気になる言葉10「二拝二拍手一拝」
最近しばしば耳にする言葉に、「神社の正しい拝礼の仕方は『二拝二拍手一拝』」というものがあります。有名な神社のホームページを見てもそのように書かれています。「二礼二拍一礼」という拝礼法があることは前から聞いていましたが、いつ頃からあるものなのか、またそれが「正しい」拝礼法なのか疑問に感じていました。それで少し調べて見ました。
全国約8万社のほとんどを包括する民間団体である神社本庁、その教学研究所の監修になる『神道いろは─神社とまつりの基礎知識─』には「参拝作法の起源について教えて下さい」という項目があり、次ぎのように書かれています。
要点をまとめますと
①拍手による拝礼は古来からの日本独自の作法である
②人に対しては行われなくなり神に対してだけに残った
③「二拝二拍手一拝」は伝統的作法の「両段再拝」に基づく
④「両段再拝」に流派や神社により違いが生じた
⑤明治八年の「神社祭式」で「再拝拍手」の形が決められた
⑥これを基本にして「二拝二拍手一拝」が慣例化した
以下、それぞれについて考えてみます。
①拍手による拝礼は古来からの日本独自の作法
三世紀に編集されたという『魏志』の中の倭人に関する記載に
見大人所敬 但搏手以當跪拝
(一般的訓は「大人を見て敬する所は、
ただ搏手し、以って跪拝に当てる。」)
とあって、神に限らず人に対しても手を拍つことが礼儀になっていたようです。
倭の時代からずっと後になっても拍手は行われています。『日本書紀』の持統天皇四年のところにも手を拍つ記載があります。
四年春正月戊寅朔、(中略)皇后即天皇位、公卿百寮、羅列
匝(アマネク)拝、而拍レ手焉、
ただ、「神道いろは」には「我が国独自の拝礼作法」とありますが、周(紀元前1046年建国)の時代の中国にもあったようです。
豊受太神宮の権禰宜である久志本常彰著『齋居通続篇』(寛保三年1743成る)には次のように書かれています。
*印の字は、扌偏に(上に)芔、(下に)夲。 篆書の「拝」か?
周礼では拝礼の仕方を九つに分けていて丁寧順の四番目に「振動」があります。「周礼ノ䟽」がいつの時代のものかわかりませんが、「古之遺法」とあることから、すでに中国では行われていなかったのがわかります。手を拍つ作法が中国から伝わったものなのか、日本で独自に出来たものなのかは不明です。
②人に対しては行われなくなった
何度手を拍ったのかはわかりません。四拝から二拝に減じたのはこの時だけなのか、この時以来ずっと二拝になったのかもはわかりません。
人に対して行う拝も様々です。『古事記』下巻には四度拝も八度拝も出て来ます。
安康天皇
いずれも訳は次田真幸氏。講談社学術文庫『古事記』
③「二拝二拍手一拝」は伝統的作法の「両段再拝」に基づく
④「両段再拝」に流派や神社により違いが生じた
『神道いろは』には「両段再拝」とは、再拝(二度おじぎをする)を二回おこなうことをいいますとありますが、前書『齋居通続篇』には四度拝を二度行うのが「両段再拝」だと書かれています。
『江家次第』『北山抄』『中右記』いずれも平安時代後期のものです。
神職の行う拍手の数も様々です。明治期にまとめられた『古事類苑』のうち伊勢神宮の神職が中心となりまとめられた神祇部には次のように書かれています。
⑤明治八年の「神社祭式」で「再拝拍手」に
明治八年の式部寮廻達「神社祭式」は、「神社祭式別冊之通被定候條為御心得御廻シ申入候間一冊ツヽ御留置可有之候也」というもので、その別冊のなかで、例えば
官国幣社祈年祭 二月 について
