落語の中の言葉203「血脈の御印」
「善光寺」に続き、十代目 桂 文治「お血脈」より
今回のテーマは「血脈の御印」である。そもそも「血脈の御印」という言葉はよくわからない。血脈と印文とは別物だと思うからである。
血脈を辞書で引くと
〔仏〕
①師から弟子に法灯がうけつがれていくこと
②師から弟子に与える相承の系図
③在家結縁の者に与える法門相承の略譜
とある。(『広辞苑』)
咄の中の血脈は③のことであろう。五来重『善光寺まいり』(1988)には次のように書かれている。
一方「印文」の方は、善光寺のホームページに、御印文頂戴について次のように載っている。
善光寺では落語の「血脈の御印」は「御印文」のことだと考えているようである。「血脈の御印」という言葉は善光寺のホームページには見当たらない。どうやら「血脈の御印」というのは「御血脈譜」と「御印文」をごっちゃにしたもののようである。
江戸時代にも善光寺に限らず「御印文」という言葉を使っている。
天明元年1781(三月十一日より十三日迄多田薬師内にて、同十四日より十八日迄、沼田延命寺にて)信州善光寺回国如来御印文内拝。(斎藤月岑『増訂武江年表』)
近年善光寺如来。出開帳の時。百ツヽで。御印文を受云々(『翻草盲目』安永期?)
その「御印文」とは如何なるものであろうか。
とあって、正体は不明である。ただ、五来重『善光寺まいり』の元善光寺について述べるところに、
また同書の甲斐善光寺のところには
五来重氏は「本師如来 決定往生」印だけを押したのであろうと考えているが、長野の善光寺では現在三つの印を頂かせている。なお「カ」字・「キリーク」字については後に述べる。
『一光三尊の御仏』には本田善光が授かったとあるが何に拠るのか不明である。五来重『善光寺まいり』に「善佐が閻魔大王に代って印文を印点する」とあるのは、善光が麻績(現飯田市)から芋井(現長野市)に善光寺如来を移した翌年に、子の善佐が死に、夫婦の嘆きに善光寺如来が閻魔大王に掛け合って善佐を甦らせる。五来氏はその際に善佐が閻魔大王から印文を授かったと考えているからである。ただし私が見た善光寺縁起には印文の記載はなかった。善光寺縁起では、善光寺如来の交渉によってこの世に戻れることになった善佐は、善光寺如来と娑婆世界へ還る途中、地獄で苦しむ皇極天皇を見かける。そこで自分が身代わりになるので皇極天皇を生き返らせて欲しいと如来に頼む。如来はその言を神妙に思って善佐の頭を三度手で撫でるとある。三種の御印文と関係がありそうな気がする。
以大智御手三度摩善佐頂、舒不虚妄御舌讃善佐言、善哉善哉、本次善佐、形似凡夫心同菩薩云々、
もし三種の御印文が如来から善佐に与えられた物であれば、阿弥陀如来の「キリーク」字でよいことになる。
ところで、一度閻魔庁へ行き、生き返ったという話は多い。その中には閻魔大王から印鑑を貰ったというものもある。京都の真如堂(真正極楽寺)には安倍晴明の話がある。
右にあるのは「決定往生の秘印」の図である。閻魔王からもらった印が五芒星であるのはご愛嬌。
また西国三十三観音霊場の始まりについて『中山寺来由記』には次のように書かれている。
この印と同じ物が西国三十三観音札所第十七番六波羅蜜寺にもあるという。
「カ」字、「キリーク」字について
仏菩薩にはそれを象徴する梵字壱文字があり、これを種子という。「カ」とか「キリーク」というのはこの種子である。阿弥陀如来、地蔵菩薩、観音菩薩の種子は次の通り。閻魔大王は地蔵菩薩と同体とされているのでその種子は地蔵菩薩と同じ「カ」である。
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今回のテーマは「血脈の御印」である。そもそも「血脈の御印」という言葉はよくわからない。血脈と印文とは別物だと思うからである。
血脈を辞書で引くと
〔仏〕
①師から弟子に法灯がうけつがれていくこと
②師から弟子に与える相承の系図
③在家結縁の者に与える法門相承の略譜
とある。(『広辞苑』)
咄の中の血脈は③のことであろう。五来重『善光寺まいり』(1988)には次のように書かれている。
民俗宗教にとってもっとも重要な、葬送儀礼の死者の霊魂の鎮魂に、善光寺の印文、手判、血脈は不可欠の役割を果たしてきた。その需要があまりに大きいために、これを頒布する中継地として新善光寺または元善光寺が成立するのであって、元善光寺としてもっとも有名な信州飯田の座光寺では、棺に入れるための「御血脈譜」を古式通りに出している。包紙のなかには「融通念仏血脈譜 信州元善光寺別当座光寺」の折紙と小型の草鞋と数珠が入っていて、まことに奥ゆかしい。この血脈を受けた人は、余生は安穏であり、いつ死んでも後世安楽の安心感を得るであろう。
一方「印文」の方は、善光寺のホームページに、御印文頂戴について次のように載っている。
一月七日~十五日 午前九時~午後四時
御印文頂戴とは、善光寺如来様のご分身である三つの御判さん(御印)を参詣者の頭上に戴かせて所願成就ならびに極楽往生の結縁の証とする儀式で、7日から15日まで毎日朝9時頃から夕方まで行われます。
この御印文頂戴は、古典落語『お血脈』の中で「閻魔大王の命令で善光寺へこの御印を盗みに入った石川五右衛門が、それを見つけてうれしさのあまり額に頂いた所、そのご利益で極楽へ行ってしまった」という話になるほど、有名な儀式です。
善光寺では落語の「血脈の御印」は「御印文」のことだと考えているようである。「血脈の御印」という言葉は善光寺のホームページには見当たらない。どうやら「血脈の御印」というのは「御血脈譜」と「御印文」をごっちゃにしたもののようである。
江戸時代にも善光寺に限らず「御印文」という言葉を使っている。
天明元年1781(三月十一日より十三日迄多田薬師内にて、同十四日より十八日迄、沼田延命寺にて)信州善光寺回国如来御印文内拝。(斎藤月岑『増訂武江年表』)
近年善光寺如来。出開帳の時。百ツヽで。御印文を受云々(『翻草盲目』安永期?)
