落語の中の言葉198「士農工商」
三代目三遊亭金馬「たが屋」より
咄の中で江戸時代には士・農・工・商という四つの身分があったと云っている。「士農工商」という言葉は学校でも習い、よく知られている。
封建社会の身分制度という場合、生まれた身分から他の身分に移ることが出来ず、また代々続いていくものである。その意味で言えば武士は確かに身分であるが、農・工・商は身分とは言えない。職能の違いである。商人の子に生まれても農・工には成れる。武士は年貢を基礎にしていたので、耕地や農民の減少を防止するために農民には強い規制をかけていた。しかし跡取りさえ確保されれば二男三男は工にも商にも成れた。
斎藤洋一氏は『身分差別社会の真実』のなかで、「士・農・工・商・えた・ひにん」という言葉について
ただ江戸時代の武士や儒者には農を工商の上に置く考え方も多い。
「凡天下国家を治むるを経済と云、世を経(おさ)め民を済(すく)ふと云ふ義也、」(同書)
ただし農と商の実態はそれとは異なる。大石慎三郎氏は『江戸時代』で、真田氏の上田城下町を採り上げ、
農・工・商の間よりもむしろ武士の中にこそ身分の差があった。上級武士と下級武士である。幕臣でいえば旗本と御家人である。旗本と御家人の間にある壁は、御家人と農・工・商との間の壁よりも高く越え難い。
農・工・商が御家人株を買って(扶養料を支払い養子に入り、直ぐに家督を相続すること)武士に成ることは黙認されていたようである。
『世事見聞録』はかなりオーバーな表現に成ってるのでそのままは信じられないが、御家人株の売買は相当行われていたようである。
当時小普請の組頭であった旗本の森山隆盛は日記に次のように書いている。
数年出入りしている塗師から、悴を御持組大久保式部組同心上原吉兵衛の養子にしたいので、自分(茂右衛門)の次男ということにして欲しいと頼まれたといって、配下の田村茂右衛門が孝盛の所へ頼みに来た。茂右衛門の為にもなることなので聞き届けた。養子願いを出した上原吉兵衛の上役である御持組大久保式部から田村茂右衛門の次男に間違いないかとの掛合いがあったので間違いないと返書を出したという。これで済んだようである。
また曲亭馬琴は息子の宗伯が若死にしたため孫の太郎を育てていたが、自分が年をとり目も悪くなり、歩くのも不自由になって来た為、数え九歳の太郎の将来を心配し、御家人株を買って直参にしている。その日記によると
引用者註:太郎は文政十一年1828生まれ。天保七年数え九歳。
番代外へ頼 別の者が本人元服まで代わりに勤めに出る
予不行届 馬琴は老年で歩行が少し不自由になっていた。
話の御家人株の同心は三〇俵三人扶持
この例から知られるように手広く御家人株の売買の仲介をしている者もいたようである。
一方旗本の養子には厳しい制限があった。
戸田茂睡『御当代記』の天和二年1682のところに
綱吉の時代は養子を始め諸事に厳格であったこともあるが、他の将軍の時代にも概して旗本の養子にはうるさかったようである。
したがって江戸時代の身分制度は、上級武士・下級武士・良民(農工商)・賤民の四つであり、その他に天皇・皇族と公家衆があったと考えるべきであろう。
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咄の中で江戸時代には士・農・工・商という四つの身分があったと云っている。「士農工商」という言葉は学校でも習い、よく知られている。
封建社会の身分制度という場合、生まれた身分から他の身分に移ることが出来ず、また代々続いていくものである。その意味で言えば武士は確かに身分であるが、農・工・商は身分とは言えない。職能の違いである。商人の子に生まれても農・工には成れる。武士は年貢を基礎にしていたので、耕地や農民の減少を防止するために農民には強い規制をかけていた。しかし跡取りさえ確保されれば二男三男は工にも商にも成れた。
斎藤洋一氏は『身分差別社会の真実』のなかで、「士・農・工・商・えた・ひにん」という言葉について
「士農工商」、あるいは「四民」ということばは江戸時代にもあったが(ただし、この場合も身分の上下としてではなく、社会の主な構成要素はこうした職業や人々であるという意味で語られることが多かった)、これに「えた・ひにん」とくっつけたことばは江戸時代にはなかったらしいのである。と述べ、この言葉が最初に使われたのは明治七年1874(上杉聰・石瀧豊美『筑前竹槍一揆論』)らしいこと、さらに、昭和初年頃から盛んになった「融和教育」のなかで頻繁に使われるようになった(中尾健次『部落史学習のすすめ方』)ことから
このことばがつくられたのは明治時代の初めだったが、広まったのは昭和に入ってからの学校教育においてだったということになろう。としている。
ただ江戸時代の武士や儒者には農を工商の上に置く考え方も多い。