次、神官ノ長官殿ニ昇御扉ヲ開キ(再拝拍手・下同シ)畢テ側ニ候ス
(中略)
次、神官ノ長官御幣物ヲ神前ノ案上ニ奉ル(再拝拍手・下同シ)
次、同官祝詞ヲ奏ス(再拝拍手・下同シ)
などとあります。「再拝拍手」という文字が使われているだけでその具体的な内容はわかりません。
明治四〇年制定の「神社祭式行事作法」の作法・上には拝と拍手の規定があって、拝は「起拝」「居拝」「立拝」と別れていています。「立拝」と「拍手」は
七 立拝
立チタルマヽ両足ヲ踏ミ整ヘ體ヲ正シテ正笏シ笏頭ヲ目通ニ上ケ腰ヲ屈折スルヲイフ
八 拍手
両手ヲ合セ静ニ左右ニ開キテ拍チ合スルヲイフ座セル時ハ置笏シ立テル時ハ懐笏シテ行フモノトス
とありますが、拍手の数は書かれていません。置笏・懐笏とありますように、これは当時準公務員であった神職が祭を行う際の作法を規定したもので、一般の人が神社で礼拝する仕方を決めたものではありません。
この「神社祭式行事作法」はその後何度か改正されていますが、拝と拍に関する改正は、昭和十七年で、「立拝」と「拍手」は次のようになっています。
一 拝
居拝 略
起拝 略
立拝 立チタルママ先ヅ正笏シ 次ニ笏頭ヲ目通ニ上ゲ背ヲ平ニ腰ヲ折ル 再拝スルニハ先ヅ拝シ次ニ正笏ノママ體ヲ起シテ再ビ拝ス
附記
居拝ハ殿上ニ於テ之ヲ行ヒ 起拝ハ庭上ニ於ケル坐禮ノ場合ニ、立拝ハ庭上ニ於ケル立禮ノ場合ニ之ヲ行フ
二 拍手
坐禮ノ場合ニ在リテハ先ヅ置笏シ 立禮ノ場合ニ在リテハ先ヅ懐笏シ次ニ両手ヲ合セ左右ニ之ヲ開キテ拍合ハス
附記
拝禮ノ場合ノ拍手ノ数ハ二トス 但シ一社ノ故実ニ由ル慣例アルモノハ之ニ依ルコトヲ得
この改正で拍手は二拍に決められたようです。
⑥「神社祭式」の「再拝拍手」を基本にして「二拝二拍手一拝」が慣例化した
昭和十七年の改正で、明治八年制定の「神社祭式」にある「再拝拍手」の拍手の数は二に決められました。その結果、「再拝拍手」は「二拝二拍手」ということになりました。但し「二拝二拍手一拝」ではありません。しかしこれから「二拝二拍手一拝」という形式が生まれたのでしょう。ただ、誰が、いつ頃から一般の人の拝礼作法として広めたのかは不明です。
ここからは私の想像ですが、こうして生まれた「二拝二拍手一拝」はインターネットが盛んになって多くの神社がホームページを作った時にこの拝礼方法を載せたことで急速に広がったのではないでしょうか。
この「二拝二拍手一拝」という作法は神職が「儀式」を行うためのものから派生したものです。しかも拝礼の拍手が二拍手になったのも太平洋戦争中の昭和十七年のことです。拝礼のルールは、交通ルールのようにすべての人が同一の基準を守ることによって初めて効力を発揮するものとは違います。普通の人が神社を参拝するのは、何らかの願いを叶えて貰いたいと思う気持ちからで「儀式」の為ではありません。神信仰の長い歴史からすれば「二拝二拍手一拝」という形式はごく最近創られたものです。「正しい」ものとは思えません。私は柏手は打ちますが「二拝二拍手一拝」というわざとらしい不自然な方法はとりません。心のままに拝みます。
追補
「二拝二拍手一拝」を正しいと信じてそれを忠実に実行するのも結構なことです。その場合にはキチンと「拝」をすべきかもしれません。礼(おじぎ)には、拝と揖(ゆう)があります。拝の方が丁寧で、90度上体を曲げるものです。昭和十七年改正「神社祭式行事作法」には「背ヲ平ニ腰ヲ折ル」と表現されています。それより浅いものは揖といいます。