その「御印文」とは如何なるものであろうか。
因にいふ、本堂には、三つの宝印あり、此の宝印は、人皇三十七代孝徳天皇白雉五年正月七日と申すに、大檀那若麻績善光に授け給ひし物にて、御堂にしては、第一の宝物なれば、紙を重ねて、幾重ともなく包みたれば、今にしては、其の御印の文字たにも見る事あたはず、唯だ大切なる物として、三都などにて開帳あるにも、本尊の先きに立てゝ、大内にも参れば、 主上を始め奉り、女御更衣の御方々にも、結縁の爲にとては戴かせ奉る事あるなり、(善光寺保存会『一光三尊の御仏』明治四十二年)
とあって、正体は不明である。ただ、五来重『善光寺まいり』の元善光寺について述べるところに、
またこの寺では本堂の地下に回(戒)壇巡りがあり、善光寺如来の瑠璃壇の鍵の横に善知識(住職)の高座がある。ちょうど本堂の御三卿壇の下であって、善知識が巡ってきた信者の額に、錦の袋に包まれた御印文を捺す。まさしくここの御印文は本多善佐(ここでは本田を本多と書く)が閻魔大王に代って印文を印点する形をのこしていたのである。
(中略)
私は元善光寺で無理を言って、御印文の厳重な包みを開いていただいたら、印文の梵字は閣魔大王の「カ」字ではなくて、阿弥陀如来の「キリーク」字であった。したがってこれは、善知識が阿弥陀如来の身代り(生身の如来)となって、念仏十念とともに印点するようになった証拠である。座光寺の御印文は錦の布のなかに、十枚ほどの和紙で銅製の印文を包んでいたが、この和紙がすっかり梵字の型に抜けてしまっていた。いかに長年、多くの信者の額に捺したかを想像させるもので、このような庶民信仰の事実は、インテリ、文化人は見ようともしないし、したがって記録文献にはのこらないものである。
また同書の甲斐善光寺のところには
なお、新善光寺信仰にはなくてはならぬ聖徳太子像(元太子堂)、御三卿像、寝釈迦像もさすがにそろっており、御印文も三種ある。なかでも「本師如来 決定往生」印がおそらく額に印点されたものであろう。ほかに「キリーク」印、梵字「ナムアミダブツ」の六字印がある。ただ御回壇巡りは焼亡、再興をくりかえすあいだに失われたらしく、いまはない。
五来重氏は「本師如来 決定往生」印だけを押したのであろうと考えているが、長野の善光寺では現在三つの印を頂かせている。なお「カ」字・「キリーク」字については後に述べる。
『一光三尊の御仏』には本田善光が授かったとあるが何に拠るのか不明である。五来重『善光寺まいり』に「善佐が閻魔大王に代って印文を印点する」とあるのは、善光が麻績(現飯田市)から芋井(現長野市)に善光寺如来を移した翌年に、子の善佐が死に、夫婦の嘆きに善光寺如来が閻魔大王に掛け合って善佐を甦らせる。五来氏はその際に善佐が閻魔大王から印文を授かったと考えているからである。ただし私が見た善光寺縁起には印文の記載はなかった。善光寺縁起では、善光寺如来の交渉によってこの世に戻れることになった善佐は、善光寺如来と娑婆世界へ還る途中、地獄で苦しむ皇極天皇を見かける。そこで自分が身代わりになるので皇極天皇を生き返らせて欲しいと如来に頼む。如来はその言を神妙に思って善佐の頭を三度手で撫でるとある。三種の御印文と関係がありそうな気がする。
以大智御手三度摩善佐頂、舒不虚妄御舌讃善佐言、善哉善哉、本次善佐、形似凡夫心同菩薩云々、
もし三種の御印文が如来から善佐に与えられた物であれば、阿弥陀如来の「キリーク」字でよいことになる。
ところで、一度閻魔庁へ行き、生き返ったという話は多い。その中には閻魔大王から印鑑を貰ったというものもある。京都の真如堂(真正極楽寺)には安倍晴明の話がある。
