落語の中の言葉200「羽織」
古今亭志ん朝「羽織の遊び」より
金はないが遊びには行きたいと、キザで鼻持ちならない伊勢屋の若旦那をとりまいて、何とかご同伴ということになった。しかし、朋友として行くのだから帯に羽織は必要だと言われて皆都合するが、八つアんだけがない。羽織のない人は今度と言われ、すぐに算段するからと待ってもらって、親分のところへ借りに行く。祝儀不祝儀なら貸さないことはないが、遊びに行くためには貸せないとあねさんに断られる。祝儀不祝儀の意味も解らないまま祝儀不祝儀だと言うと、祝儀なら省略も出来るが不祝儀には羽織は省略できないと云われ、不祝儀のためだと言って借りようとするが……
羽織の起こりは諸説あってはっきりしない。初めは埃よけ寒さよけに上にはおるものであったらしい。したがって他家を訪問した時や、来客に会うと時は脱いだようである。それが何時の頃からか正装のようになっている。
羽織はもと外套であり、着物の紋所を隠すために着ることもあったらしい。従って昔は羽織には紋を付けなかった。
その後も無紋の羽織もあるので、「紋付きの羽織」という言葉は間違いではない。一方上下は必ず紋を付けるので「紋付きの上下」という言葉は間違いである。
江戸の中期頃までは町人で羽織を持っている者は少なかったようである。
また、羽織の丈も長くなったり、短くなったりの変化があった。
蝙蝠羽織の図
山東京伝『骨董集』上編上之巻
文化十年1813大田南畝序
長羽織の図
喜多川歌麿「庭中の涼み」
天明八年1788~寛政二年1790頃
羽織(短と普通)の図
歌川国貞「木場雪」
文政六年1823頃
岩井半四郎と沢村四郎五郎の羽織に比べ市川團十郎の羽織は極端に短い。
女性の羽織について『守貞謾稿』巻之十四には
これによれば江戸では以前は剃髪の老姥が着るだけだったが、天保以来中以下の婦女は半天をやめて羽織を着るようになったという。そのきっかけについては三田村鳶魚氏は『花柳風俗』に次のように書いている。
鳥居清長「富本豊前太夫とその弟子」
皆桜草の紋をつけている。左の子の羽織と後ろのお供の着物は柄まで桜草である。鳶魚氏の話から前にいる二人の子供は女の子であろう。羽織はみな長い。
一方、金沢康隆氏は『江戸服飾史』で
女性の羽織が大坂と江戸で違ったように、羽織は場所に依って扱いが異なった。幕末の水戸藩下級武士の娘の話では、
羽織はあくまで略礼服であって、礼服は上下である。江戸城本丸で行われる御能を町人が拝見を許されることがあるが、その際の服装は麻上下である。
引用者註:この御能は前月日光御社参が済んだ祝いに行われたもの。
しがって婚礼・葬礼では上下である。
かちん色=褐(かち)色=ほとんど黒にみえるほど濃い藍色
鉄色=赤みまたは緑色を帯びた黒色
ちなみに、江戸時代は祝儀は黒、不祝儀は白又は浅黄(藍染めの薄い色、水色より少し濃い)である。
『笈埃随筆』(百井塘雨著)巻之十一の長崎に関するところに嘉栗はつぎのように増補している。
明治以後、欧米に倣って葬儀に黒を着るようになったのであろうか。
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金はないが遊びには行きたいと、キザで鼻持ちならない伊勢屋の若旦那をとりまいて、何とかご同伴ということになった。しかし、朋友として行くのだから帯に羽織は必要だと言われて皆都合するが、八つアんだけがない。羽織のない人は今度と言われ、すぐに算段するからと待ってもらって、親分のところへ借りに行く。祝儀不祝儀なら貸さないことはないが、遊びに行くためには貸せないとあねさんに断られる。祝儀不祝儀の意味も解らないまま祝儀不祝儀だと言うと、祝儀なら省略も出来るが不祝儀には羽織は省略できないと云われ、不祝儀のためだと言って借りようとするが……
