落語の中の言葉226「古着」

     十代目 桂 文治「古着買い」より

 江戸時代には古着は現在よりずっと一般的であったようです。呉服屋から反物を購入するのは裕福な人で、裏長屋の八ッんや熊さんは専ら古着屋から買っていたものと思われます。着類は換金性の高い資産だったようで、従って盗みの対象となっていました。
古着は古手とも呼ばれたが、現在の感覚と江戸時代の感覚とでは、ずいぶん異なっていたと思われる。現代のような使い捨てでない江戸時代にあっては、衣類は貴重品であり、古着は何度も再利用されたのである。そのまま洗い張りで使用したり、古着の布で別な着物に仕立直ししたり、子供の衣類、さらには雑巾と最後まで大切に使用された。また古着は都市から地方へ大量に移出されて刺子などにして再利用された。
 古着屋が多いので有名なのは日本橋の富沢町・柳原一帯であり、そこの市に行けば、自分の希望する品を必ず手に入れるにとができると言われた。火災都市江戸では、ぜいたくということになれば、重い物を買って持っていても危険であり、着物などの衣類や食物に金を使う外ないのである。そこで、これらを盗んで古着として売ることが横行した。十八世紀はじめの町の記録をみると、盗品のほとんどは衣類であった。『浅草寺日記』などをみても、十九世紀以後も同様であったと考えられる。(吉原健一郎「古着」 西山松之助編『江戸ことば百話』1989)

柳原土手.jpg
     『絵本吾妻遊』寛政二年1790序より

 南伝馬町の名主高野家の『日記言上之控』にある盗難の記録を一つ紹介します。
 元禄十四年1701十二月十六日
 一南鞘町七郎右衛門店仁左衛門申上候、昨昼盗人逢申候、
  金三歩 紬着物こばん嶋 桟留袷壱 小倉袷羽織壱 紺木綿合羽壱
  絹単羽織壱 麻単羽織壱 半晒帷子壱 半晒帷子壱もんきく
  加賀晒帷子壱 高宮嶋帷子壱 細美帷子壱柿色 小倉羽織裏霜ふり嶋 
 〆拾三口
 右之通盗レ候付、伊豆守様御番所ヘ申上ケ、両御帳付申候、

 また、町奉行所から尋ねに対する被害状況の返答書から盗まれた品の明細を二つ紹介します。いずれも慶応三年1867に北町奉行所へ提出したもの。『四谷塩町一丁目御用留』より

 一木綿紺浅黄竪縞長半天    壱つ
 一同紺綿入半天        壱つ
 一同紺浅黄竪縞半天      壱つ
   但筒袖達(ママ)中木綿
 一同紺茶三筋立縞男半天    壱つ
 一同紺白弁慶縞小蒲団     壱つ
 一紺麻風呂敷         壱つ
 〆六品

 一玉紬紺茶竪縞女袷      壱つ
 一めいせん紺浅黄立縞女半天  壱つ
 一木綿紺無地女袷       壱つ
 一めいせん紺茶竪縞女半天   壱つ
 一桃色木綿襦袢        壱つ
 一紫呉呂七寸巾女帯      壱つ
 一尺二鉄鍋          壱つ
 一さしみ皿          三枚
 〆拾品

 古着屋がまとまっていた所が何カ所かありました。
『守貞謾稿』巻之五には、江戸にて同生業群居するとして幾つかの種類の店があげられていますが、その中に古着店もあります。
 富沢町および橘町の古着店 毎朝晴天の日は大路に筵を敷き諸古衣服を並べ、また見世にもこれを並べ、同賈および諸人にこれを売る。巳の下刻にはこれを収めて、表に格子を立つ。
村松町は筵上に売らず、終日見世を開きて、あるひはこれを釣り、あるひは掛け並べて売る。
 日かげ町にもあり。日かげ町は、芝囗より宇田川町に至る大路の北の小路を云ふ字なり。
 浅草東中町・西中町等に古着屋多し。

 富沢町の様子は次のように言われています。
   とみ沢の市
大江戸のうちに、とみざはといへるまちあり、朝市とかいひて、そこにあるあき人のかぎり、つとめてより起きいでゝ、かどのとにむしろしき設けて、ふるき帯、なへばめる衣など、いくらともなうつみならべてあきなふ。あけはなるゝころより、かしましきまで、人つどひきたりて、おのが欲しとおもふ物はもとめつゝいぬ。あたらしげなるはふつになくて、くれなゐのうはじらめるもの、むらさきのはえおくれたるたぐひのみぞあめる。あるは解衣(ときゞぬ)の乱れたる、藤衣のまどほなる、しらぬひの筑紫のわた、河内女の手ぞめのいと、みちのくのしのぶずり、いせをのあまのしほ衣などさへこゝらみゆ。云々(石川雅望『都の手ぶり』文化六年1809刊)

