雑話04「『お江戸吉原ものしり帖』正誤」

 洒落本『傾城買四十八手』の中に、つき出し間のなき昼三が「ふとんのすみへつけしくゝりざるを、ひねくつてゐる」とあり、これについて中野三敏氏は「括り猿。布に綿を入れ、小さく猿の形に縫ったもの。蒲団の隅へくくりつけて、去る客をくくりとめる呪いにする。」と註している。この呪いは初耳で他に例があるのか気に掛けていたが、出会わない。それで『お江戸吉原ものしり帖』(北村鮭彦著、平成十七年刊新潮文庫)を一読してみた。知らないことが沢山書かれていたが括り猿に関するものはなかった。ただ誤りではないかと思われることが散見されたので、初めて聞く話も江戸時代の資料で確認できるまでは保留とする。その中からいくつかを以下に採り上げてみたい。項目の上の数字はページである。

16辻駕籠の客を呼ぶ詞
「口々に「だんかご、だんかご」と通行人に呼びかけていた。「旦那、駕籠は如何(いかが)?」の略である。」
*「だんかご」というのは初めて聞く。私が見かけたのは、古い順に、駕籠やりませふ、駕籠やらふ、駕籠イ、ホイ駕籠である。ただし、これは文政末頃までのもので、『お江戸吉原ものしり帖』は天保の改革(天保十二年1841開始)直前の様子というので、その後変化したのかも知れない。江戸時代の資料で確認できる迄は?付の保留である。
 
17屋根舟の障子
「屋根があり夏は簾、冬は障子で囲った。」
*幕府が用意させた場合を除き、江戸では貸し船の屋根舟の舷側に障子を立てることは禁止されており(前後には可)、冬も簾である。 詳しくは70「屋根船」

17辻駕籠は客待ちのタクシーのようなもの
「宿駕籠をハイヤーとすれば、辻駕籠は客待ちのタクシーのようなもので、」
18歩いての吉原通い
「懐具合があとあとの遊女屋の支払いに差障りそうな連中は、止むを得ず田町あたりから日本堤にあがって北へ行く。」
*駕籠賃はとても高く、現代のタクシーのように気軽に使えるものではない。吉原通いの十人のうち九人は歩きだったという。詳しくは195「駕籠屋・下」

23五十間道
「この道は、吉原が此処にできた頃は真っ直ぐな道だった、という。或時、将軍が鷹狩りにでて日本堤を通ることになった。堤の上からだと廓が一目で見えてしまう。誠に恐れ多い、ということで、時の江戸町奉行神尾備前守が慌てて道をくの字に曲げた、という。」
*『青楼年暦考』には新吉原建設の縄張り中に三曲に直したとある。
○同年(明暦三年丁酉)四月八日、石谷将監様神尾備前守様地方曾根源左衛門様、日本堤へ御越、場所御見分被成、榜示御定杭御建被下、今の大門口より土手迄真直に縄はりいたし候を、備前守様御指図にて三曲に道を作りたり、其間五十間成ル故、今以五十間道と云、
 因みに江戸の町奉行の正式名称はただ「町奉行」である。江戸以外は頭に何々町奉行と場所の名を付ける。

26大門口
「大門の入口の所を”大門口”という。ここに高札場があり、吉原に関する色々の規則が書きだしてあった。」
 *大門口とは大門のある吉原の出入り口のことである。高札場は日本堤から五十間道に入った所にあった。安永八年1779の吉原細見にある五十間道と大門口の部分を揚げる。
安永八年大門口.jpg

31水道尻
「大門から、南西の水道尻(すいどじり)までは、吉原一の大通り”仲の町通り”が真っ直ぐに延びている。」
*元吉原は神田上水が引かれていたので「水道尻」と云うが、新吉原は上水が引かれていない。井戸の呼び戸樋の尻なのではじめは水戸尻(水吐尻とも)と呼ばれていた。
○水戸尻(すいとじり)といふは。いにしへ吉原に井戸なし。砂利場(ざりば)の井戸。ならびにたんぼの井戸。両所より水をくみいれしを。元禄宝永の比(ころ)。きの国や文左ヱ門といゝし人。あげや丁尾張や清十郎かたにて。はじめてほりぬき井戸をほらせしに。水おびたゞしくわき出。ことさら名水なりければ。皆々この水をよび井戸して遣ひけり。中の丁のすへ。呼(よび)戸樋のとまりなれば。水戸尻といふ。(沢田東江『古今吉原大全』明和五年1768)
 
