落語の中の言葉201「姿海老屋」
前回新吉原を話題にしたので、ついでに今回も吉原を採り上げる。
落語には時々、実在した遊女屋の名前が出て来る。例えば
三浦屋 紺屋髙尾
佐野槌 文七元結
熊蔵丸屋 鰍沢
半蔵松葉 柳田格之進
姿えび屋 幾代餅、お若伊之助
以下、これらの見世を簡単に紹介する。
○三浦屋は二軒以上あり、髙尾や薄雲を抱えた三浦屋四郎左衛門は他の三浦屋と区別して大三浦屋と呼ばれていたらしい。
元文五年1740の細見には京町一丁目に三浦屋は三軒ある。仲之町から入る右側角「四郎左衛門」、向い左側角「孫三郎」、その隣「源左衛門」。いずれも格子以上のいる大見世である。
元文五年の吉原細見の京町部分
この細見で其の外に格子以上の遊女がいるのは江戸町一丁目左側玉屋山三郎と同町右側末の西田屋又左衛門の二軒だけである。このうち太夫がいるのは玉屋と大三浦屋だけである。
元文五年の吉原細見の江戸町一丁目部分
読みやすいように西田屋だけ180度回転させている。
妓楼の消長は激しく、古い見世が消え、新しい見世が現れている。三浦屋四郎左衛門は宝暦六年1756に廃絶したという。
また、吉原の開基と言われる庄司甚右衛門の見世は息子の代に廃業している。
娘婿を別家させた局見世は残っていて、その孫に当たる養子(庄司勝富)が大見世として再興したが、その西田屋も延享四年1747には廃業したという。
個々の見世の消長だけでなく吉原全体の盛衰もあって、文化の中頃は大変不景気だったらしい。式亭三馬は『式亭雑記』(文化七年1810自序)で次のように述べている。
そして男芸者・女芸者・茶屋の数をあげ、大見世・交り見世・二朱見世に分けて遊女屋の名を列挙して、「三馬想ふに、四五年前に比しては、遊女の数も少く、名妓といふべきもの、半は減じたり、」と述べている。
同書に書かれている遊女屋の合計数だけをあげると次の通り。
■ 大みせ 惣まがき 惣高 8軒
▲◑交じり見世 半まがき 惣高 19軒
◑ 二朱店 惣半まがき 惣高 58軒
西河岸惣高 22軒
伏見町惣高 21軒
羅生門がし惣高 28軒
新町
局見世 〆58軒
遊女には昔、太夫、格子、はしのランクがあったように、遊女屋にも惣まがき、半まがき(交じり)、惣半まがきのランクがあった。
なお、三馬があげる■印大見世 惣まがきの八軒は次の通り。
江戸町一丁目 玉屋治郎三郎
同 松葉や半左衛門
同 扇屋宇右衛門
江戸町二丁目 玉屋庄兵衛
同 若那や八郎右衛門
同 丁字屋長兵衛
京町一丁目 大文字屋市兵衛
同 鶴や市三郎
文化七年1810に八軒あった大見世は幕末には二軒に減っている。
守貞謾稿は次の籬の図を揚げている。
この図だけでは分かり難いので、向井信夫氏の説明を引用する。
さらにわかりやすいように、それぞれの図をあげる。
総籬 「明烏雪惣花」文政八年1825 より。五渡亭国貞画
半籬 「走書柳禿筆」刊年不明 より。二世一陽斎豊国画
総半籬 「菊寿童霞盃」天保十年1839 五篇下より。国貞画
これらは皆、土間の内部を描いているので、通りに面した所を含む図もあげる。ただ時期が大分違うので少し様子が異なっている。
「古今吉原大全」明和五年1768 より
因みに前回紹介した『錦之裏』の口絵(京伝画)は見世の内側から暖簾・土間の方向を描いたものである。
次に落語に出て来る遊女屋を載せる吉原細見のページを紹介する。三浦屋はすでに揚げた。
○佐野槌屋せい 安政六年1859 江戸町二丁目右側 半籬
佐野槌屋の主人は変体仮名で「せい」とあり、女主人である。落語「文七元結」も女主人である。文政八年1825の細見には佐野槌屋長兵衛とあり、惣半籬であった。天保十五年1844の細見では佐野槌屋せゐ、見世も交じり見世(半籬)に変わっている。同一人物であろうか、一方はア行の「い」、他方はワ行の「ゐ」となっている
○丸屋熊蔵 安政六年1859 江戸町二丁目右側 小見世(総半籬)
○松葉屋半蔵 天明三年1783 京町一丁目左側 半籬
丸屋も松葉屋も二軒以上あり、区別するために主人の名を冠して、熊蔵丸屋、半蔵松葉と呼ばれている。
松葉屋半蔵は交じり見世(半籬)であるが、松葉屋半左衛門の方は大見世(総籬)である。半蔵松葉は見世の場所も変わっており、寛政七年1795には角町にあった。南千住の素戔嗚神社(江戸時代の名は小塚原天王社)には文化五年1808に松葉屋半蔵が奉納した狛犬があった。「新吉原角町松葉屋半蔵」「文化五年戊辰閏六月吉日」と彫られていた。二十五年も前のことであるから今あるかどうかは分からない。