 古着屋を利用したのは裏長屋の住民ばかりではありません。貧乏旗本という言葉もありますが、旗本より少給の御家人も専ら古着屋だったようです。
 三田村鳶魚氏は『武家の生活』で旧市内に、古着店(だな)と俚称されるところとして、改代町・市ヶ谷田町の片側・四谷伝馬町三丁目の裏通り の三箇所をあげています。いずれも武家屋敷に囲まれた地区です。
 また、古着屋の集まっている場所として有名な富沢町については次のような話が伝わっています。
  鳶沢町の事
一、問て云、御入国の砌は町方盗賊共余多入込殊の外難儀仕候処に、御仕置を以件の盗賊共退散致し候と有。其通りの義に在之候哉。答て云、其儀を我等若年の頃承り及候は、其元御申の通盗賊共諸方より入集り以の外物忽(ぶつそう)に有之由、権現様の御聴に達し、何とそ致し盗人の張本たる者を一人召捕へさせ候様にと奉行中へ被仰渡候処に、其比関東に名を得たるすりの大将鳶沢と申者を搦め取、籠者申付置候と有儀を被申上候へは.其盗人を召出し御仕置に可被仰付候へ共、一命をは御助被成候間、其方働を以他方の盗賊共の御当地へ入込不申ことく可仕旨申付候様にと被仰出候に付奉行中より其趣を被申渡候へは、鳶沢承り命を御助被遊候段は難有奉存候へ共、他方より入込候数多の盗賊共を私壱人の力を以防き候と有義は不罷成義と候へは、何方に於ても屋敷地を被下置候はゝ、私手下の者共を呼集め差置其者共へ申付、吟味致させ候様に仕度候。併私手下の者共も盜を相止め候ては渡世の仕方無御座候間、御当地にて武家屋敷町屋を限らす、外の者共の古着を買候義を御停止に被遊、私儀を古着買の元〆役に仰付被下度と申に付、願ひの通りに被仰付、遊女町の近所に於て壱町四方の葭原を屋敷に被下置候付、夫を切ひらき鳶沢町と名付、町屋に取たて手下の盗人共を古着買に仕り、方々へ出し其者共へ申付、吟味を致させ候に付、程なく盗賊共の御当地へ入込候儀も不罷成ことくに事鎮り候と也。去に依て我等若年の比まての古着買と申は定りて弐人つれ立、布にて作りたる長き袋をかたけ、壱人の者は古着と呼り候へは、壱人はかほう(買)と申て町屋の軒下を左右へ別れてありき申ことく有之。其かたけ候袋の口をは二つに割そのはつれを麻縄にて巻たて、其下に鳶沢か印形有之。元来盗人にて無之白人(しろうと)にては古着売買を可仕と存る者は、鳶沢が手下を願ひ、件の袋を請取申ことく有之候と也。次第に御代御静謐故盗賊沙汰も無之に付、古着買の義も相止み、鳶沢町の義も今程は富沢町と文字を書改め、葭原町の儀もいつの比よりか吉原町と相改め候由也。(大道寺友山『落穂集』享保二十年1735跋)

古着買.jpg
      『吉原こまざらい』寛文1661~72頃か

 古着買が二人一組で廻ったことについては次のようにも言われます。
古着買紙屑買二人連にて歩行始は、享和年中小日向古川町古着買喜兵衛迚、五十餘の男なり、此男中風症にて片身不自由なる故、忰留八を連籠を為荷、自分は、唯漸歩行て払ひ物を買歩行ける、夫よりいつとなく、病も無男共が二人連にて歩行ける、近頃の二人連には、何か子細も有るやうに沙汰しける、夫故屋敷方門などには、古着買紙屑買入べからずなどゝ申札出し置候、全く不正之商人も有る故に、かくのごとき門留なども有りけり、(山田桂翁『宝暦現来集』天保二年1831自序)

  註:享和1801~1803

 呉服屋から反物を買って仕立てるのと、古着を買うのと、両者にどれほどの価格の違いがあるものなのか、これがわからないのです。そもそも古着の値段の分かる資料が少ないのです。以下に知り得たものを少々あげてみます。

 女物縮緬小紋単衣 一分二朱と二百文 天保四年1833 (『馬琴日記』三巻)
これは宇都宮藩士へ嫁いだ馬琴の娘が、母(馬琴の妻)にどうかと持ってきた話で購入したもの。
 以下は四谷塩町一丁目の自身番の書役の控え。(『四谷塩町一丁目御用留』)
知り合いから購入したものあるいは質物として受け入れたものが盗難品であることがわかり、役所から尋ねがありそれに対して提出した返答書にあるものです。

知人からの購入 火付盗賊改の役所へ提出
 藤色縮緬紋所五三の桐女小袖   金二分二朱 文化三年1806

知人からの購入 南御廻りへ
 木綿藍竪縞男単物・萌黄木綿襦袢 金二分  慶応三年1867

古着屋買入れ 火付盗賊改の役所へ
 紺木綿大紋付半天  代銭七百文 此売徳百文 元治元年1864
古着屋買入れ 南定御廻りへ
 小倉藍竪縞古平袴  代金一分 此売徳二百文 慶応三年1867

質受け入れ 火付盗賊改の役所へ
 二子木綿紺藍茶鼠縞袷羽織  質代金二分
 木綿紺海老茶千筋綿入男半天 質代金一分一朱
 木綿紺茶鼠糸入竪縞男単物  質代金二分
 木綿紺鼠微塵男単物     質代銭四百文 元治元年1864
質受け入れ 南御廻りへ
 糸入木綿藍千筋袷羽織    質代金一分二朱
 紺木綿大紋付単半天     質代金一分  慶応三年1867
質受け入れ 北御番所へ
 二た子木綿紺茶円立縞袷羽織 質代金一分  慶応三年1867

 古今亭志ん朝師匠の「御慶」では、富に凝った八五郎が富札を買おうと、かみさんの着ている母の形見の半天を無理に取り上げ、質屋の番頭を脅かすようにして一分二朱(五代目小さん師匠では一分)を手にすることになっていますが、半天で一分二朱というのもあり得ない金額ではなさそうです。
 銭相場は変動していますが文化三年頃は金壱両が6,500文程、元治元年では6,700文程、慶応三年頃は幕末の物価混乱期で8,300文程、金一分はその四分の一。古着にもピンからキリまでありましょうが、人足の日当を300文(天保のはじめ頃)とすれば、古着といってもなかなかの高値です。


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