細見寛延四水戸.jpg 吉原細見を見ると元文五年1740・延享二年1745・寛延四年1751の細見には「水戸尻」とある。(右図は寛延四年の吉原細見より)
安永八年1779の細見には
「火の見やぐら古来は揚屋町の角茶屋の屋根へ立□□候処類焼其普請出来不申候處今安永八戊戌年正月水道尻江建也」
とあって、以後は「水道尻」と表記されているようである。読み方はわからない。

34加役
「火盗方は多くは”加役”といって、先手頭が兼務することが定例となっていた。」
 *「多くは」ではなく、全て先手頭からの兼務である。故に「加役」と云う。
○火付盗賊改は江戸およびその周辺で火付、盗賊およびこれに準ずる「ゆすり」、「かたり」、「ねだり」、もしくは博奕犯を捕え、かつ裁判する警察官的役職である。先手頭一名が本役に任じ、兼任なので加役という。冬の間だけ他の先手頭一名が本役を助け、狭義ではこれを加役という。いずれにしても本務は先手頭なのであるが、これは将軍の親衛隊たる弓、鉄炮隊の長で、これをいわば首都警察に転用したものである。職制上は若年寄支配に属しつつ、裁判については老中に伺う。捜査・逮捕官たることが本務であるから、裁判権はもともとなかったものであろうが、やがて吟味権すなわち審理権が与えられ、仕置権すなわち科刑については専決権は原則としてなく、すべて老中に伺うべきものであった。(平松義郎『江戸の罪と罰』)

 ただし、幕末の文久二年1862に享保十年以来一人だった本役が御目付から一人任命されて二人役となり、この時から加役ではなく独立した役となった。翌文久三年にはまた一人役となり、この年はじめて役屋敷が与えられた。しかし火付盗賊改は慶応二年1866に廃止された。役屋敷ができるまでは自分の屋敷を役所にしていた。従って新たに任命された火付盗賊改を名主や月行事に知らせる年番名主からの通達には屋敷の場所も書かれている。一例を挙げれば
明和八年1771十月十八日
 当分御加役長谷川平蔵様被仰付、御屋敷本所三ツ目、御役羽織御紋所、
 前印長之字、後(印略)
 右之通ニ御座候、已上
   十月十八日   年番(『江戸町触集成』第七巻)

 この「長谷川平蔵」は宣雄で、「鬼平犯科帳」で有名な宣以(のぶため)の父である。因みに宣雄は
明和二年1765四月十一日(小十人の頭から)御先弓の頭となり安永元年1772十月京都の町奉行にうつり、十一月十五日従五位下備中守に叙任し、二年六月二十二日京師にをいて死す、年五十五(後略) (寛政重修諸家譜)

54掛け布団
「此処(吉原の切見世)は敷布団はあるが掛け布団ははじめから用意していない。」
*そもそも吉原に限らず江戸の者は掛布団は使わず、上に掛けるのは全て夜着であったようである。『守貞謾稿』巻之二十二の局見世の説明には
 ○泊りには、夜着を出し、一切遊びの客には敷布団のみにて、上に覆ふ物これなし。
とある。

55大見世
「大見世はどの時代を通じてみても六、七軒に過ぎなかった。」
*時代により軒数に変化がある。文化七年1810には八軒あったが幕末の嘉永二年1849には玉屋山三郎と久喜万字屋藤吉の二軒である。

73引込新造
「妓楼が少女の頃から育てて、上妓の花魁になると見こんだ者は、十二、三から見世へは出さずに内所で仕込む。上級の花魁の作法その他、男女間の駆け引きを教えこむためである。この期間を”引込新造”と称して、おの字名、あるいは本名を呼ぶことになっていた。」
*「引込禿」はしばしば目にする。一、二、例を挙げると
引込禿.jpg
○かふろ十四五より内しやうへ引込ませる、是を引こみかふろといふ(山東京伝『客衆肝照子』天明六年1786刊)

  右の図は『客衆肝照子』の挿絵。北尾政演画、すなわち京伝自身である。





○当時又引込禿といふ有、是は禿の内にて、年頃十四五以上にて、名目かたちすぐれ、全盛近きを云。是等は姉女郎の手を放れて、傾城屋の亭主女房などの傍に有て、惣じての諸芸をならはしむ、故に引込の名あり。然れども若(もし)客来て好む時は、客へも出す事也。禿の名ある故に、後帶にして名なども常の女のごとく、おの字を付て呼び、源氏名を呼事なし。斯(かく)諸芸など仕込置て後、突出しとて見世へ出して客を迎る也。(『北里見聞録』文化十四年1817刊)

一方「引込新造」は『花柳古鑑』(三代目?十返舎一九=三亭春馬、春馬は嘉永四年1851歿)に
○いにしえの吉原の俄は、今の如く男女芸者の出たるにはあらで、禿或ひは引込新造など出しゝが始めにて、後に仲之町茶屋々々などへ、芸者といふもの出来てより、是に其役をあて、年々催ふす事とはなりぬ(以下略)

