配勘定
高百俵五人扶持 〔割書〕本国/生国」共武蔵     大田直次郎
 内〔割書〕七拾俵五人扶持 本高/三拾俵 御足高」 当亥五十五歳
  拝領屋鋪無御座候。当時牛込中御徒町、稲葉主税御徒組東左一郎地内、借地仕罷在候。
私儀、浚明院様御代、明和二酉年七月六日、御徒頭京極左門組之節、御徒御抱入罷成、安永二巳年八月二日、浜御成之節、於新大橋御船蔵前、水泳上覧相勤、為御褒美御帷子拝領仕、同五申年、日光御社参御供仕、当御代、寛政六寅年四月廿二日、学問御吟味罷在候処、学術も相応仕候ニ付、銀子被下、猶出精可仕旨、於焼火之間、堀田摂津守殿被仰渡、白銀拾枚拝領仕、同八辰年十一月二日、支配勘定被仰付、勤之内並之通、御足高被下置候旨、於躑躅之間、松平伊豆守殿被仰渡。(以下略)   (『大田南畝全集』第二十巻)

 ちなみに「水泳上覧相勤、為御褒美御帷子拝領仕」とありますが、南畝が特別だった訳ではなく、御徒にとって水泳は必須のものだったようです。『幕末下級武士の記録』には「御徒の男子七歳以上は必ず水泳せしむ。」、また「水稽古は毎年五月より八月まで、大川にて水泳の御用稽古あり。非番の日には必ず出て稽古す。」ともあります。
水泳上覧は夏の始めに御沙汰あり。さすれば一組四人・扣二人内意告げ、明け番にても休みなく稽古す。弥(いよいよ)上覧の時は、一組四人・廿組八十人御座船間近の所を、平常向越の如く抜手を切り、間合能くし、泳出より泳ぎ付迄、一直線に見ゆる様、せらず流れず、水も動かず、抜手を替えるときは、一番に習ひ、水を打音一声に聞ゆる様なす。此泳終れば、各組より予て申立置たる技芸を順次なすなり。(中略)
 右上覧を受けし者は、唐花の御紋付御帷子を御褒美として拝領す。(同書)


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