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全国約8万社のほとんどを包括する民間団体である神社本庁、その教学研究所の監修になる『神道いろは─神社とまつりの基礎知識─』には「参拝作法の起源について教えて下さい」という項目があり、次ぎのように書かれています。
私たちが人に対しておじぎをするときは、普通は一度だけですが、神様を拝むときには「二拝二拍手一拝」の作法が用いられます。
この作法は、我が国の伝統的な作法である「両段再拝」に基づくものです。「両段再拝」とは、再拝(二度おじぎをする)を二回おこなうことをいいます。実際の作法では、二拝の後に拍手(はくしゅ・かしわで)または祝詞(のりと)奏上をおこない、再び二拝をおこなう場合もあります。
拍手については、古くから我が国独自の拝礼作法として、神様や貴人を敬い拝むときに用いられました。平安時代、大陸との交流による影響で、宮中ではこの作法をおこなわなくなり、ただ二拝のみをするようになったことが文献に見えます。しかし、神様を拝む際には変わらず拍手が用いられてきました。
その後、この両段再拝の作法も各流派や神社によって多少の違いを生じましたが、明治八年に編まれた「神社祭式」に「再拝拍手」という形が制定され、これを基本に「二拝二拍手一拝」という参拝作法が慣例化しました。
神社によっては、今日でも一社の故実により異なった作法をおこなっているところもあり、伊勢の神宮の神職がおこなう八度拝や出雲大社の四拍手などを例として挙げることができます。
要点をまとめますと
①拍手による拝礼は古来からの日本独自の作法である
②人に対しては行われなくなり神に対してだけに残った
③「二拝二拍手一拝」は伝統的作法の「両段再拝」に基づく
④「両段再拝」に流派や神社により違いが生じた
⑤明治八年の「神社祭式」で「再拝拍手」の形が決められた
⑥これを基本にして「二拝二拍手一拝」が慣例化した
以下、それぞれについて考えてみます。
①拍手による拝礼は古来からの日本独自の作法
三世紀に編集されたという『魏志』の中の倭人に関する記載に
見大人所敬 但搏手以當跪拝
(一般的訓は「大人を見て敬する所は、
ただ搏手し、以って跪拝に当てる。」)
とあって、神に限らず人に対しても手を拍つことが礼儀になっていたようです。
倭の時代からずっと後になっても拍手は行われています。『日本書紀』の持統天皇四年のところにも手を拍つ記載があります。
四年春正月戊寅朔、(中略)皇后即天皇位、公卿百寮、羅列
匝(アマネク)拝、而拍レ手焉、
ただ、「神道いろは」には「我が国独自の拝礼作法」とありますが、周(紀元前1046年建国)の時代の中国にもあったようです。
今拝神者拍手ハ上古ノ礼ナリ。コレヲカシハ手ト云ハ拍ノ字柏ノ字ニ似タルユヘ誤リシナルベシ。西人是ヲ振動拝ト云フ。周礼ノ䟽ニ今俀人拝以両手相撃葢古之遺法トアリ。合掌三拝スルハ西域拝仏ノ礼ナリ。拝神ニ合掌スベカラズト慎思録ニアリ。(小宮山楓軒『楓軒偶記』文化四年1807自序)
豊受太神宮の権禰宜である久志本常彰著『齋居通続篇』(寛保三年1743成る)には次のように書かれています。
周礼(春官宗伯)曰、大祝辨二九*一、一曰稽首、二曰頓首、三曰空首、四曰振動、五曰吉*、六曰凶*、七曰竒*、八曰褒拝、九曰肅拝、以享レ右祭祀、註鄭大夫云、動読爲レ董、書亦或爲レ董、振董以二両手一相撃也、釋文云、*音拝下同、振動如レ字、李音董、杜徒弄反、今俀人拝以二両手一相撃如二鄭大夫之説一、蓋古之遺法、(俀、当レ作レ倭、)
*印の字は、扌偏に(上に)芔、(下に)夲。 篆書の「拝」か?
