落語の中の言葉217「小咄・上」

 志ん生師匠は、「向こうの空地に囲いができた、ヘーイ(塀)」などをあげ、小咄から段々長くなって一席の落語になったと咄ている。落語の成立について、二代目船遊亭扇橋は『落語家奇奴部類』(弘化五年1848)に次のように書いている。
夫滑稽落語之始まりをたづぬるに、遠くに、慶長の昔、豊臣殿下之御側に仕まつりし、曾呂利新左衛門なるもの、御伽怪の噺をなして、殿下の御こゝろをなぐさめしより、元禄之頃、大坂に、露野五郎兵衛、伽羅小左衛門、辻談義弥兵衛、大江戸には、鹿の武左衛門、伽羅四郎斎抔いへるもの有しが、世に知らるゝ程にはあらざりし、近世、立川焉馬翁、寛政三壬辰とし正月廿一日、桜川慈悲成、石井宗叔等とはかりて、初て本所向島なる於麦斗楼莚を閧くより、続て、三笑亭可楽、三遊亭円生、船遊亭扇橋を以て、馬鹿三人と唱、其立川の流れをくんで、今世に遊民の家業とはなりぬ、(以下略)

 笑い話から落語への流れを考えてみる。
可笑しいことを言って人を笑わせることは大昔からあったであろう。それが仕事の一部のようになった者に談義僧と御伽衆がある。それらの笑い話等を集めた本が江戸初期に出版されている。
『きのふはけふの物語』・『醒睡笑』・『戯言養気集』。前二者は笑い話以外のものも多く含んでいる。これらがどんな物であったかそれぞれの最初の咄を紹介する。

○『きのふはけふの物語』
むかし天下を治め給ふ人の御内に、傍若なる者どもあつて、禁中へ参、「陣にとらう」といひて、槍の石突をもつて御門をたゝく。御局たち出あひ給ひて、「是は内裏様とて、下々のたやすく参る所にてはないぞ。はやく何方へも参れ」と仰せければ、「此家を陣にとらせぬといふ理屈のあらば、亭主罷り出て、きつと断を申せ」といふた。

○『醒睡笑』
 謂へば謂はるる物の由来。
 そら言をいふを、など、うそつきとは言ひならはせし。さればにや、うそという鳥、木のそらにとまりゐて琴をひく縁によせ、そらごとをうそつきといふよし。

○『戯言養気集』上
   しんほちいの故事
ある人、正月七日の事なるに、すきやにかまをしかけ、りんりんとたぎるを聞て、福田助十郎と云人のかたへ、一ふく申さうと、文をやりければ、助十かみをそりて参らではとて、たれかれとよべども、今日は遊び日にて有とて、皆々出て候と言ひしかば、いかゞせんと思ひいたる所へ、だんな坊主、年玉なんどさゝげまいられければ、福田悦て、さてもよき所へ御出有物かな、即頼申とて、かみをあらひ、一しきこねてかゝる、此僧、坊主あたま計そりつけたるゆへにや有けん、かたこびんよりめきめきとそりおとしければ、これはこれはと、きもをつぶし、以外腹を立、是非もなき御さいばんにて侍ると、ののしりしかば、いな事を承る、何とも御このみもおはさぬ間、とんせいなされ候かと存、仕て候とて腹を立、そりさしていなんと云しを引とめ、此上はそり度やうに御そり候へと申しければ、則新しほつけになしけり、正月なるにより是を新発意のはじめとす、
評して云、人ことふかう思ひ入し事有時は、たれもかくあらんとおもひ、くはしく云ことはらで、度々あやまちに至る事有、此助十郎も、いそぎかみをそり、はんなりとすきにあはん事をのみ思ひ、さかやきをとこのまざりしゆへ、存じもよらぬとんせい者になりにけり、

 この時期のものは笑い話ではあるが、落語とはほど遠い。

 元禄期になると職業的専門家が現れてくる。江戸では鹿野武左衛門(座敷仕方咄)、京では露の五郎兵衛(大道露天の辻咄)、大坂は米沢彦八(辻咄)など。一方素人の同好の者が集まって自作の笑話を披露する会も盛んになる。そこで発表された咄を集めた本も出版されている。『当世手打笑』(延宝九年1681) 。
 これらも紹介しておこう。

