落語の中の言葉224「閻魔」
桂 米朝「地獄八景亡者の戯れ」より
地獄については既に採り上げました。今回は「閻魔」です。
一般には、閻魔は冥界の大王として、亡者の一生が記録された「閻魔帳」と「浄玻璃の鏡」により亡者を取り調べ、罪のない者は極楽へ、罪のある者はその罪の種類と軽重により様々ある地獄のうちどの地獄へ送るかを決めるとされています。
『岩波仏教辞典』によれば、閻魔は
Yamaは夜魔とも音写されます。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道のうちの天界、その天界のうち最も下にあるのは須弥山頂上の忉利天で、その次の天は忉利天の上空8万由旬にある夜魔天です。閻魔(夜魔)はもとはここの王でした。それが冥界の王とも考えられるようになり、ついにはもっぱら冥界の王となったようです。
日本に伝わったのは先祖供養を重視する道教の影響を受けた閻魔王です。「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」によれば、閻魔王は十王の一人であり、五番目(五七日)に罪状を調べるとされています。
ただ、「一切衆生が命終に臨む時、閻魔法王は閻魔卒を遣す。一は奪魂鬼を名とす、二は奪精鬼を名とす、三は縛魄鬼を名とす」。また、「閻魔王の国の堺、死天山の南門」(原文は漢文)ともあって、十王の単なる一人というわけではないようです。
仏教と道教とでは十王の名前が少し違うところもありますが、ほぼ一致しています。
忌日 仏教 本地仏 道教 大王の姓
一七日、 秦広王 (不動明王) 秦広大王、太秦妙広真君
二七日、 初江王 (釈迦如来) 初江大王、陰徳定休真君
三日七、 宋帝王 (文殊菩薩) 宋帝大王、洞明普静真君
四七日、 五官王 (普賢菩薩) 五官大王、玄徳五霊真君
五七日、 閻魔王 (地蔵菩薩) 閻羅大王、最勝輝霊真君
六七日、 変成王 (弥勒菩薩) 変成大王、宝粛昭成真君
七七日、 太山王 (薬師如来) 泰山府君、玄徳妙成真君
百箇日、 平等王 (観世音菩薩) 平等大王、無上正度真君
一周忌、 都市王 (勢至菩薩) 都市大王、飛魔演慶真君
三回忌、 五道転輪王(阿弥陀如来) 転輪大王、五化威霊真君
道教では追善供養が重視されています。「太上救苦天尊説消愆滅罪経」では
仏教(十王経)の十王と道教の十王は名前は同じでも性格は少し違います。十王経は亡者を裁く王です。一方道教は閻魔(閻羅)を含む十王をそれぞれの忌日に祀り功徳を積むことによって、新たな生を得るつまり彼岸に渡ることが出来るというのです。
日本では裁く十王と道教の追善供養を併せて受け入れています。そしてさらに年忌法要が追加され十三仏信仰となりました。七回忌・阿閦如来、十三回忌・大日如来、三十三回忌・虚空蔵菩薩。
「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」では、閻魔王は同生神の記録と人頭の見と浄玻璃の鏡によって審判を下すことになっています。
「同生神とは倶生神のことで、常に人の両肩にいて善悪の行動を記録し、死後、閻魔王に報告するという2人の神。1人を〈同生〉といい、1人を〈同名〉という」(岩波仏教辞典)。
「十王経」では「左の神は悪を記し、形は羅刹の如し、常に随て離れず、悉く小悪をも記す、右の神は善を記し、形は吉祥の如し、常に随て離れず、皆微善をも録す」とあります。
人頭の見。閻魔王国の大城の四面には鉄門があり左右に壇茶幢、右は黒闇天女幢、左は泰山府君幢、上に人頭形人があってよく人を見抜く。二幢の主は人頭の所見を閻魔王に報告するとあります。
浄玻璃の鏡。閻魔王城には光明王院と善名称院があり、光明王院の中殿の裏に大鏡台があって光明王鏡が懸けてある、名を浄玻璃の鏡という。閻魔王がこの鏡に向かう時は三世(過去現在未来)のすべて有情・非情も悉く「照然」たりとあります。
浄玻璃の鏡とは別に、八方を囲んで業鏡があり、亡者の前生の善福悪業一切が映し出されると書かれています。ところがその挿絵では浄玻璃の鏡らしきものを亡者に見せています。
別の資料も同様です。
