落語の中の言葉・番外「淀五郎余談」

落語「淀五郎」に関連した余談を少々。
 この落語は咄家によって設定に違いがあります。例えば志ん生師匠と八代目林家正蔵師匠(後の彦六)・三遊亭圓生師匠とを比べると次の通りです。
      芝居の場所   団蔵     仲蔵     淀五郎の階級
 志ん生  木挽町の芝居 座頭渋団    屋号舞鶴屋  無理に名題にした
             葺屋町市村座の座頭
 正 蔵  猿若町市村座 座頭渋団蔵   屋号舞鶴屋  名題になって早々
             市村座のとなりの小屋の座頭
 圓 生  言及なし   座頭目黒団蔵  屋号栄屋   相中
             四代目団蔵   中村座の座頭
  猶、役者の階級は圓生師匠によると、下立役(稲荷町)・相中見習・相中・相中上分・名題下・名題。
 渋団と呼ばれたのは五代目団蔵です。『歌舞伎事典』によれば、市川団三郎が五代目団蔵を襲名したのは文化二年1819で、弘化二年1845歿です。この間、江戸に中村仲蔵という役者は存在しません。新しい定九郎の型を作り出した初代仲蔵は寛政二年1790に亡くなっており、二代目仲蔵は寛政六年1794襲名、寛政八年歿。中村鶴蔵が三代目仲蔵を襲名したのは五代目團蔵が歿した二十年後の慶応元年1865です。
 一方目黒の団蔵と呼ばれた四代目団蔵は安永二年1773襲名、文化五年1808歿です。従って四代目団蔵襲名の安永二年1773から初代仲蔵が歿する寛政二年1790までの間は団蔵と仲蔵の二人が存在します。また、仲蔵で舞鶴屋の屋号を使ったのは幕末に襲名した三代目からで、初代の屋号は栄屋です。落語の世界は現実とは無関係ですから、初代の仲蔵と五代目団蔵が同時に出てこようと、親の淀屋辰五郎が闕所になった後、悴の辰五郎が水戸黄門と出会おうと、小野小町が鎮西八郎為朝に手紙を送ろうとかまいません。圓生師匠の設定は現実にあり得るというだけのことです。

 また芝居の場所として「木挽町」「葺屋町」「猿若町」などと出て来ますが、江戸三座と呼ばれた大芝居は木挽町五丁目の森田座、葺屋町の市村座、堺町の中村座でしたが、天保の改革で浅草山之宿の小出伊勢守下屋敷跡地へ強制移転となり、その場所は猿若町と命名されました。江戸の町は宿場町と同様に、通りを中心にして両側が一つの町になっています。葺屋町と堺町は同じ通りで隣り合っていて二丁町と俗称されています。木挽町・二丁町・猿若町の場所を天保十四年の分間図と幕末の切絵図で示します。
なお、切絵図の木挽町と二丁町は縮尺が大幅に異なっています。その面積は堺町が2,400坪程、葺屋町が2,100坪程、木挽町五丁目が1,300坪程です。
 
天保十四年分間図.jpg
木挽町&二丁町.jpg

 因みに木挽町六丁目には山村座がありましたが、正徳四年1714に「江島生島事件」で取潰しになり、以来江戸芝居は三座になりました。
 つぎに猿若町の切絵図と細鑑をあげます。
猿若町.jpg

 猿若町への移転の経緯は『寛天見聞記』が短くまとまっていますので、それを挙げます。
天保十二年十月六日の夜、堺町の芝居より出火して、葺屋町辺類焼す、〔頭書〕天保十二年十月七日暁七時、堺町より出火、両芝居近辺類焼、両芝居普請止られ、同十二月十八日、両芝居并操座、其外役者、茶屋共、引払べき旨命ぜられ、木挽町座も、焼失又は大破の節、追て引払べき旨命ぜらる、明る十三年正月十二日、小出伊勢守侯下邸一万七十八坪を替地に下さる、同十二月六日、川(ママ)原崎座も引移る、いづれも、新地永代被下候上、三座并芝居付茶屋、其外の者へ、金八千二百五十両下さる、爰に無用の事ながらしるす」 同十三年二月、堺町、葺屋町を引はらひ、浅草薮の内小出侯の屋敷跡を下され、町名を猿若町と改させらる、一廓の芝居町として、役者、芝居の者共、此廓の中に住居すべしと令せらる、此時より、役者他へ出る折には、あみ笠を冠り往来せり、木挽町の河原崎は、翌十四年の春、此地へ引移り、元大坂町の東側は、此時銀座へ囲込になる、また小出侯の屋敷は、鼠山感応寺の跡、替地に賜りしとぞ、