○姿海老屋久兵衛 安政六年1859 京町一丁目右側 半籬
姿海老屋は寛政七年1795の細見では主人の名は「久次郎」で見世は惣半籬であった。「柳田格之進」には大見世とあるが、実際の見世は惣半籬から交じり見世に変わった見世で大見世ではない。
最後に廓の全体図をあげる。
「花廓新宅細見図」 安政四年1857
「花廓新宅細見図」は仮名では「しんよしはら ほんたく さいけんのづ」となっている。
安政二年十月二日亥刻(22時頃)に発生した大地震と火災のため新吉原は全焼した。500日の仮宅が許可され、新築なった新吉原で営業を再開したのは安政四年六月で、その際の細見図である。そのため「新宅」に「ほんたく」と振り仮名がついている。
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落語には時々、実在した遊女屋の名前が出て来る。例えば
三浦屋 紺屋髙尾
佐野槌 文七元結
熊蔵丸屋 鰍沢
半蔵松葉 柳田格之進
姿えび屋 幾代餅、お若伊之助
以下、これらの見世を簡単に紹介する。
○三浦屋は二軒以上あり、髙尾や薄雲を抱えた三浦屋四郎左衛門は他の三浦屋と区別して大三浦屋と呼ばれていたらしい。
元吉原は、今の和泉町、高砂町、住吉町、難波町、此所方二町四方也。竈河岸は其時の小堀なり。今の大門通りは、其時の大門口通り也。其頃の遊女屋京町右側角、大三浦屋四郎左衛門、同左側角、むかふ三浦屋源三郎、是等其頃の大見世なり。(庄司勝富(西田屋又左衛門)『洞房語園』享保五年1720自序。この部分は活東子が流布本から遺漏を補う)
元文五年1740の細見には京町一丁目に三浦屋は三軒ある。仲之町から入る右側角「四郎左衛門」、向い左側角「孫三郎」、その隣「源左衛門」。いずれも格子以上のいる大見世である。
元文五年の吉原細見の京町部分
この細見で其の外に格子以上の遊女がいるのは江戸町一丁目左側玉屋山三郎と同町右側末の西田屋又左衛門の二軒だけである。このうち太夫がいるのは玉屋と大三浦屋だけである。
元文五年の吉原細見の江戸町一丁目部分
読みやすいように西田屋だけ180度回転させている。
妓楼の消長は激しく、古い見世が消え、新しい見世が現れている。三浦屋四郎左衛門は宝暦六年1756に廃絶したという。
宝暦五年1755細見〔入相の花〕に、三浦屋ありて、同七年細見〔花たちばな〕に、三浦屋なし。宝暦六年家たえたり (山東京伝『近世奇跡考』文化元年1804序)
また、吉原の開基と言われる庄司甚右衛門の見世は息子の代に廃業している。
「おやぢ」と呼ばれていた吉原の惣名主庄司甚右衛門は寛永二十一年(一六四四)十一月十八日に歿し、報誉浄心居士と諡号され深川雲光院に葬られた。(中略)改元された翌正保二年に甚右衛門の一子介三郎が五町惣名主の職を襲ったのは当然と思われる。
しかし介三郎は甚右衛門中年の頃の出生でこの頃三十歳前後だったようであり、惣名主の役は過重であったのであろうか。慶安二年(一六四九)にいたって突然名主退役を願い、持屋敷を全部返上して廓外に移り(いったん長谷川町に住し、後芝金杉辺に転住という)、親戚一同とも不通となったので、庄司の本家は二代で絶えてしまった。(向井信夫「江戸町の名主たち」『新燕石十種』第二巻付録)
娘婿を別家させた局見世は残っていて、その孫に当たる養子(庄司勝富)が大見世として再興したが、その西田屋も延享四年1747には廃業したという。
西田屋又左衛門の見世は延享三年1746秋の細見『夕もみぢ』に江戸町一丁目木戸際の松葉屋の隣にあるが、翌四年には娼業を廃めたものであろう。(同書)
個々の見世の消長だけでなく吉原全体の盛衰もあって、文化の中頃は大変不景気だったらしい。式亭三馬は『式亭雑記』(文化七年1810自序)で次のように述べている。
此節吉原は甚不景気也、久しぶりにて細見を見るに、
よび出し 扇屋滝川、丁字や唐歌二人のみ、金壱両壱分の格子女郎
扇屋に花扇なし、
松葉屋に瀬川なし、
玉屋に三分の散茶なし、皆うめ茶計り(中略)
丁子屋に鄙鶴なし、一山なし、よび出し唐歌壱人
そして男芸者・女芸者・茶屋の数をあげ、大見世・交り見世・二朱見世に分けて遊女屋の名を列挙して、「三馬想ふに、四五年前に比しては、遊女の数も少く、名妓といふべきもの、半は減じたり、」と述べている。
同書に書かれている遊女屋の合計数だけをあげると次の通り。
■ 大みせ 惣まがき 惣高 8軒
▲◑交じり見世 半まがき 惣高 19軒
◑ 二朱店 惣半まがき 惣高 58軒
西河岸惣高 22軒
伏見町惣高 21軒
羅生門がし惣高 28軒