十王経では閻魔は十王の一人ですが、一般には閻魔様が地獄の大王と思われています。
江戸時代には正月十六日と七月十六日は閻魔の斎日として閻魔信仰が盛んだったようです。
『東都歳事記』(天保九年1838)巻之一には、「正月十六日 閻魔参り(世にえんまの斎日といふ)。浅草御蔵前長延寺(閻魔丈六、倶生神・奪衣婆立像)。……」 以下合計六十六箇所も列挙しています。
そして次のようにあります。
また、「七月十六日 閻魔参り(えんまの斎日といふ)。参詣の場所、正月十六のくだりに記するごとし。」
因みに、閻魔王とともに閻魔庁にいる倶生神とされるものは、正しくは司録と司令で、倶生神と混同されているようです。
ところで、ひろ さちや氏は閻魔の勤務評定をすると点数は低いとして、その理由をいくつかあげています。(『仏の世界と輪廻の世界』昭和57年)
その一つは
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地獄については既に採り上げました。今回は「閻魔」です。
一般には、閻魔は冥界の大王として、亡者の一生が記録された「閻魔帳」と「浄玻璃の鏡」により亡者を取り調べ、罪のない者は極楽へ、罪のある者はその罪の種類と軽重により様々ある地獄のうちどの地獄へ送るかを決めるとされています。
『岩波仏教辞典』によれば、閻魔は
サンスクリット語のYamaの音写で、〈熖摩〉〈熖魔〉〈琰魔〉〈剡魔〉とも表記される。(中略)
もともとインドの古い神であり、(中略)死んで天界にある祖先を支配する神と考えられていた。(中略)
死者の審判を行う神としての閻魔は、地蔵信仰などと混じて中国に伝わったが、インド古来からあった地獄という考えを基礎にし、さらに道教の俗信仰が加わり、裁判官である十王の一として信仰されるようになった。
Yamaは夜魔とも音写されます。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道のうちの天界、その天界のうち最も下にあるのは須弥山頂上の忉利天で、その次の天は忉利天の上空8万由旬にある夜魔天です。閻魔(夜魔)はもとはここの王でした。それが冥界の王とも考えられるようになり、ついにはもっぱら冥界の王となったようです。
日本に伝わったのは先祖供養を重視する道教の影響を受けた閻魔王です。「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」によれば、閻魔王は十王の一人であり、五番目(五七日)に罪状を調べるとされています。
ただ、「一切衆生が命終に臨む時、閻魔法王は閻魔卒を遣す。一は奪魂鬼を名とす、二は奪精鬼を名とす、三は縛魄鬼を名とす」。また、「閻魔王の国の堺、死天山の南門」(原文は漢文)ともあって、十王の単なる一人というわけではないようです。
仏教と道教とでは十王の名前が少し違うところもありますが、ほぼ一致しています。
忌日 仏教 本地仏 道教 大王の姓
一七日、 秦広王 (不動明王) 秦広大王、太秦妙広真君
二七日、 初江王 (釈迦如来) 初江大王、陰徳定休真君
三日七、 宋帝王 (文殊菩薩) 宋帝大王、洞明普静真君
四七日、 五官王 (普賢菩薩) 五官大王、玄徳五霊真君
五七日、 閻魔王 (地蔵菩薩) 閻羅大王、最勝輝霊真君
六七日、 変成王 (弥勒菩薩) 変成大王、宝粛昭成真君
七七日、 太山王 (薬師如来) 泰山府君、玄徳妙成真君
百箇日、 平等王 (観世音菩薩) 平等大王、無上正度真君
一周忌、 都市王 (勢至菩薩) 都市大王、飛魔演慶真君
三回忌、 五道転輪王(阿弥陀如来) 転輪大王、五化威霊真君
道教では追善供養が重視されています。「太上救苦天尊説消愆滅罪経」では
世間の衆生は現世での行いによって死後の世界が決定する。(中略)
もし、広く功徳を修め、斎を設け布施すれば、(中略)天に生まれることを得ることができる。
(中略)父母や眷属の死後には、よろしく道場を建て、斎を設け、行道して、資材を布施して、その功を幽府に修めなければならない。(中略)
死亡の後、地獄に堕ちても、このような善い法要によって、みな新たな生を得ることができる。(田中文雄『十王経』 増尾・丸山編『道教の経典を読む』)
