落語の中の言葉230「初節供の粽」

      三遊亭圓生「人形買い」より

 同じ長屋の神道者のところから初節供の祝いとして粽が配られたのに対し、貰いっぱなしには出来ないと長屋一同で人形を贈ることにして、それを買いに行く咄です。

 東京では柏餅は盛んですが粽はあまり見かけません。江戸時代の端午の節供の粽について少し紹介します。
 五月五日 ○端午御祝儀。諸侯御登城。粽(ちまき)献上あり。貴賤、佳節を祝す(家々軒端に菖蒲・蓬(よもぎ)をふく。菖蒲酒を飲み、また角黍(ちまき)・柏餻(もち)を製す。小児、菖蒲打ちの戯れをなす。○武家は更なり、町家に至るまで、七歳以下の男子ある家には戸外に幟を立て、冑人形等飾る。また座鋪のぼりと号して屋中へかざるは近世の簡易なり。紙にて鯉の形をつくり、竹の先につけて幟とともに立つること、これも近世のならはしなり。出世の魚といへる諺により、男児を祝するの意なるべし。ただし東都の風俗なりといへり。初生の男子ある家には、初の節句とて別けて祝ふ)。(『東都歳時記』)


 粽並びに柏餅 京坂にては、男児生れて初の端午には、親族および知音の方に粽を配り、二年目よりは柏餅を贈ること、上巳の菱餅と戴(いただき)のごとし。粽は、葭に図(省略)のごとく新粉を付け、その表を菰(まこも)の葉をもって包み蒸す。
  この粽は、菰を解き去り、砂糖を付けて食すなり。
 京師、〔川端〕道喜と云へる菓子工に製する物は、砂糖入〔粽〕もって図のごとく、串なしに造り、表に笹葉を包み蒸す。号して道喜粽と云ひ、大内にも調進す。
 大坂にて粽を売るに、表一円丸太材矢来を造る店あり。豊島やの白酒に比すべし。
 江戸にては、初年より柏餅を贈る。三都ともその製は、米の粉をねりて、円形扁平となし。二つ折りとなし、間に砂糖入り赤豆餡(あん)を挟み、柏葉、大なるは一枚を二つ折りにして、これを包む。小なるは二枚をもって包み蒸す。江戸にては、砂糖入り味噌をも餡にかへ交ゆるなり。赤豆餡には柏葉表を出し、味噌には裡を出して標(しるし)とす。(『守貞謾稿』巻之二十七)

粽の図.jpg

 江戸でも初節供には粽を贈ることもあったようです。曲亭馬琴は同居する息子の第一子である孫の初節供に、はじめは粽と柏餅を贈ろうとしています。
『曲亭馬琴日記』第一巻 文政十一年五月二日の条

一今日、手製の柏餅内祝いたし、おさき方・お久和へも少々遣之。
一明日、処々へ遣之かしハ餅、お成道つるやにあつらへおく。清右衛門を以、取極させおく。但、本郷さゝや 粽幷柏餅之注文、清右衛門ヲ遣し、談じさせ候処、高料付延引、つるやへ申付ル。

三日辛丑 曇
一つるや江申付候柏餅出来。右遣し候分、壱重三十五入、元立・清右衛門・久吾・次右衛門・山田吉兵衛・本郷さゝや・杉浦氏・穏婆・元祐、〆九軒也。此内、元立幷杉浦へは、銘酒広瀬川壱升づゝ、巻樽入共弐種、遣之。笹やハもちや付、みりん酒二升樽入、遣之。穏婆へはとめヲ以、遣之。元立方江は、余代筆て、手紙添、遣之。