とあるくらいで、それがどういうものかは分からない。

108庄司甚右衛門改名の理由
「庄司甚内が甚右衛門と改めた理由について、通常言われていることは、当時世間を騒がせた兇賊向坂甚内と同名であることを嫌って改名した、とされている。」
○甚右衛門初名甚内と云けるが、慶長十一年1606の頃、横山町に勾坂甚内といへる悪党有りて、甚右衛門と申分出来奉行所へ罷出けるが、相手と同名なる故、紛敷ゆへ改名可然に付、幸ひ悪党と同名を耻て、甚右衛門と改名しけるとなり。(石原徒流『洞房語園異本考異』)
  武士身分ではない勾坂甚内も庄司甚内も名字があっても公式には使えないので、奉行所では両人とも「甚内」である。

140明六つと暮六つ
「明六つ 午前六時のこと。日の出の時。」
「暮六つ 午後六時のこと。日の入りの時。」
雨水・嘉永五年.png *しばしばこの間違いを見かけるが、明六つは「日出」ではなく「夜明け」、暮六つは「日の入」ではなく「日暮れ」である。詳しくは「18九ツ、四ツ」及び番外「明六つー江戸の時刻」
ここでは番外「明六つー江戸の時刻」で揚げた嘉永五年1852の暦の雨水の日の昼夜の時間を再び挙げる。
 日の出ゟ日入迄昼四十五刻半夜五十四刻半六ゟ六迄昼五十刻半夜四十九刻半
 昼の時間明六つから暮六つまで五十刻半は、日の出から日の入までの四十五刻半より五刻(一日百刻制の五刻)、即ち現在の72分程長い。また、夜明け、日暮れは季節により又場所によっても変わるので現在の六時に限らない。

141髪結
「髪結は寛政(一七八九ー一八〇一)頃迄は男の仕事だったが、天保(一八三〇ー四四)期には女髪結も増えている。」
*女髪結は資料を挙げると長くなるため簡単にまとめると、もともと女性は自分で髪を結っていた。それが女髪結に結わせるようになったのは、大坂では明和年間1764-71で、江戸に女髪結が出来たのは安永1773-80の末頃と云う。寛政七年1795にはかなり目立ったようで禁令が出されている。但しこの時は女髪結の名前を調置き、女髪結をやめるよう申し聞かせよとの町年寄から町名主への通達である。
 吉原遊女の髪結に関して、山東京伝は『錦之裏』(寛政三年1791正月自跋)に、朝五ッ時の情景として次のように書いている。
禿の髪を結.jpg右図はその口絵、京伝画







 
○扨下(階下のこと)には、地をかきにして、文字をあいにて、吉田屋と筆ぶとにそめ出したるのうれんを、はんぶんまき上ゲてあり。こちらの牛台には、かぶろがをちさうにこし(腰)をかけ、きんかんのほうづきを、もちあそびにしながら、かみをいつてもらつてゐる。○もつとも、かぶろのかみは、男のかみゆひがゆふなり。
  これによれば、遊女の髪は女髪結が二階で結い、禿の髪は男の髪結が階下で結ったようである。

144風呂敷
「客によっては、せまい内湯よりは銭湯へ行きたい、という者もあった。(中略)
 そういう客は、禿などに浴衣や手拭、糠袋などを風呂敷に包ませて、真昼の湯をたのしみに出かけた。風呂道具を包むから風呂敷という。」
○元は風呂の揚所(あがりどころ)に敷て、ゆかたにひとしきもの也。今物を包ふろ敷は、此名をかりたる物也。(菊岡沾凉『本朝世事談綺』享保十八年1733刊)
○風呂敷といふものは、元湯あがりに敷もの故、ふろしきといふ。今の湯ふろしきといふは重言也。室町家の時分、大湯殿を建(たて)て、近習の大名衆、一処に入玉ふ事也。銘々入たる跡にて、衣服ども、ふろしきにつゝみをく。あがりては、ふろしきをひらき、其うへになをり、後に衣服を着す。是より物を包むものを、惣てふろしきといふやうに成たり。只ふくさ包といふべし。ふろしき包とはいやしき名也。右室町家の記録の説なり。(多田義俊『南嶺遺稿』義俊は寛延三年1750歿)


156吉原細見
「これ(吉原細見)は遊女の案内記で、各町各楼の場所、抱えている花魁の名、年齢、格、花魁付きの新造の名や禿の名、それぞれの揚代、遣手の名まで載っていて、遊びの案内としては格好なものであった。」
*吉原細見は吉原の案内記。妓楼、茶屋をはじめ男芸者・女芸者の名も載せている。各遊女の揚代は印で表し、年齢は載っていない。嘉永四年の細見の一部の図を載せているのにこの記述は不審。

