落語の中の言葉216「鏡(ガラス鏡)」
「崇徳院」より
双方が恋煩いになり、相手を探すように頼まれた者同士が床屋で出会い、互いに自分の御店へ連れて行こうと揉み合う。オチの多くは、鏡を割ってしまい、床屋の親方にどうするんだと云われ、「割れても末に買わんとぞ思う」である。
いつから床屋にガラス製の大きな鏡が置かれるようになったのかは分からないが、江戸時代の髪結床には無かった。
式亭三馬『浮世床』初編 文化十年1813
歌川広景「江戸名所道戯尽」四十五赤坂の景 万延元年1860
従ってこのオチは江戸時代を舞台とする時には使えない。十代目金原亭馬生師匠は二人が取っ組み合うところで切って、「目出度く夫婦がまとまります」とオチを付けずに人情話風に終わっている。
江戸時代の鏡といえば主に金属製である。
左は鏡架け、右は歌川国貞「今風化粧鏡」文政六年1823頃
ガラス製の鏡は江戸時代にもあることはあった。鬢鏡と呼ばれる小型の懐中鏡である。
奥女中の歌舞伎見物の供で来た部屋方の女中二人、小用のため茶屋へ行き、一人が雪隠へ行ったあと、
長局ばいやつて見るびんかゞみ 誹風柳多留二篇(明和四年1767)
「ばいやつて」=争って、あるいは我先に
また「自惚鏡」というのもあった。ガラス製とも云われているがハッキリしない。
山東京伝『仕懸文庫』寛政三年1791刊
深川を大磯に変えて曾我五郎等の話にしている。舞鶴屋の抱え「おてう」
金属製の小さな懐中鏡もあったので、ここにあげた鬢鏡がガラス製かどうか、またその場合にも輸入品か国産品かはわからない。ガラス製の鏡は日本国内でも造られていたが、その始まりの時期はハッキリしない。『日本ガラス鏡工業百年史』(昭和四十六年刊)によると次のようである。
長崎から堺にガラス製造技術が伝わり、寛保年間(1741~43)には十七人のガラス吹き屋があった。しかし鬢鏡の製造が始まったのは1740年代から1800年代の間であった。天保期には鬢鏡製造者の組合も出来ていて、それが株仲間禁止で天保十三年1842には停止された。安政四年1857に鬢鏡組合は再結成される。幕末には岸和田藩によって保護と規制が行われ、藩の指定業者「鏡元」が十六戸、素板作り、銀引、さや付け、木工等に分れた従業員は合計で200名以上であった。
ガラス製の鬢鏡は大型でも20センチ角、普通は5~6センチ角という小型のものである。二つの理由から大きなガラス鏡は出来なかった。一つは大きなガラス板が作れなかったこと、もう一つは金属鏡と同じく水銀を使って銀引をしていたため、面積の大きなガラスでは銀引きが出来なかったことである。明治になって板ガラスが輸入されるようになっても小さく切って銀引きしていた。切らずに銀引出来るようになったのは水銀を使った銀引法に代わって硝酸銀使用の天日による銀引法が採用された明治二十四年以降であるという。
青銅製等の金属鏡は鉄より軟らかいため、鋳たあと鏡になる面を粗密のヤスリで平らにし、鑯(せん)という刃物でヤスリ目を削り、砥石さらに炭で磨き上げる(165「湯屋・下」)ことが出来るが、ガラスのひっかき硬度は鉄より高いため、当時は磨いて平らにすることはできず、平らなガラスを作る必要があった。
同書によれば鬢鏡製造法は次のようである。
ちなみにヨーロッパでの板ガラスの工業生産について『旭硝子100年の歩み』には次のようにある。
日本で板ガラスの生産が始まったのは、明治四十二年である。このベルギー式手吹円筒法を導入したものである。
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双方が恋煩いになり、相手を探すように頼まれた者同士が床屋で出会い、互いに自分の御店へ連れて行こうと揉み合う。オチの多くは、鏡を割ってしまい、床屋の親方にどうするんだと云われ、「割れても末に買わんとぞ思う」である。
いつから床屋にガラス製の大きな鏡が置かれるようになったのかは分からないが、江戸時代の髪結床には無かった。
さて床場はいづれも土間にて客の腰掛くることは今と異ならず、されど今の如く椅子も鏡もなかりしことなれば客は細長き板の間に表の方向きて腰うち懸くるなり。(『江戸町方の制度』)
式亭三馬『浮世床』初編 文化十年1813
歌川広景「江戸名所道戯尽」四十五赤坂の景 万延元年1860
従ってこのオチは江戸時代を舞台とする時には使えない。十代目金原亭馬生師匠は二人が取っ組み合うところで切って、「目出度く夫婦がまとまります」とオチを付けずに人情話風に終わっている。
江戸時代の鏡といえば主に金属製である。
左は鏡架け、右は歌川国貞「今風化粧鏡」文政六年1823頃
ガラス製の鏡は江戸時代にもあることはあった。鬢鏡と呼ばれる小型の懐中鏡である。