羽織の起こりは諸説あってはっきりしない。初めは埃よけ寒さよけに上にはおるものであったらしい。したがって他家を訪問した時や、来客に会うと時は脱いだようである。それが何時の頃からか正装のようになっている。
羽織又道服といふもの、其起る所人によりて一にあらず。装束拾要にみへし道服といふは、宮門跡又摂家にても着し給ふ。されども両親御在世の時には憚かり給ふとぞ。是はもと仏道者の服といふなる故なり。さらば道服とは道者の服の中略なれば、今医師陰陽師の類、剃髪せしものゝ着る羽織といふは、皆此道服に傚しもの成べし。又俗の着る道服、或は羽織といふ物、今専ら用て、下ざまなるに至ては、歩行羽織、足軽羽織などいふ類あり。是は上にいふ道服と其制其名も同じくして、其起る所大に異なり。此道服は道路の服といふことなり。壒嚢抄に、道服は乗馬するに、上に打きて帯せぬ物なり。灰ほこりのたちて衣裳を垢すを防ぐこゝろなり。ことさら内にて可着ものにはあらずといふ則是なり。是をそれより以前は打かけといひしにぞ、舞の本に、鈴木三郎高家が高舘へ参りし時の詞に、わらつぬぎて、上に着たる打かけぬいてふはと捨てとあるも、道路の服なればなり。又鹿苑院(義満)将軍の厳島詣し給ひし時、今川了俊の書し道記に、此たびはめづらしき打かけといふものを同じすがたにき給ふ。花田の色にめゆひとかやいふ紋を染て、袖口ほそく、すそ(裾)ひろきうちかけといふものを、おなじすがたに着給ふ。赤き帯と青色のはゞき、赤色のみじかき袴なりと書たれば、其比より専らになりて、後に道服といひ、今羽織といふものにはなりたり。其羽織といふ名をよぶ事をも、さまざまの説あれども、さも有べしとおもふこともなし。昔に打かけとよびし名のるひにて、衣服のうへに打はをるといふことより羽織とはいふなるべし。いつよりか今は道服のみにもあらず、座間にも打着て、貴賤をわかず衣服の一物となり、俗にて今は褻(ケ)の服といへるがごとし。(土肥経平『春湊浪話』安政四年1857跋)
羽織は天正年中より始とみへたり。茶人の服成べし。絹のひとへを元とせり。下郎より始るものにあらず、また礼服にてもなし。閑居の時に着るものゝ上にはほりて、客に對面する時は取て脇へ置たり。羽織の文字も後に書出したるべし。慶長頃より、心安き人には羽織の儘にて對面したり。元来ちりよけにて、衣類よごれざるよふに倹約にて心つきたるもの也。何の頃より歟、下郎も上にも礼服のよふにおもひて、後は薄物の羽織を仕立、あるひは袷綿入をもして着し、袴を着して公儀を務るよふには成たり。△上古羽織の拝領はなし。是にて知るべし。(加藤曳尾庵『我衣』巻之一上)
羽織はもと外套であり、着物の紋所を隠すために着ることもあったらしい。従って昔は羽織には紋を付けなかった。
廓の男芸者を太夫と唱へ、女芸者を羽織と唱へり。是は大かたは娘子供を、わかしゆ髷にして、羽織を着せて出せし故に、今に此名を残せり。此比(このころ)紀文が思ひ附にて、姶て紋を附たる羽をりをこしらへ、みづからも着し、たいこ持にも着せて遊びに来たり。是は貴人のはをりに紋の附たるがなきゆへ、伊達にかくはいたしたるなり。(中略)
是をさる貴人の見たまひて、紀文は如才なき者なれども、さすがは町人にて物に弁へなき者なり。羽織は着附の紋所を隠す為の紋かくしなり。そのはをりに紋を附ぬるは、着せずともの事なるべし。と笑はれしとぞ。されども紀文が風流花者(くわしや)にして、羽をりの紋所は、今に一統附る事とはなりたるなり。(桃花園三千麿『萍花漫筆』三千麿は幕末の人)
その後も無紋の羽織もあるので、「紋付きの羽織」という言葉は間違いではない。一方上下は必ず紋を付けるので「紋付きの上下」という言葉は間違いである。
江戸の中期頃までは町人で羽織を持っている者は少なかったようである。