周礼では拝礼の仕方を九つに分けていて丁寧順の四番目に「振動」があります。「周礼ノ䟽」がいつの時代のものかわかりませんが、「古之遺法」とあることから、すでに中国では行われていなかったのがわかります。手を拍つ作法が中国から伝わったものなのか、日本で独自に出来たものなのかは不明です。
②人に対しては行われなくなった
むかしは神にかぎらず。朝廷にてもおこなひたる礼と見ゆ。日本後紀延暦十八年云。春正月丙午朔。皇帝御二大極殿一受レ朝。文武官九品以上蕃客等各陪レ位。減二四拝一為二再拝一。不レ拍レ手。以レ有二渤海使一也云々。こゝに手を拍ざるは、渤海の使ありて、今日拝礼の人々にまじはりあれば也。しかれは常には再拝して拍手すると見えたり。神前にかぎらざる事なり。(釈慈延『鄰女唔言』)
何度手を拍ったのかはわかりません。四拝から二拝に減じたのはこの時だけなのか、この時以来ずっと二拝になったのかもはわかりません。
人に対して行う拝も様々です。『古事記』下巻には四度拝も八度拝も出て来ます。
安康天皇
天皇爲伊呂弟大長谷王子而、坂本臣等之祖、根臣、遣大日下王之許、令詔者、汝命之妹、若日下王、欲婚大長谷王子。故、可貢。爾大日下王、四拜白之、若疑有如此大命。故、不出外以置也。是恐、隨大命奉進。
天皇、同母弟(いろと)大長谷王子の為に、坂本臣等の祖、根臣を、大日下王の許に遣はして、詔らしめたまひしく、「汝命(いましみこと)の妹、若日下王を、大長谷王子の婚はせむと欲(おも)ふ。故、貢るべし。」とのらしめたまひき。ここに大日下王、四拜して白しけらく、「もしかくの大命もあらむと疑ひつ。故、外に出さずて置きつ。これ恐(かしこ)し、大命の隨に奉進(たてまつ)らむ。」
亦興軍圍都夫良意美之家。爾興軍待戰、射出之矢、如葦來散。於是大長谷王、以矛爲杖、臨其内詔、我所相言之嬢子者、若有此家乎。爾都夫良意美、聞此詔命、自参出、解所佩兵而、八度拝白者、先日所問賜之女子、訶良比賣者侍。亦副五處之屯宅以獻。
また軍(いくさ)を興して都夫良意美の家を圍みたまひき。ここに軍を興して待ち戰ひて、射出づるの矢、葦の如く來たり散りき。ここに大長谷王、矛杖にして、その内を臨みて詔りたまひしく、「我が相言へる嬢子(おとめ)は、もしこの家にありや。」とのりたまひき。ここに都夫良意美、この詔命(おほみこと)を聞きて、自ら参出(まゐで)て、佩ける兵(つはもの)を解きて、八度拝みて白ししく、「先の日問ひたまひし女子(むすめ)、訶良比賣は侍はむ。また五處の屯宅(みやけ)を副へて獻らむ。
いずれも訳は次田真幸氏。講談社学術文庫『古事記』
③「二拝二拍手一拝」は伝統的作法の「両段再拝」に基づく
④「両段再拝」に流派や神社により違いが生じた
『神道いろは』には「両段再拝」とは、再拝(二度おじぎをする)を二回おこなうことをいいますとありますが、前書『齋居通続篇』には四度拝を二度行うのが「両段再拝」だと書かれています。
両段再拝
両段再拝又八度拝トモ云、古事記(安康)曰、大日下王(オホクサカノキミ)四拝白之、又曰、爾都夫良意富美(ニツフヲノホミ)八度拝白者、大神宮式(神衣祭)曰、大神宮司宣二祝詞一、訖テ共ニ再拝両段、短拍レ手両段、膝退再拝両段、短拍レ手両段一拝訖、江家次第記(平野祭)曰、或無レ止、日記以二八度拝一為二両段再拝一、北山抄曰、本朝之風四度拝レ神、謂二之両段再拝一、本是再拝也、而為レ異二三宝及人庶一四度拝レ之、仍称二両段一也、天地四方依二唐土風一只用二再拝一、陰陽家諸祭如レ之、二陵任二本朝例一、各両段再拝也、中右記曰、向二太榊宮方一聊以解除云々、有レ拝、(八度、先四度、次拍レ手、次四度、又拍レ手、是名二両段再拝一、)
『江家次第』『北山抄』『中右記』いずれも平安時代後期のものです。
神職の行う拍手の数も様々です。明治期にまとめられた『古事類苑』のうち伊勢神宮の神職が中心となりまとめられた神祇部には次のように書かれています。