○『当世手打笑』延宝九年1681
   祇園町にて羽織を拾ふ事
ある者、夕べ花見の帰りが落したるちりめんの黒羽織を、祇園町にて拾いたるとて悦びけり。とつとぬけ男二人、これを聞きて、「いざ、おれらも拾いに行かふ」とて行きけり。あなたこなた見まはしけるが、一人の者、「落ちてあるぞ」とて、づかづかと立寄り、取らんとしたれば、真黒なる犬が、わんといふて飛びかかりければ、逃げて帰りた。連れの男、「拾やつたか」といへば、ぬからぬ顔にて、「羽織は落ちてあれど、犬めが先をこした」といへば。「さては、あいつも拾いに出たよの」。

○鹿野武左衛門『鹿の巻筆』第二 貞享三年1686
   筆屋の受領
通町に受領したる筆屋あり。名を能登守といへり。十四五なるわつぱしをつかひけるに、「をのれ能登守の内に長吉は似合わぬ、菊王とつけう」といふ。長吉きいて、「まことに長吉とは異な物でござる。菊王とつけて下されませい。わつぱへもつうじまする」と申ける。こゝにまた、能登守の家主に八兵衛と申男ありしが、のちに暇をとりて能登守の弟子になりけり。わつぱのいひけるは、「能登守の身内に八兵衛とは言われまい。名を変ゑてよかるべし。をれも長吉とは似合わぬとて、旦那の菊王とつけられた。そなたの名は次信(つぎのぶ)とつけふ」とて、家主よりきたる八兵衛を次信とぞ付にける。さてわつぱ、「八兵衛を次信とつけました」といへば、能登守きいて、「さてさて憎ひやつかな、次信はおれがために敵なるに、なぜ次信とはつけた」とて、さんざんに叱る。菊王きいて、「さてさて旦那はをろかな事をおしやる。おまへの大屋にいられましたさかいに、次信と付ました」と申た。
  大屋にい(居)られました=大矢に射られました

○露の五郎兵衛『軽口露がはなし』元禄四年1691
   文盲なる人物の書付を批判する事
ずんど文盲成田舎侍、供人少々めしつれ.京むろ町をとをり紿ひ、家々の暖簾の書付を見て行けるに、よめたる字一軒もなし、或所に戸をさし、「借家かし藏」と書付しを、しばらく立止り、ひそかに下人を呼、「あれは何といふ字じや」と問はれけるに、「かし家かし蔵あり」と申す。主人うちうなづき、「尤、手はよろしからねど、いかにとしても文章がよひ」といはれた。

 その後、天明期(田沼時代)には江戸からの文化発信が盛んになる。錦絵・黄表紙・洒落本等々。笑い話も「江戸小咄」と呼ばれるような簡潔にして洒脱なものとなる。『鹿の子餅』『聞上手』など。
 これも紹介しよう。

○『鹿の子餅』明和九年1772
   桃太郎
「むかしむかしの桃太郎は、鬼が島へ渡り、もとで入らずに多くの宝を取て來たげな。これほど手みじかな仕事はない。しかし犬と猿ときじが供をしたとある。おれもきやつらをこまづけるがよい」と。かの日本一の秬団子(きびだんご)をこしらへ、腰につけて行く。向ふの岩ばなに猿が出て居る。まづしてやつたりとうれしく、件の団子ぶらつかせ行過るを、猿よびかけ、「おまへどこへござる」「おれか、おれは鬼がしまへたからを取りにゆく」「腰につけたは何でござる」「是は日本一のきびだんご」。猿うかぬ顏にて、「こいつうまくないやつだ」。

○『聞上手』安永二年1773
   いなか帰
「どふだ、久しうあひませぬ。お替りもねいか」「これは五兵衛殿、きつい御見かぎりの。そふなさつだがよいのさ」「イヱわつちも先度から田舎へいつて居やした。それできやせなんだ」 女房「道理でこそ。マアあがりなさい。ホンニお前がござらぬゆへ、毎日御うわさばかり申てゐやした。そして田舎はおぢさんの所へかへ。何ぞおもしろい事でもあつたかへ」「アイ何も面白いこともなか橋さ。したが田舎は気散じなことさ。マアきゝねい、門口に莚を敷て寢てゐても、だれもしかるものはなし、大あぐらで飯をくふているとの、むかふの山には梅やさくらがさいてゐるの、こちらの池には杜若(かきつばた)が今をさかりとひらいてゐる。又こちらには紅葉が紅葉して、鶯などが來て鳴くの、それはそれは気のはれた穿鑿さ」 亭主「それはほんによかろう」 女房「したがまちなよ。アノ梅や櫻のじぶんに、なアに紅葉があろうや」「ハテそこが田舎はやりばなしさ」。

