落語の中の言葉219「名字」

     五代目 柳家小さん「天災」より

 咄の枕に自分の正式な名前もよく分からない大工が出て来る。明治になるまで町人は名字を持てなかったことが前提になっている。
 そもそも名字とは何かということはさておいて、江戸時代には農工商で名字を持てたのは特に許された者だけと思っていた。

享和元酉年1801七月
 大目付え
百姓町人苗字相名乗并帶刀致候儀、其所之領主地頭より差兔候儀は格別、用向等相達候迚、御料所は勿論、他領之もの共え猥苗字を名乗セ、帶刀爲致候儀は有之間敷事候間、堅可為無用候、
右之通、可被相触候、
  七月       (『御触書天保集成』)

「西松日記」の万延元(一八六〇)年閠三月二〇日の項に、「昨年御国恩上金之御褒美として、私一代苗字御免被仰渡」とある。これはペリー来航により「海防御備金」として役所が再度献金を呼びかけたもので、「御国恩御冥加」として郡中惣代が有力者に協力を求めたのに応えて、権兵衛が二〇〇両もの大口献金をしたことを指している。この際は、楡俣村から権兵衛を含めて四人、計六三〇両、福束輪中全体では一〇人が合計二二三〇両を献納している。
 この日権兵衛は、同じ庄屋仲間の逸作とともに羽織袴着用を命ぜられ、城内で一代苗字御免を申渡された。同じ日の日記には、五〇〇両ものさらに大金を献上したものには、伜の代までの「二代御免」が与えられたと記されている。云々 (成松佐恵子『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』2000.01)

 それが『戯作者略伝』を見ると町人の戯作者も名字を持っていた。
○山東京伝
名は醒、字は酉星、醒々斎と号す。又山東庵、菊花亭等の号あり。通称を京屋伝蔵といふ。京橋銀座一丁目に住して、煙管煙包幷に家製の読書丸、其余、製薬を鬻ぎて業とす。云々
 回向院中墓誌には「磐瀬氏」とある。

○式亭三馬
名泰輔、字久徳、本町庵と号す。通称を菊地太助といふ。遊戯堂。洒落斎。哆囉哩楼、四季山人、遊戯道人、滑稽堂等の数号あり。本町一丁目に住して、家製の薬を鬻ぎて業とす。云々

○曲亭馬琴
名解、字瑣吉、滝沢氏也。通称清右衛門といひて、元飯田町中坂下の家守役也。其を聟に譲り名をも与へて男宗伯〔割注〕松前侯医師、明神下同朋町。」と同居す。云々

○十返舎一九
重田氏、名貞一、通称与七といふ。駿河の産にして、居を橘町、又深川佐賀町に占め、竟に通油町に移住せり。云々

○烏亭焉馬
中村氏、名英税、号を談洲楼といひ、号を桃栗山人柿発斎といふ。狂歌に野見てうなごんすみかねの名あり。和泉屋和助と称して、本所相生町に居住す。原(もと)大工の棟梁なり。云々

○六樹園
名雅望、字子相、五老と号し、又蛾術斎と号す。通称石川五郎兵衛と云。狂名を宿屋飯盛となのる。小伝馬町三丁目の旅人宿糠屋七兵衛〔割注〕画名豊信。」が男也。云々

 正式には使えなかっただけのことで、名字は持っていたのだという。

 庶人は姓氏および苗字を私には称すれども、公に用ふることを得ず。功ある者、官命を得て公に用ふるなり云々(『守貞謾稿』巻之一)

武光誠氏の『苗字と日本人』によると次の通り。
 名字のない農民はむしろ例外
 農民や町人が名字をもたなかったとする考えは、明らかに誤りである。現代の時代劇ではその誤りが堂々と通用しており、江戸時代の農民の境遇が実際以上に悲惨なものとされている。
(中略)
 洞富雄氏が長野県北村の碩水(こうすい)寺の、天明三年(一七八三)と文化一三年(一八一六)の二度の本堂再建のさいの寄進帳を紹介している。その寺は現在五か村に千軒余りの檀家をもっている。そして、二度の寄進帳に出てくる、何百人という寄進者のひとりひとりが、すべて名字を名のっていた。(中略)

 文政一三年(一八三〇)に、富士山の御師(おし)で大蔵景政という者が作成した富士講(富士山をまつる信者のあつまり)の名簿がある。それは、信濃国南安曇(あずみ)郡の南半分三三か村にわたるものである。そこの二三四五人中で、名字のない者はわずか一六人である。
 東京都の江古田にある氷川神社の弘化三年(一八四六)の奉納者の名簿に出てくる八五名の農民も、すべて名字をもっている。
(中略)
 このようにみてくると、江戸時代の農村では名字を私称することがふつうで、名字をもたない農民が例外的なものであったことがわかってくる。とくに、中部地方以東では「水呑百姓」とよばれた小作人まで名字を名のっていたことを示す文献が多く残っている。
 それなら、どのようなところに名字のない農民がみられるのだろうか。一つには、村落の上層農民の勢力が強く、かれらが下層農民に名字を許さなかったところがある。そして、もう一つには室町時代末まで、侍と凡下の身分差という鎌倉時代風の価値観に固執する領主の支配がつづいたところである。そういった農村では、庶民は通称によって家々の区別をつけねばならなかった。
 ここで述べたようないきさつで名字の普及が遅れた集落は西日本に比較的多かった。


 江戸時代の八っアんや熊さんに名字があったかどうかは分からない。ただ江戸の町人のほとんどは家康が江戸に入った後にやって来た人々の子孫であり、江戸時代の初期は日本の人口の大部分は農民であったから、はじめは名字があったであろう。村方と違い名字を非公式にも使う機会もなく、代を重ねているうちに忘れられることも多かったのではなかろうか。


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