拍手ノ數ハ八開手ト云ヒテ、八遍拍手スルヲ一段トシ、四段即チ三十二遍スルヲ極トス、而シテ長拍手、短拍手ノ名アリ、其拍ツコトノ緩急ヲ以テ之ヲ分ツ、短拍手ヲシノビデト云フハ、之ヲ靜肅ニスルノ謂ナリ、云々 (神祇部三十七)
⑤明治八年の「神社祭式」で「再拝拍手」に
明治八年の式部寮廻達「神社祭式」は、「神社祭式別冊之通被定候條為御心得御廻シ申入候間一冊ツヽ御留置可有之候也」というもので、その別冊のなかで、例えば
官国幣社祈年祭 二月 について
次、神官ノ長官殿ニ昇御扉ヲ開キ(再拝拍手・下同シ)畢テ側ニ候ス
(中略)
次、神官ノ長官御幣物ヲ神前ノ案上ニ奉ル(再拝拍手・下同シ)
次、同官祝詞ヲ奏ス(再拝拍手・下同シ)
などとあります。「再拝拍手」という文字が使われているだけでその具体的な内容はわかりません。
明治四〇年制定の「神社祭式行事作法」の作法・上には拝と拍手の規定があって、拝は「起拝」「居拝」「立拝」と別れていています。「立拝」と「拍手」は
七 立拝
立チタルマヽ両足ヲ踏ミ整ヘ體ヲ正シテ正笏シ笏頭ヲ目通ニ上ケ腰ヲ屈折スルヲイフ
八 拍手
両手ヲ合セ静ニ左右ニ開キテ拍チ合スルヲイフ座セル時ハ置笏シ立テル時ハ懐笏シテ行フモノトス
とありますが、拍手の数は書かれていません。置笏・懐笏とありますように、これは当時準公務員であった神職が祭を行う際の作法を規定したもので、一般の人が神社で礼拝する仕方を決めたものではありません。
この「神社祭式行事作法」はその後何度か改正されていますが、拝と拍に関する改正は、昭和十七年で、「立拝」と「拍手」は次のようになっています。
一 拝
居拝 略
起拝 略
立拝 立チタルママ先ヅ正笏シ 次ニ笏頭ヲ目通ニ上ゲ背ヲ平ニ腰ヲ折ル 再拝スルニハ先ヅ拝シ次ニ正笏ノママ體ヲ起シテ再ビ拝ス
附記
居拝ハ殿上ニ於テ之ヲ行ヒ 起拝ハ庭上ニ於ケル坐禮ノ場合ニ、立拝ハ庭上ニ於ケル立禮ノ場合ニ之ヲ行フ
二 拍手
坐禮ノ場合ニ在リテハ先ヅ置笏シ 立禮ノ場合ニ在リテハ先ヅ懐笏シ次ニ両手ヲ合セ左右ニ之ヲ開キテ拍合ハス
附記
拝禮ノ場合ノ拍手ノ数ハ二トス 但シ一社ノ故実ニ由ル慣例アルモノハ之ニ依ルコトヲ得
この改正で拍手は二拍に決められたようです。
⑥「神社祭式」の「再拝拍手」を基本にして「二拝二拍手一拝」が慣例化した
昭和十七年の改正で、明治八年制定の「神社祭式」にある「再拝拍手」の拍手の数は二に決められました。その結果、「再拝拍手」は「二拝二拍手」ということになりました。但し「二拝二拍手一拝」ではありません。しかしこれから「二拝二拍手一拝」という形式が生まれたのでしょう。ただ、誰が、いつ頃から一般の人の拝礼作法として広めたのかは不明です。
ここからは私の想像ですが、こうして生まれた「二拝二拍手一拝」はインターネットが盛んになって多くの神社がホームページを作った時にこの拝礼方法を載せたことで急速に広がったのではないでしょうか。
この「二拝二拍手一拝」という作法は神職が「儀式」を行うためのものから派生したものです。しかも拝礼の拍手が二拍手になったのも太平洋戦争中の昭和十七年のことです。拝礼のルールは、交通ルールのようにすべての人が同一の基準を守ることによって初めて効力を発揮するものとは違います。普通の人が神社を参拝するのは、何らかの願いを叶えて貰いたいと思う気持ちからで「儀式」の為ではありません。神信仰の長い歴史からすれば「二拝二拍手一拝」という形式はごく最近創られたものです。「正しい」ものとは思えません。私は柏手は打ちますが「二拝二拍手一拝」というわざとらしい不自然な方法はとりません。心のままに拝みます。
追補
「二拝二拍手一拝」を正しいと信じてそれを忠実に実行するのも結構なことです。その場合にはキチンと「拝」をすべきかもしれません。礼(おじぎ)には、拝と揖(ゆう)があります。拝の方が丁寧で、90度上体を曲げるものです。昭和十七年改正「神社祭式行事作法」には「背ヲ平ニ腰ヲ折ル」と表現されています。それより浅いものは揖といいます。
気になる言葉一覧へ
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