落語の中の言葉215「水屋」

     古今亭志ん生「水屋の富」より

 落語に水屋が出て来るのは珍しい。この咄ぐらいであろうか。「子別れ」の下にもちょっとだけ「水屋」という言葉は使われている。熊さんがお店の番頭さんに頼まれて一緒に木場へ材木を見に行く時、相長屋の人に水屋が来たら一荷汲み入るように頼んでいる。
 江戸時代の水屋には二種類ある。ひとつはこの咄にあるもので、桶に入れた飲み水を水瓶に補充して売るもの、もう一つは「ひゃっこいひゃっこい」と水に砂糖を入れて金属の茶碗一杯四文で売るもの。後者は「冷水(ひやみず)売り」とも云う。道明寺や白玉も入れたようである。勿論冷たいわけではない。
「氷水あがらんか冷(ひやつこ)い。汲立あがらんか冷い 彦「ヲヽ能所(いゝとこ)へ水売が来た。ヲイ水屋。雪女でも氷坐頭でも入て、四文がくだつし 水うり「ハイハイ、道明寺を入れませうか とび「道明寺といふ化物は越後にもあるめヘス 作「お寺はある。おらしかも参(めへ)つた 彦「よせ、最(も)う倦(あき)た。面白くもねへ 作「サア御前をしくじつた。チョツおれも水でも飲べい。銭を忘れた。ヲイ番公、三十二文貸(か)さつし 彦「水を飮に三十二文か とび「四文が水で廿八文が髪結銭(かみゐせん)ス 作「馬鹿ア云や。そんな下直なお頭(つむり)ぢゃアねへ。一寸たばねが五十宛(ごじうッ)だ。ヲイ水や、そこにある砂糖をおもふさまぶちこんで、一盃くだっし。三十二文やるべい 水うり「ハイハイ (以下略)(式亭三馬『浮世風呂』四編巻之上)

『守貞謾稿』巻之六には
冷水売り 夏月、清冷の泉を汲み、白糖と寒晒粉の団とを加へ、一碗四文に売る。求めに応じてて八文・十二文にも売るは、糖を多く加ふなり。売り詞、「ひやつこひ、ひやつこい」と云ふ。

とある。

  水売の一ッか二ッすゞ茶わん      誹風柳多留三篇
  ぬるまゆを辻々てうる暑イ事      誹風柳多留一三篇

冷水売り四時交加六月.jpg
      『四時交加』上之巻の六月より (寛政十年1798)

 咄にある水売りについては

お初「チヨツおつかハまことにせハしないのう。今行といふのにじれつてへト(いふときいつもの水やの男、水がめへ水を入れながら)男「なにがそんなにじれつてへね お初「エヽおめへの事ちやねへきざな。だまつて入れて行な 水や「ハイハイかしこまりましたと(水を入れて出てゆく。お初ハふせうぶせうに二かいへあがり)  (三文舎自楽『娘消息』初編中 天保5~10年)


此節巳ノ刻の鐘ボヲン、ボヲン 水や「今日はようござゐますかナ。水屋でござゐます」 りき「水やさん、看て入れておくれヨ」 水「ハイハイかしこまりました、水や宜しふ。ハイ半荷の口もござゐませう」  (為永春水『春告鳥』巻之十一 天保七年1836刊)


  水くみの年頃ぶりハ茶をしかけ   誹風柳多留三篇
  水くみの銭へっついの角におき    誹風柳多留三篇

 水屋があったのは、飲料水に事欠く所があったからである。よく江戸の町は上水(水道)が網の目のように張り巡らされていたと言われるが、それは言葉の綾であって、水道のない地域もある。

上水地図.jpg
      「江戸上水配水図」 千川家文書より

 江戸の前期には上水は六つあった。神田上水・玉川上水・青山上水・三田上水・千川上水・亀有上水(本所上水)である。青山・三田・千川の上水は玉川上水の分水である。しかし神田・玉川の二上水以外の四上水は享保七年1722に廃止されている。千川上水は一時期再興されたが(安永九年1780)すぐに廃止(天明七年1787)されている。青山上水・三田上水・亀有上水(本所上水)がカバーしていた地域は享保期以後、上水はないのである。深川地区は初めから上水はない。