ある時、晴明公が急死して閻魔大王のもとへ引き出された時、晴明公が信仰して自宅でまつっていた不動明王がその場に飛来して、「この者は定業にて来る者に非ず。いまだ娑婆の報命尽きずといえども、その難病に侵され養生叶わずして遂に命終す。すなわち横死なり。今一度娑婆へ返したまえ」と命乞いをされたそうです。閻魔大王はこれを聞き入れて、晴明公を蘇生させたというのです。(中略)
真如堂にはこの場面だけをクローズアップした掛け軸が伝わっていて、さらにこの時に清明公が閻魔大王から授かったという「決定往生の秘印(五行之印)」もあります。
印に添えられた巻物には、閻魔王は晴明に、「是は我が秘印にして、現世には横死の難を救い、未来にはこの印鑑を持ち来る亡者 決定往生の秘印なり。是は汝一人のために非ず。娑婆へ持ち帰り、この印鑑を施し、あまねく諸人を導くべし」と言って、秘印を与えたことや、晴明が蘇生して気がつくと、懐中にこの金印が入っていたこと。晴明はその後85歳まで生き、この印鑑を多くの人に施し、逝去後、持仏の不動明王と印紋は真如堂に納められたことが記されています。
(中略)
今でも7月25日の「宝物虫払会」の折には、本堂内陣にこの掛け軸をまつり、「決定往生の秘印」を額に押し当ててその印紋を授与する行事を行っています。印紋は普段でも本堂の受付で授与し、極楽往生を願う人や亡き人の棺に入れたいなどという方が求めていかれます。(真如堂ホームページ)
右にあるのは「決定往生の秘印」の図である。閻魔王からもらった印が五芒星であるのはご愛嬌。
また西国三十三観音霊場の始まりについて『中山寺来由記』には次のように書かれている。
爰に本国三十三所巡礼の元由ハ古昔養老二年二月十五日に和州長谷寺の徳道上人暴に死して冥途に至て閻魔王に見へたまへり(中略)
日本に観音の霊場三十三所あり、一度此地を踏ものハ、たとひ十悪五逆の人たりといふとも永(く)三悪道に堕せじ、(中略)郷本土に帰て王臣衆民をはじめ疾く巡礼せしむべし、上人の曰、されバ凡情ハ疑多し、証拠なくバ信仰しがたし、こいねかはくハ璽を給らんと、閻王是に宝印記文を賜ひ告て曰、此は是法印なり、必(ず)疑ふものハ生々悪趣に堕しなんと、種々の妙功徳を讃嘆あり、上人逐に甦たまふに彼宝印しかも手にあり、(後略)
この印と同じ物が西国三十三観音札所第十七番六波羅蜜寺にもあるという。
第十七番 六波羅蜜寺
現在でも閻魔さんからもらってきたという印文が六波羅蜜寺にあります。三十三所巡礼を始めた徳道上人という長谷寺の開基になる方も、頓死して地獄に落ちたが、閻魔さんに「三十三観音の功徳を人々に広めるために、娑婆に帰って巡礼を勧めよ」といわれて帰ってきたので、やはり印文があります。
近ごろ三十三所では納経に印をあまり使いませんが、せっかく閻魔さんがくれたのですから、本当なら使わなければいけません。普通の判こを押してもらうよりは、よほどそのほうがありがたいとおもいます。その判こをもってあの世に行って、「あなたの判こを押してあるじやありませんか」といえば、閻魔さんも無理に地獄に落とさないというのが、昔の人々の一つの望みでした。
閻魔さんとお地蔵さんは同体だという信仰があって、地蔵さんの印文が押してあります。カというのがお地蔵さんの梵字です。ところが、たいていのところがキリークという阿弥陀さんの梵字になってしまいました。六波羅蜜寺に現在残っている閻魔さんの印文もキリークですが、途中でわからなくなって、阿弥陀さんのほうがいいだろうと。いうので変えてしまったのかもしれません。云々(五来重『西国巡礼の寺』平成七年)
「カ」字、「キリーク」字について
仏菩薩にはそれを象徴する梵字壱文字があり、これを種子という。「カ」とか「キリーク」というのはこの種子である。阿弥陀如来、地蔵菩薩、観音菩薩の種子は次の通り。閻魔大王は地蔵菩薩と同体とされているのでその種子は地蔵菩薩と同じ「カ」である。
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