小松百亀〔三右衛門と称す。元飯田町の薬店なり。〕若き時、同町内中に、小紋の絹羽織を持し者一人もなし。百亀など外へ出るときは、小紋のはおりを懐中して、途中にて着たりといふ。町内をば遠慮せしなり。今はいかなる裏店にても、羽織もたぬ者あるべきや。百亀は八十余歳にて、寛政の比終れり。此人落し咄の上手にて、聞上手といひしはなしの小冊大きに行れたり。これ落し咄小本のはじめなるべし。(大田南畝『仮名世説』文政八年1797刊)引用者註:百亀の二十歳頃は享保の中頃1730前後か。
また、羽織の丈も長くなったり、短くなったりの変化があった。
羽織も世々に転変したり、延享1744-47、寛延1748-50の頃は、今の通並の羽織なりしが、(其頃はみじかき羽織は名主の着るやうなりとて笑ひたり)彼文金風になりてより、羽織も長くなり、やがて対丈位の羽織を着るやうになりたり、然れども、天運循環して、忽彼長羽織やみて、みじかき羽織流行出たり、短き羽織の、角袖とて袖も大きく、丸みはわづかに五分許、袖形をとり、四角同様に袖を縫て着たり、丈は居りて羽織の裾の畳と摺はらひになる位のみじかさなり、遊人俗客は専ら此羽織を着たりしが、いつとなく直りて、又長羽織になり、其後並の羽織になりたり、紋所も、くづし紋にして色々工夫、物好に付たり、其頃世に鳴たる俳諧の紀逸といふが高点の句に、身代の崩しはじめは紋所、といふ句有たり、此羽織の転変につれて、次第に三味線流行たり、(森山隆盛『賤のをだ巻』享和二年1802序)
蝙蝠羽織の図
山東京伝『骨董集』上編上之巻
文化十年1813大田南畝序
長羽織の図
喜多川歌麿「庭中の涼み」
天明八年1788~寛政二年1790頃
羽織(短と普通)の図
歌川国貞「木場雪」
文政六年1823頃
岩井半四郎と沢村四郎五郎の羽織に比べ市川團十郎の羽織は極端に短い。
女性の羽織について『守貞謾稿』巻之十四には
婦女の男のごとき羽織を着すこと、昔はこれなきか。いまだこれを聞かず。しかるに天保以前には、京坂の婦女専着せり。小民の婦女を専らとし、巨戸はこれを用ひず。形も男羽折と同製にて黒掛襟等を用ひず、紐も男用と同じ。けだし必ず綿入なり。(縞縮緬を専らとす。)
天保府命の時、大坂の官命に曰く、男子の日傘、女子の羽織を禁止す、云々。日傘と羽折対句に似たり。
江戸従来剃髪の老姥(ろうぼ)、夏黒絽、冬黒縮緬等の羽折を着すこと、武家以下大小戸ともかくのごとくなり。けだし小民には稀とす。
天保以来、江戸老若の婦女専ら羽折を着すこと、大坂に反せり。けだしこれまた上民は用ひず、中以下婦女これを用ふ。形男用と同じく、用品は御召ちりめん等を上とし、めいせん等を下品とす。皆必ず黒繻子の半襟をかくること、京坂と異なる所なり。この羽折行はるゝ前は、婦女専ら半天を用ふ。羽折行はれて半天を着す者、以前に半す。
右、京坂江戸ともに婦女羽折・半天を用ふは冬のみなり。夏はこれを用ひず。
これによれば江戸では以前は剃髪の老姥が着るだけだったが、天保以来中以下の婦女は半天をやめて羽織を着るようになったという。そのきっかけについては三田村鳶魚氏は『花柳風俗』に次のように書いている。
女の羽織については、『昔々物語』『当世下手談義』等を初めとして、延享・宝暦度には、随分猛烈な批難もあり、着用差留の法令もあったが、豊後節の流行に伴う趣向で、首振芝居の子供役者の風俗を真似たものらしい。従って、少男少女だけの扮装でなければならないのだが、大正の女学生が二十歳になっても肩上げの取れない心理は、江戸の昔にもたしかに溯れる。若がえりたいのが子供がることになって、相応しない年配のものまでが、少女の着付けを好んだ。それも、豊後節の首振役者から深川の踊子が引き受けるのには、似寄った境涯だから無理もない。それを、二十年も隔てて、富本豊前太夫が大いに行われる安永度にあって、町の娘子どもが富本を習う限り、桜草の紋をつけた羽織に若衆髷を結う時に、長幼となく、婦女が羽織を着るようになった。『里の苧環(おだまき)の評』(安永三年)に、「世上の女の羽織着ると、サッサヲセヲセの浮拍子と、皆此里を初めとす」というのは、深川に豊後節が余計に染み込んで、早くから羽織着た少女がいたからである。