仏教(十王経)の十王と道教の十王は名前は同じでも性格は少し違います。十王経は亡者を裁く王です。一方道教は閻魔(閻羅)を含む十王をそれぞれの忌日に祀り功徳を積むことによって、新たな生を得るつまり彼岸に渡ることが出来るというのです。
日本では裁く十王と道教の追善供養を併せて受け入れています。そしてさらに年忌法要が追加され十三仏信仰となりました。七回忌・阿閦如来、十三回忌・大日如来、三十三回忌・虚空蔵菩薩。
「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」では、閻魔王は同生神の記録と人頭の見と浄玻璃の鏡によって審判を下すことになっています。
「同生神とは倶生神のことで、常に人の両肩にいて善悪の行動を記録し、死後、閻魔王に報告するという2人の神。1人を〈同生〉といい、1人を〈同名〉という」(岩波仏教辞典)。
「十王経」では「左の神は悪を記し、形は羅刹の如し、常に随て離れず、悉く小悪をも記す、右の神は善を記し、形は吉祥の如し、常に随て離れず、皆微善をも録す」とあります。
人頭の見。閻魔王国の大城の四面には鉄門があり左右に壇茶幢、右は黒闇天女幢、左は泰山府君幢、上に人頭形人があってよく人を見抜く。二幢の主は人頭の所見を閻魔王に報告するとあります。
浄玻璃の鏡。閻魔王城には光明王院と善名称院があり、光明王院の中殿の裏に大鏡台があって光明王鏡が懸けてある、名を浄玻璃の鏡という。閻魔王がこの鏡に向かう時は三世(過去現在未来)のすべて有情・非情も悉く「照然」たりとあります。
浄玻璃の鏡とは別に、八方を囲んで業鏡があり、亡者の前生の善福悪業一切が映し出されると書かれています。ところがその挿絵では浄玻璃の鏡らしきものを亡者に見せています。
別の資料も同様です。
十王経では閻魔は十王の一人ですが、一般には閻魔様が地獄の大王と思われています。
この十王の訳を、折節、お寺様が御談義の節、講釈せらるれども、誰あつて耳に止める者なく、閻魔王は第五番目の王なれども、此御人をのみ地獄の大王と心得、あとの九王をば、十王々々と一口に唱へて、閻魔様の手代のやうに思ひ、九王の本名を知った者一人もなし。(山東京伝『根無草笔芿(ふでのわかばへ)』寛政六年1794刊)
江戸時代には正月十六日と七月十六日は閻魔の斎日として閻魔信仰が盛んだったようです。
『東都歳事記』(天保九年1838)巻之一には、「正月十六日 閻魔参り(世にえんまの斎日といふ)。浅草御蔵前長延寺(閻魔丈六、倶生神・奪衣婆立像)。……」 以下合計六十六箇所も列挙しています。
そして次のようにあります。
今日諸寺院、地獄変相の画幅を掛くる(本所押上真盛寺に蔵するところの間魔庁前の画は、京師の画匠円応挙〔円山応挙、1733~95〕が筆にして、飛動衆目を驚かしむ。今日本堂に掲げて拝せしむ。深川法禅寺に十王の像、地獄の画幅、十六羅漢の画像等かくる。いづれも松原笑月〔仏画師〕六十二歳の画なり。そのほか仏画あり。谷中長安寺、地ごくの画幅掛くる)。
また、「七月十六日 閻魔参り(えんまの斎日といふ)。参詣の場所、正月十六のくだりに記するごとし。」
因みに、閻魔王とともに閻魔庁にいる倶生神とされるものは、正しくは司録と司令で、倶生神と混同されているようです。
ところで、ひろ さちや氏は閻魔の勤務評定をすると点数は低いとして、その理由をいくつかあげています。(『仏の世界と輪廻の世界』昭和57年)
その一つは
閻魔王は、もとは第一番目の裁判長、すなわち死後七日目に最初に死者を裁く役割が与えられていたというのである。(それなら、曲りなりにも筆頭裁判官である。)しかし、かれは情に脆い。しばしば亡者に同情し、簡単に娑婆への蘇生を許してしまう。
それで地獄に亡者が少なくなった。
これではならぬ、と、かれは第五番目へと格下げされたのである。左遷である。五番目であれば死後三十五日、とっくに地上の屍体は腐爛している。かれが深情けを発揮して亡者を蘇生させようとしても、亡者の還るべき肉体がないのだからどうしようもない。
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