198「髪切り」という私刑
「勝手によそに良い花魁を見つけて、そっちへ通ったりしたら大変なことになる。(中略)
たちまち元の花魁の軍勢(妓楼の男衆、女衆)が総出で新しい花魁の所へ押しかける。新しい花魁は客を楼外へ突き出し、一同で元の花魁の所へ連れて行き、散々詫びを言わせ、詫金を捲きあげ、あげくの果ては髮を切って路上に放りだす。これは吉原の廓に許されていた「髪切り」という私刑である。公認であるので文句はいえない。」
*「髪切り」はやめるべき悪習であると認識されていた。「115吉原大門ー続」で紹介したように享保十一年1726に遊女屋仲間で止めるという証文をとり、また寛政七年1795に再度申し合わせまでしても止まなかった根強い悪習であった。しかし江戸末期には無くなったようである。
○義理わろき客を性悪と名付、是をとらへて、それぞれの罪をおはする事は、世人の知る所なればいはず、かゝるわざも、今ハ深くいましめたれバ曾てなし、(『花柳古鑑』)


237花魁道中
「江戸時代、どこそこの誰と名の知られた花魁が、仲の町の通りをあっちでもこっちでも片手は若い衆の肩に置き、片手は張肘をして目線を中空にすえ、云々」
*花魁道中の浮世絵や挿絵は数件しか見ていないが、若い衆の肩に片手を置いた姿は見えない。江戸時代の絵や文で確認する迄は?付きで保留。
道中鳥文斎栄之.jpg
    鳥文斎栄之「三福神吉原通い図巻」文化期1804-17


蔦屋内しほきね.jpg 七里英泉.jpg











左は礒田湖龍斎「雛形若菜の初模様 蔦屋内しほきぬ」安永期1772-80、
右は溪斎英泉「姿海老屋内 七里」文政1818-29後期

花魁道中には見世により花魁により種々の癖があると云う。
○出はしっとりと品よく道中はその内によりそのけいせいによりいろいろのくせあり、扇やは左の袖をちょっとつまむ、是花扇がよふう也、丁子屋は少しかゞむ方。松葉やは少しはや足。たはらやは帯か上リうちかけの。両ほうをもち、少しそるきみ、つたやは右にてつまをもち左の手にてつまをちょっとつまむ。四ッ目やはうちかけの両方をもち、角玉屋は帯のうへに手を置。あらひ髪なそにて出る云々。(山東京伝『客衆肝照子』天明六年1786刊)

因みに吉原特有の言葉遣い(さと言葉)も見世と時代によって違う。「アリンス」ばかりではない。
○廓中又家々の別(わかち)あり所謂(いはゆる)丁子の有御坐(ヲザンス)、松葉の有御坐(ヲヽス)、扇楼の不佞(ワタクシ)、玉館の足下(オマヘサマ)の類の如し、こゝをもてさとなまりといふ云々(朋誠堂喜三二『柳巷訛言(さとなまり)』天明三年1783刊)

○廓の詞の定りしを又物かはり星移りて、ありんすはありいすとなり、こざんすはざんすとなり、ざんすを縮めてざすと唱ふ、おまへさんを迂遠(まはりどふ)なりとておまはんと称し、お出なさるをばきさつしゃるといふ云々(越路の浦人『ふたもと松二篇』文化十三年1816頃?)


*追補
引込新造について
『江戸語大辞典』には
 ○ひっこみしんぞう「引込新造」 →ひきこみしんぞう。天保八年・春告 鳥四「このお袖は内所育(ひつこみ)新造の中にてもいたつてうつくしく」
 ○ひきこみしんぞう「引込新造」 引込禿と同じであるが、新造たるべき 教育を受け客席には出ても、まだ突出しの披露をしない間の称。「ひっこ みしんぞう」とも。
とある。春告鳥では「内所育」という文字に「ひつこみ」と振り仮名をしている。ところがお袖には馴染み客の吉兵衛がいる。そして前田 愛氏は「内所育の新造お袖」に対して「引込禿から振袖新造となった遊女」と註をしてる。(小学館「日本古典文学全集」『洒落本・滑稽本・人情本』中『春告鳥』)
花魁薄雲や花鳥とのやりとりなどを見ると一人前の新造と思われるが、源氏名でなく「お袖」という名であること、また馴染み客の吉兵衛が帰るとき羽織を着せかけるのに背が届かなくて、座敷の双六盤を踏み台にしていることなど、どうも判然としない。

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