小高敏郎氏(『江戸笑話集』解説)によれば 
寛政の改革は、「文化界にも稀にみる大きい打撃を与えた。川柳・狂歌は共に諷刺性を失って、俳諧歌・狂句などという低調平俗なものになった」。しかし化政期には「話の流行はますます一般化」し咄の会は隆盛を見る。
「大衆化は一面卑俗化をまぬがれない。これらの咄本には、天明期の小咄の軽妙洒脱さ、簡潔な表現は既に失われて、冗長間のびした文体で、鋭さや粋な味わいは失われてしまっている。これには、会場で一人一話として、ある程度の間を持たせなければならないので、長くなったということもあろう。即ち読む咄本から話す咄本に転化しているのである。」
「一般に殆どが創作ではなく、先行の話の焼直しである。これは、語り口の巧みさを主眼とし題材は意にしないという風は強くなったためもあろう。」
寛政から文化にかけては、焉馬や慈悲成・一九らの主導で創作笑話の咄の会が頻繁に開かれ、多数の落咄が発表されて噺本にまとまり、やがて登場する落語家に格好の話柄を提供した。(武藤禎夫『化政期 落語本集』解説)

 この時期の代表が立川焉馬である。
 中興元祖       立川焉馬翁
本所立川通り相生町に住す、烏亭、又談州楼と号す、狂名鑿手斧言角金と云、御大工頭領の隠居にて狂歌を好し、戯場、浄瑠璃、青本の作者なり、寛政三壬辰年正月廿一日、向じま武蔵屋権三郎宅に於て、始めて落語の莚を開く、(以下略)(『落語家奇奴部類』)

焉馬が主宰した咄の会で発表された咄を集めた『無事志有意』(寛政十年1798)から紹介する。その巻頭を飾る焉馬自身の咄である。

   歳旦 若 水
「春は曙やうやうしろくなりゆく山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲の細くたなびきたる」と、清女のかゝれしもむべなるかな。一夜明ればかけ乞のつれなく見へしわかれより、暁がたは「扇々」「宝舟々々」と売声に裏住居のひとりものも目をさまし、若水汲んと手桶さげて井戸ばたにいたれば、とくにも起きて釣瓶ながら水をあびて居るもの有。「だれだ、福蔵か」「ムヽ徳右衛門か。いゝゐ春だな」「ヲヽサいゝ春だな。いつも元気だ。はやく起きたな」「何さ夕べから、親方の掛取の供にいつて今帰つたから、すぐに水をあひるは。去年の春もあびたら、一年中風もひかねへ。お主もあびやれ」「ムヽおれもあびべい」とはだかになり、あたまからざつぷり。「ヲヽひやつこい」といふ所へ、十五六な娘が手桶をさげて來て、「ヲヤヲヤふたりながら水をあびてさ。一寸(ちよつと)つるべをかしておくれ」「おとみさんか、父(とつ)さんはどうした」「父さんは福寿草を売に」「そうそう銭儲だの」「あぶない、おれが汲んでやろふ」と、手桶ヘ一杯。其跡へ長屋の女房二三人、「サアいゝ所へ来た。おいらにも汲んでくんな」と、面々頼んで汲でもろふところへ、壹人ずみの道心者の婆が、手桶をさげて、「ヲヽいゝ所へ来やした。どふぞ一ッ杯おくれ」といへば、顔を見て、「おいらはもふ恵方参りに行から、たれぞに頼みな」「コレそんなにいゝなさるな。娘や若いかみ樣たちには汲でやつて、そふはしないもの」といわれ、「てめへ汲んでやれ」「ヱヽおらア着物を着た」といゝながら不承々々井戸をのぞいて、「おやすい事だがあればいゝが」。

 同じ内容の江戸小咄と比べるとその違いがハッキリする。

○『絵本初音森』宝暦十一年1761
  水汲みも相手次第
親父、精出して水汲んで居る所へ、隣の娘きたりて、「私にも汲んで下さりませ」といふ。「どれどれ、なんぼでも汲んで進ぜう」と、ここを先途、汲んでやられけるところへ、又隣のおふく、「これこれ、わたしにも一杯、汲んで下され」と言いければ、親父いふやう、「まだ水があつたかしらん」と、井戸の中をのぞいた。

中興元祖と言われる立川焉馬の時代は、既にある咄を変更し膨らませて長くしている。新しい咄を創作するより、どう変えるか、どう演出してどう話すかに重点が移っている。現在の落語と同様である。


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