新町
局見世 〆58軒
遊女には昔、太夫、格子、はしのランクがあったように、遊女屋にも惣まがき、半まがき(交じり)、惣半まがきのランクがあった。
なお、三馬があげる■印大見世 惣まがきの八軒は次の通り。
江戸町一丁目 玉屋治郎三郎
同 松葉や半左衛門
同 扇屋宇右衛門
江戸町二丁目 玉屋庄兵衛
同 若那や八郎右衛門
同 丁字屋長兵衛
京町一丁目 大文字屋市兵衛
同 鶴や市三郎
文化七年1810に八軒あった大見世は幕末には二軒に減っている。
大見世を惣籬とも云ふ。今世、玉屋と久喜万字二戸のみ。また中見世をまぜりとも半籬とも云ふ。小見世、呼び出し女郎一人もこれなきを云ふなり。(『守貞謾稿』巻之二十二)
守貞謾稿は次の籬の図を揚げている。
この図だけでは分かり難いので、向井信夫氏の説明を引用する。
通常、大見世と言われるのは、大籬(おおまがき)、総籬、本籬などと同義であり、江戸後半期以降の吉原の一流妓楼の称である。大籬以下の呼称は町に面した見世の格子先から、直角に入る屋内の暖簾口までの間の、土間(庭とも言う)と見世の間を仕切る連子格子(籬)がすべて天井まである造りから出たものである。見世の内は暖簾口の延長が表の格子と平行して襖となっており、この襖を背にして中座以下見世張りの遊女が毛氈の上に居並ぶ。籬を背にするのは最下等の妓で、清掻を弾く新造などがここに座る。襖のうしろは楼主の居る内証であり、遊客の登楼する二階(遊女の部屋、座敷はすべて二階にある)への階段であり、土間の延長は台所となっている。この大籬に対して、籬の高さがすべて半分しかないのが総半籬(小見世。二朱見世と呼ぶ。後年表通りに面している見世を大町(だいちよう)小見世とも言った)、暖簾寄りの籬の半分だけが天井まであるものを交(まじ)り半籬または交り手摺(交り見世)と呼んだ。(「大見世周辺(吉原1)」『洒落本大成』付録1)
さらにわかりやすいように、それぞれの図をあげる。
総籬 「明烏雪惣花」文政八年1825 より。五渡亭国貞画
半籬 「走書柳禿筆」刊年不明 より。二世一陽斎豊国画
総半籬 「菊寿童霞盃」天保十年1839 五篇下より。国貞画
これらは皆、土間の内部を描いているので、通りに面した所を含む図もあげる。ただ時期が大分違うので少し様子が異なっている。
「古今吉原大全」明和五年1768 より
因みに前回紹介した『錦之裏』の口絵(京伝画)は見世の内側から暖簾・土間の方向を描いたものである。
次に落語に出て来る遊女屋を載せる吉原細見のページを紹介する。三浦屋はすでに揚げた。
○佐野槌屋せい 安政六年1859 江戸町二丁目右側 半籬
佐野槌屋の主人は変体仮名で「せい」とあり、女主人である。落語「文七元結」も女主人である。文政八年1825の細見には佐野槌屋長兵衛とあり、惣半籬であった。天保十五年1844の細見では佐野槌屋せゐ、見世も交じり見世(半籬)に変わっている。同一人物であろうか、一方はア行の「い」、他方はワ行の「ゐ」となっている
○丸屋熊蔵 安政六年1859 江戸町二丁目右側 小見世(総半籬)
○松葉屋半蔵 天明三年1783 京町一丁目左側 半籬
丸屋も松葉屋も二軒以上あり、区別するために主人の名を冠して、熊蔵丸屋、半蔵松葉と呼ばれている。
松葉屋半蔵は交じり見世(半籬)であるが、松葉屋半左衛門の方は大見世(総籬)である。半蔵松葉は見世の場所も変わっており、寛政七年1795には角町にあった。南千住の素戔嗚神社(江戸時代の名は小塚原天王社)には文化五年1808に松葉屋半蔵が奉納した狛犬があった。「新吉原角町松葉屋半蔵」「文化五年戊辰閏六月吉日」と彫られていた。二十五年も前のことであるから今あるかどうかは分からない。
○姿海老屋久兵衛 安政六年1859 京町一丁目右側 半籬
姿海老屋は寛政七年1795の細見では主人の名は「久次郎」で見世は惣半籬であった。「柳田格之進」には大見世とあるが、実際の見世は惣半籬から交じり見世に変わった見世で大見世ではない。
最後に廓の全体図をあげる。
「花廓新宅細見図」 安政四年1857
「花廓新宅細見図」は仮名では「しんよしはら ほんたく さいけんのづ」となっている。
安政二年十月二日亥刻(22時頃)に発生した大地震と火災のため新吉原は全焼した。500日の仮宅が許可され、新築なった新吉原で営業を再開したのは安政四年六月で、その際の細見図である。そのため「新宅」に「ほんたく」と振り仮名がついている。
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