奥女中の歌舞伎見物の供で来た部屋方の女中二人、小用のため茶屋へ行き、一人が雪隠へ行ったあと、
(女中)おたをは、はなかみさしのびんかゞみにて、㒵をふき、きわずみを出しひたひをなおし居る、以下略(容楊黛『歌舞妓の華』天明二年1782刊)
長局ばいやつて見るびんかゞみ 誹風柳多留二篇(明和四年1767)
「ばいやつて」=争って、あるいは我先に
また「自惚鏡」というのもあった。ガラス製とも云われているがハッキリしない。
山東京伝『仕懸文庫』寛政三年1791刊
深川を大磯に変えて曾我五郎等の話にしている。舞鶴屋の抱え「おてう」
「てう」はとこの中にはらばへになり、じよしんごのみの玉のきれでこしらへた、小サなかみ入の中から黒ぬりにしたうぬほれかゞみを出してみながら、かんざしでまへかみのほつれをなをしてゐる 以下略
所謂(いわゆる)浄波梨の鏡は。紅毛(おらんだ)のスピーケル、唐山(もろこし)の火斉鏡(くわせいきやう)。我国に称する自惚鏡なる物是なり。以下略(振鷺亭『自惚鏡』天明九年1789刊の森島中良の序)
金属製の小さな懐中鏡もあったので、ここにあげた鬢鏡がガラス製かどうか、またその場合にも輸入品か国産品かはわからない。ガラス製の鏡は日本国内でも造られていたが、その始まりの時期はハッキリしない。『日本ガラス鏡工業百年史』(昭和四十六年刊)によると次のようである。
長崎から堺にガラス製造技術が伝わり、寛保年間(1741~43)には十七人のガラス吹き屋があった。しかし鬢鏡の製造が始まったのは1740年代から1800年代の間であった。天保期には鬢鏡製造者の組合も出来ていて、それが株仲間禁止で天保十三年1842には停止された。安政四年1857に鬢鏡組合は再結成される。幕末には岸和田藩によって保護と規制が行われ、藩の指定業者「鏡元」が十六戸、素板作り、銀引、さや付け、木工等に分れた従業員は合計で200名以上であった。
ガラス製の鬢鏡は大型でも20センチ角、普通は5~6センチ角という小型のものである。二つの理由から大きなガラス鏡は出来なかった。一つは大きなガラス板が作れなかったこと、もう一つは金属鏡と同じく水銀を使って銀引をしていたため、面積の大きなガラスでは銀引きが出来なかったことである。明治になって板ガラスが輸入されるようになっても小さく切って銀引きしていた。切らずに銀引出来るようになったのは水銀を使った銀引法に代わって硝酸銀使用の天日による銀引法が採用された明治二十四年以降であるという。
青銅製等の金属鏡は鉄より軟らかいため、鋳たあと鏡になる面を粗密のヤスリで平らにし、鑯(せん)という刃物でヤスリ目を削り、砥石さらに炭で磨き上げる(165「湯屋・下」)ことが出来るが、ガラスのひっかき硬度は鉄より高いため、当時は磨いて平らにすることはできず、平らなガラスを作る必要があった。
同書によれば鬢鏡製造法は次のようである。
鬢鏡の主要資材である板ガラス素板は、まずガラス原料である硝石灰、長石、鉛、木炭の粉砕したものを、火消壺型坩堝に入れ、高熱で溶解した素地を鉄の管の先きに捲き、口で珠型に吹いてふくらませ、これを徐々に冷して固める。これを円筒口吹法と呼ぶ。こうして、固まった珠型の薄いガラスを、ヤスリを使って切り、弯曲したガラス片とする。つぎに、これを焼いた瓦の上に置き、柳の木で作った鏝(こて)で押し延ばし、ガラス板とした。このガラス板の大きさは、大型で二〇センチ角であったが、普通は五~六センチ角のものが多かった。この製法は「クラウン方式」と呼ばれている。こうしてできあがった素板ガラスに水銀引したものを、鬢鏡と称し、鏡は彩色した木裝のさやに納められた。これを木縁鏡と称していたが、持ち運びに便利なので、広く一般から歓迎されたものである。ところで、鬢鏡の水銀引法とは、まず水銀を錫か鉛箔の上に流し、この上にガラスを置きこれを美濃紙で覆い、素早くガラスを抜き出し、銀引面には吉野紙をはり付けて、銀の落ちるのを防いだ。この時代の水銀引方法は、秘密とされ、高い権利金を伝授料として払わされたものである。
ちなみにヨーロッパでの板ガラスの工業生産について『旭硝子100年の歩み』には次のようにある。
ベルギー式手吹円筒法
板ガラス生産の工業化は、1830(天保元)年ころにベルギーで始まった。手吹円筒法と呼ばれ、熔けたガラスを鉄製の吹棹に巻き取り、息を吹き込みながら左右に振って長さ150cm、直径30cmの円筒状に吹成(すいせい)し、その円筒を長手方向に切ったのち、加熱し板状にするという方法であった。
日本で板ガラスの生産が始まったのは、明治四十二年である。このベルギー式手吹円筒法を導入したものである。
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