享保七年八月十七日 この十月より。千川の上水を引くことをとゞめらる。

享保七年九月三日 この日青山三田にかゝる上水を停廃せらる。

享保七年九月五日 また令せらるゝは。本所上水は。中古より取建られしかど。今水もかゝらざるをもて。とゞめらるゝとなり。
           (『有徳院殿御実紀巻十五』)


たとえば千川上水は上保谷新田に取水口があり、そこから板橋・巣鴨を経て本郷・上野・浅草方面へ流れていた。
千川上水が江戸府内で上水として利用されていたのは谷中・上野・下谷・浅草筋であり、だいたい神田上水の給水区域以東の小石川・本郷から浅草辺に至る諸大名・旗本の屋敷や社寺・町屋八〇余ヵ町におよんでいた。 (伊藤好一「江戸の水道制度」『江戸町人研究』第五巻)

 「谷中・上野・下谷・浅草筋」の町々というが今ひとつハッキリしない。文政八、九年に奉行所から指定された書式にしたがって町名主が書上げた浅草・下谷の『町方書上』を見ると、旧千川上水について記載している町は、非常に少ない。
 浅草御蔵の手前の極狭い範囲(浅草平右衛門町・同茅町弐丁目・同旅籠町一丁目代地・同町弐丁目代地・同天王町代地・同瓦町・同天王町)と池之端から下谷広小路の一部(下谷一丁目・同弐丁目・長者町続車坂町・上野黒門町・上野北大門町・下谷常楽院門前・池之端仲町)だけである。
 ただ千川上水が廃止されても掘抜井戸等を掘ったりして飲料水は大部分確保されていたようで、必ずしも水屋(水売り)に頼っていたわけではない。
千川上水再興の願人があった時、障りの有無を尋ねられ上水不要の返答書を提出している。

(明和七年1770)寅四月中、樽屋ニ而被相尋候ニ付、左之通返答出ス
尢四通左之通同文言ニ而出ス
 千川上水、古来之通本郷湯島下谷浅草辺江上水樋掛ケ渡度旨願人有之、右之通上水出来候ハヽ町方勝手ニも可相成哉、又ハ差支候儀も有之候哉、尤上水出来候得は、小間割水銀差出候儀、故障之有無町々相糺、御返答可申上旨被仰渡候ニ付、左ニ申上候
一先年千川上水之儀、私共町内江相掛り候処、享保七寅年十月ゟ上水止メに相成候ニ付、町々間数ニ応シ表裏共井戸を掘、向寄ニ呼井戸抔も仕、用水遣ひ水等随分沢山ニ而差支候儀無御座、先年は町々呼井戸も無数候故、水道調法ニ御座候得共、凡四拾年余以来町々堀井数多ニ而、当時水不自由成儀も無御座候、此度千川上水出来仕候ハヽ、小間割水銀可相掛旨、左候得は新規入用相掛り難儀仕候段、町内一同ニ申候ニ付、乍恐唯今迄之通被差置被下候様ニ仕度奉存候、依之以書付御返答申上候、以上
  明和七寅年四月 (『江戸町触集成』第七巻)