翌文政十二年五月三日の条
今日、為端午前祝義、手製柏餅製之、家内一統祝之、近処へも少とづゝ遣之。

 粽というと今日では円錐形のもの、また屈原に関する話が専らですが、粽の種類は様々有り、また五月五日との関わりも屈原の限りません。

五月五日粽を食事也。むかし高辛氏の悪子、五月五日に舟にのりて海をわたりし時、暴風俄に吹て浪にしづみけるが、水神と成て常に人を悩す。ある人、五色の糸をもつてちまきをして、海中になげ入しかば、五色の蛟竜(かうれう)となる。それよりして海神人を悩さず、こぎ行舟もさいなんに逢はずと申伝たり。又は屈原が汨羅(べきら)にしづみ、魚腹に葬りしを祭りし時の供物なりとも申にや。又粽は悪鬼にかたどりたれば、是をねぢきりて食ふは、鬼を降伏(ごうぶく)する義也と、安部晴明が説に有となん申伝へたり。唐の代に、端午の粽其品おほし。角粽(かくそう)、錐粽(すいそう)、茭粽(かうそう)、角黍(かくしよ)、百素粽(はくそそう)、九子(きうし)粽有。粽を角(つの)のごとくにし、又錐(きり)のごとくにし、又ひしのごとくにし、又竹の筒のごとくにし、又はかりのおもりのごとくにし、或は五色の糸を繩になふて、じゆずのごとくにつなぐも有。或はだんごのごとくして、九つゝらぬるも有。いづれもまこもの葉をもてつゝむ也。是を角粽とも角黍とも云なり。むかし屈原が姉、これを作りて屈原を弔ひける也。月令広義にみえたり。屈原が姉の名を女嬃(じよしゆ)と申也。(林羅山『庖丁書録』慶安五年(元和元年)1652)

 また茅の葉で包んだので「ちまき」という説は誤りだと云います。
角黍(ちまき)に菰葉(こものは)を用るは古製なり、田舎にては今もこれを用ふ、然るに本(もと)は茅(ち)をもて裹(つゝ)みし故に茅巻と名づく、他の草用るは後也と云はわろし。和名抄に風土記を引て云、以菰葉裹米云々とありて、これをチマキと訓ぜれば、もと茅を用ざりしことをしるべし、茅の葉また篠(さゝ)の葉など用るは後の事なり。按ずるにちまきはもと千巻にて、多く巻たるよしなるべし、たゞし神代紀に茅纏之矟(ちまきのほこ)とあるは、茅もて矛の柄を巻しことにや、又これもその言(こと)の元は猶千巻なるにや知がたし。そはともあれ糉(ちまき)はもと茅を用ひしにあらず、もしその形茅纏の矟(ほこ)に似たる故、名づくといはむには理なきにあらず、無名抄に業平の家のことをいひたる所に、家柱も粽の柱にてといへるも、形の似よれるをもて名づけしなるべし、今交趾焼の壺の、本末(もとすゑ)ほそく中ふくらかなるを花瓶(はないけ)に用ふ、これを飴(あめ)ちまきといふ。ちまきにくさぐさあり、共内飴ちまきは、もと大和の国箸中の郷よりはじめて製り出せりとぞ、今は其わたりにも絶にしものなれど、只京師烏丸なる川端道喜が家に伝ふるもの是なり。(喜多村節信(筠庭)『瓦礫雑考』文化十四年1817自序)


 また現在、粽は食べる以外に疫病除けとしても使われています。京都の上御霊神社近くの民家の玄関入り口に粽状のものが束ねて飾られているのを見ました。長刀鉾とあるので祇園祭に関係あるものとは思いましたが何であるかわかりませんでした。通りかかった地元の人と思われる年配の婦人に尋ねたところ、「京都の人でないので知りません」と云われてしまいました。それが、佐倉の国立歴史民俗博物館に同様のものが疫病除けとして展示されていました。歴博のもののように「蘇民将来之子孫也」と書かれていれば分かったのですが、京都の民家のものにはありませんでした。ただ、なぜ粽の形が疫病除けになるのかは分かりません。
厄除粽(京都).jpg魔除の粽(歴博).jpg
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