鳥居清長「富本豊前太夫とその弟子」
皆桜草の紋をつけている。左の子の羽織と後ろのお供の着物は柄まで桜草である。鳶魚氏の話から前にいる二人の子供は女の子であろう。羽織はみな長い。
一方、金沢康隆氏は『江戸服飾史』で
なお、女性の羽織は普通にはなかったようで、女性に普及したのは中期に深川遊里で芸者が羽織を着て以来のことだといわれる。と書かれている。深川芸者の羽織は一種の男装だったようである。
昔は此土地にて、娘の子を男に仕立て、羽織をきせて出せしゆへ、はをり芸者といふなり。それゆへ、名も甚助、千代吉、鶴次などゝ云ふなり。今も十二、三のげいしやは、はをりを着て出るなり。是を豆芸者といふ。豆芸者はくんで出るなり。大てい名の下へ吉の字、次の字を付ける事なり。(山中共古「残蒟蒻」、『深川大全』(京伝著、豊芥子補成 癸巳序、天保四年?)から抄出)
女性の羽織が大坂と江戸で違ったように、羽織は場所に依って扱いが異なった。幕末の水戸藩下級武士の娘の話では、
羽織は、年寄のほか着るものでなく、冬、家にいる時、ちょっとひっかける、今のよりずっと丈の短い羽織はありましたが、それも着たままで人前へは出ず、まして、外出訪問に、羽織を着た女の姿は見たことがありませんでした。女中はもちろんのこと羽織なし。年中足袋もはきませんでした。男でも百姓町人は普通には羽織は着られず、袢纏(はんてん)だけで、羽織御免というのは一種の特権で、名主の階級ぐらいのものでした。(山川菊栄『武家の女性』)
羽織はあくまで略礼服であって、礼服は上下である。江戸城本丸で行われる御能を町人が拝見を許されることがあるが、その際の服装は麻上下である。
(安永五年)申五月朔日
奈良屋ニ而御能拝見ニ罷出候町々月行事江被申渡
申渡
当月、於御本丸御能有之候ニ付、御白洲ニ而町人拝見被仰付候間、町々割付人数之分、髪月代仕、麻上下を着、見苦敷躰無之様仕、当日明ケ七時前、朝出之町々壱番ゟ三番迄、銭瓶橋河岸通定小屋前迄相詰可申候、四番五番之町々、常盤橋外御堀端ニ相詰居可申候、尢月行事付出、与力中差図次第御白洲江入可申候、其節不作法成躰不仕、其町々割付之外壱人成共紛入候ハヾ、其ものは不及申、月行事迄曲事可被仰付候間、月行事入念相改可申候、勿論脇道ゟ廻り御城江罷越申間敷候事 (『江戸町触集成』第七巻)
引用者註:この御能は前月日光御社参が済んだ祝いに行われたもの。
しがって婚礼・葬礼では上下である。
著服 婚姻のとき男子の著服はかちん色の麻上下に鉄色無地熨斗目を用うるを本法とす。媒酌人をはじめその席に列なるものもみな鉄色無地熨斗目かちんの上下を著用するなり。(『徳川盛世録』)引用者註:
かちん色=褐(かち)色=ほとんど黒にみえるほど濃い藍色
鉄色=赤みまたは緑色を帯びた黒色
ちなみに、江戸時代は祝儀は黒、不祝儀は白又は浅黄(藍染めの薄い色、水色より少し濃い)である。
瀬川仙女、十一月の初に死す。中興の上手也。六十余歳也とかや。其葬式、役者女形大方共に立、或は位牌香炉等持、水色の上下に、女形は白綸子の振袖を着たり。其見物、あだかも祭礼の如く、□□□□□(数字分空白)通りは見物のため、往来なりがたし。寺は押上妙見の近所なりと言。(加藤曳尾庵『我衣』巻六 文化七年1810)
『笈埃随筆』(百井塘雨著)巻之十一の長崎に関するところに嘉栗はつぎのように増補している。
嘉栗云、阿蘭陀の寺は、向ふ岸の稲佐といふ所に悟頁寺とてあり。予長崎にある中、紅毛人一人死たり。其葬式を見しに、臥棺と見へて、長き箱を黒繻子にて包みたる也。長崎の者と崑崙奴うち交りて舁く。付添紅毛はみな黒き衣裳なり。つねは白衣にて、凶事の時黒きを着す。日本の式とは表裏なり。
明治以後、欧米に倣って葬儀に黒を着るようになったのであろうか。
落語の中の言葉 一覧へ
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