 また水道の網の目自体も粗く、網の目から漏れている所も多い。上水の通っている町でも水道井戸は一町に四箇所以下であるから、家のすぐ前に水道井戸のある家は少ない。裏長屋でも表の水道井戸から呼井戸を願出て設けることは出来るが、工事費用・維持費用はその地主の個人負担であり、水銀もかかる。「153裏長屋・井戸」で採り上げたように、井戸のない裏長屋も多かった。それで水汲みを頼んでいる者もいた。
 上水の水銀は間口の小間に応じて地主が負担し町がまとめて納めている。いわば専用利用権料のようなものであろう。従って水汲みは上水井戸から水を汲んでその町の住人の水瓶へ運んで賃銭をもらうのである。水屋は上水井戸のある町や飲み水として使える井戸の持主などと契約して水を汲んで他の町へ売り歩いたのであろう。深川などへは上水の落口から水船に積んで運んでいたようである。この場合には役銭を払っていた。水船利用の水は舟水と呼ばれている。
 水汲みについては、延享四年1747卯三月水汲人に組合を作り役銭を取りたいという願人があり、障りの有無について返答するように町年寄喜多村から年番名主へ申渡しがあった。それに対して次のように答えている。
返答書
 松島町家主文右衛門と申者、此度町々賃水汲者共方ゟ、壱人前ゟ壱ケ月七拾弐文宛役銭請取、札相渡、仲ケ間相定、無札之者猥ニ水汲不申候様ニ仕候得ハ、水汲之為ニも相成候ニ付、願之通被仰付候ハヽ為冥加、神田佐久間町天文者御用人足一日ニ五人宛、壱ケ月ニ百五拾人差出可申候旨奉願候ニ付、相障も無之哉御尋ニ付、左ニ申上候
一水汲之儀ハ、町々相対を以汲候義ニ御座候間、此度文右衛門願之通被仰付候ハヽ、纔之賃銭ニ而渡世仕候者ニ御座候得ハ、役銭差出候儀困窮可罷成と奉存候、尢役銭差出候ハヽ、自然と賃銭も高直ニ罷成、水汲頼候程之者ハ無之、至而軽キ者共ニ御座候得は、是又難儀之筋ニ罷成、水汲をも相頼不申、自分と汲稼候、其上末々ニ至、御威光ケ間敷儀も申立候様ニ罷成、水汲共別而難儀可仕と奉存候、是迄相対ニ而済来候得ハ、只今迄之通被差置候様仕度奉願上候、以上
  卯三月        年番名主共 (『江戸町触集成』第五巻)

 また水船を使った水売りの役銭については次の町触がある。
享保十八年1733丑七月
   樽屋ニ而年番名主江被申渡
一御堀浚御普請ニ付、水船之者共、南紺屋町之吐水汲候故不勝手之由、依之銭瓶橋上水之吐水、来十一日ゟ勝手次第、前々之通汲取可申旨、水船持并水調候町々江可申聞候
一当二月ゟ六月迄水銭、清右衛門方江請取申間鋪由ニ候間、相渡候ニ不及候
一水船持共之内、紛敷儀抔申、役銭不出者も有之由ニ候、水船持候上ハ役銭可指出事ニ候、自今急度差出シ、滯等有之候ハヽ是又相済可申候
   七月  (『江戸町触集成』第四巻)

  水くみハ小べり斗の舟にのり   誹風柳多留二〇篇

 ところで、水汲みや船水の値段は一荷数文と僅かである。

寛政三年1791
亥三月二日
  河内守様御番所ニ而三村吉兵衛殿御勘定御組頭御立会ニ而肝煎名主江被仰渡之
此節銭相場引立候ニ付諸色直段引下候得共、諸品々之内町々水汲銭之義、前々は水一荷ニ付三文宛ニ而水汲入候処、近来銭相場下直ニ相成、其後は一荷四文又は五六文位ニ成行候間、右水汲銭早々引下候様可申付候
 但、舟水之義も右ニ準為引下候様可申旨事

亥三月廿三日
一諸色直付有躰張出し可申旨、北定廻り方被仰渡、諸色掛り名主右通有之
一船水之義遠近無差別、壱荷ニ付三文宛水売渡世致候様、萩野政七殿ゟ被仰渡、肝煎通有之      (『江戸町触集成』第九巻)


 「水くみ」という言葉は、本人に代わって水を汲み賃銭をもらう者と、飲料水を売る者の両方に使われているようである。


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