 強制移転の理由として申渡しには次のようにあります。
此度市中風俗改候様との御主意有之候処、近来役者共芝居近辺致住居、町家之者同様立交り、殊三芝居狂言座仕組甚猥相成、右付而は自然市中も風俗押移、近来別而野鄙相成、又は時々流行之事抔多分は芝居ゟ起り候儀候、依而は往古は兎も角も、当時御城下市中差置候而は御趣意も相戻候事候、一躰役者共儀は身分之差別も有之候処、いつとなく其隔も無之様相成候得は不取締之事候、(『江戸町触集成』第十三巻)

 『寛天見聞記』に「木挽町の河原崎」とあるのは、この時期は森田座ではなく控櫓の河原崎座が興行していたからです。江戸三座はしばしば資金繰りに行き詰まって休座をし、控櫓が代わって興行しています。控櫓を後藤慶二『日本劇場史』は次のように説明しています。
興行主は次第に其の財政上の困難を感じ、是に於て劇場は借財の為めに休業するのやむなきに至れり。
 江戸に於ては森田座即ちその卒先者にして、享保十九年八月座元勘彌が地主五人組及び名主と連署して其の筋へ休座を出願せる文面によれぱ、當時地代の滯納せるもの五百三十五両餘に上りたりといふ。次で天明四年には市村座が其の例を追ひて休場せり。江戸の劇場がかくの如く相追うて休場せると同時に、謂ゆる「控櫓」と稱せる制度起るにいたれり。其は享保十九年、彼の森田座が休座中たりし時なりき。木挽町に住居せるものは急に劇場を失ひて糊口に窮するより、森田座の代りに新にある劇場を建てん事を其の筋へ嘆願せしも、既に第二章に述べたるが如く劇場興行の権はかの三座に限られたるを以て、容易に裁可せられざりき。之より先、元禄以前に一度劇場主たりし河原崎権之助、桐大臓及び都傳内の後裔が頻に其の祖先の由緒に依り劇場を再興せんことを熱望せる故、此の三者のうちの一人を抽籤に依りて森田座に代はるべき興行者と定め、且つ森田座が他日再興する場合には何時たりとも其の興行権を返戻すべしとの絛件にて、始めて新劇場の興行を許され、かくて其の抽籤に當りしものは二世河原崎権之助なりしかば、享保二十年七月に至りて再び河原崎を木挽町に生ずるに至りて、即ち之を森田座の「控櫓」と稱しき。而してこの控櫓の興行は延享元年まで十年間続きしが、同年に至り森田座が再興せるを以て河原崎座は自からその興行権を失ひ、之より四十七年にて寛政二年に再び森田座の休業と共に興行を始めたり。又かくの如くにして河原崎座が森田座の控櫓たりしと同じく。天明三年に中村座の休場せるや桐座は其の控櫓として五年間の興行を免されしが、天明八年に至り期満ちて市村座の再興と共に興行権を失ひたり。次に中村座も財政困難(に)依りて休業するや都座は遂に其の控櫓となり、此の例は其の後も頻繁に且つ規律正しく綴り返されたりき。

 『寛天見聞記』の内容についての補足は長くなりますので別の機会にすることにして、ここでは二点だけにします。
「一卜廓の芝居町として、役者、芝居の者共、此廓の中に住居すべしと令せらる」とありますが、そう申渡されたのは、天保十三年の七月四日です。
また「同(天保十三年)十二月六日、川原崎座も引移る」とありますが、天保十三年十二月六日は河原崎座が引移った日ではなく、引払いを命じられた日です。木挽町は天保十二年十二月十八日には「木挽町芝居之儀も追而類焼いたし候歟、普請及び大破候節は是又引払可申付候間、兼而其旨可存、」と申渡されましたが、類焼も大破もしていないのに翌年十二月六日に引払いを命じられました。その理由として、
「役者共并ふり付狂言作者等一同猿若町江、纏住居いたし、日々通ひ相勤候付而は、往々不取締之基付」とあります。


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