一 士農工商を四民といへば、士も民也、然ども農は五穀を作り、工は器物を作り、商は有無を通ず、此三つは其業を食む者也、士は国に仕へて君の祿を食む者也、さる故に士を除て、農工商賈を四民とすることあり、商は行て物を売る、賈は家に居て物を売る、皆あき人也、民の業に本末といふことあり、農を本業といひ、工商賈を末業といふ、四民は国の宝にて、一つ缺ても国といはず、然ども農民少ければ、国の衣食乏く成故に、先王の治めには、殊に農を重んぜらる、(中略)ちなみに江戸時代の「経済」は今日の経済とは意味内容が違い「政治」のことである。
是に因て聖人の政には、天下の戸籍を正しくして、四民の家数、人別を度々改て、農民より妄に他の業に遷ることを禁ずる也、当代には此禁なき故に、工商の輩日々数多くなり、在々所々に徧満して、人の用を弁するは便利なる樣なれども、人の侈心を引起し、金銀の貨悉く賈人の蔵に納まる、歎かしきことに非ずや(太宰純(春台)『経済録』享保十四年1729自序)
「凡天下国家を治むるを経済と云、世を経(おさ)め民を済(すく)ふと云ふ義也、」(同書)
ただし農と商の実態はそれとは異なる。大石慎三郎氏は『江戸時代』で、真田氏の上田城下町を採り上げ、
上田城下町の町地部分は、単に城下在住の武士たちの物資補給を受け持つのみならず、領内農民の非自給部分を補うという役割をももっていたのである(かつて六斎市がはたしていたところの)。したがって領内農民たちは城下町商人(またはその代理的存在)を通してしか生活に必要な商品を入手できず、また自分たちのもっている商品も、彼らを通してしか換金できないような仕組みになっていたのである。と論じている。
このように城下町商人たちは流通統制という経済行為をとおして、領主の農民支配を援ける役割をはたしていたのである。
″士農工商″という言葉によって、封建社会下にあっては、工商=商職人(町人)は農民より一段低く身分的に位置づけられていたように信じられている。しかし農民と町人(城下町町人)が公式の場で座る場合、前記のような理由から町人の方が上座を占めるのが一般で、したがって強いていえば通説とは逆に江戸時代には町人の方が農民より身分的には上位におかれたとするのが正しいのである。このことは町人を支配する役人(幕府の場合は町奉行)と農民を支配する役人(幕府の場合は勘定奉行、藩の場合は郡奉行)とでは、かなちず町方担当のほうが上位に位置づけられていたことからも推測できよう。
農・工・商の間よりもむしろ武士の中にこそ身分の差があった。上級武士と下級武士である。幕臣でいえば旗本と御家人である。旗本と御家人の間にある壁は、御家人と農・工・商との間の壁よりも高く越え難い。
農・工・商が御家人株を買って(扶養料を支払い養子に入り、直ぐに家督を相続すること)武士に成ることは黙認されていたようである。
御家人の株売買となりし事、有廟の御代に厳しく仰せ出だされて全く止みしと聞く。またおひおひ行はれ来て、今は常の事になりぬ。(武陽隠士『世事見聞録』文化十三年1816自序)引用者註:有廟は有徳院即ち八代将軍吉宗のこと
明和六丑年1769十二月
他人養子ニ仕候儀、陪臣浪人之子御直参ニ親類有之候共、願候當人之親類ニて無之候ハゝ、難叶候段、享保十八丑年1733相達候、右願候當人之親類と有之は、又従弟迄之事ニ候旨、元文元辰年1736相達候、尢又甥も右同様之事ニ候、
右之趣、向々え寄々可被達置候、
十二月 (『御触書天明集成』)
『世事見聞録』はかなりオーバーな表現に成ってるのでそのままは信じられないが、御家人株の売買は相当行われていたようである。
当時小普請の組頭であった旗本の森山隆盛は日記に次のように書いている。
同(天明六年1786九月)十九日 茂右衛門次男之儀ニ付、御持頭大久保式部殿より掛合有之。
右は近所新店ニ居候塗師半兵衛忰、此度御持組大久保式部組同心上原吉兵衛急養子ニ取組候得共、町人ニ而は難成候ニ付、茂右衛門相頼仮親ニ頼候由茂右衛門申聞候。数年出入之者ト申茂右衛門為ニも可相成候間、聞届候段申渡候処弥相談相決、右吉兵衛判元之節も茂右衛門立合、右忰田村弥十郎ト名乗願書差出候ニ付、相違も無之候哉之旨式部殿より掛合有之候間、相違も無之茂右衛門次男ニ粉(紛)無之段返書ニ申遣候。
数年出入りしている塗師から、悴を御持組大久保式部組同心上原吉兵衛の養子にしたいので、自分(茂右衛門)の次男ということにして欲しいと頼まれたといって、配下の田村茂右衛門が孝盛の所へ頼みに来た。茂右衛門の為にもなることなので聞き届けた。養子願いを出した上原吉兵衛の上役である御持組大久保式部から田村茂右衛門の次男に間違いないかとの掛合いがあったので間違いないと返書を出したという。これで済んだようである。
また曲亭馬琴は息子の宗伯が若死にしたため孫の太郎を育てていたが、自分が年をとり目も悪くなり、歩くのも不自由になって来た為、数え九歳の太郎の将来を心配し、御家人株を買って直参にしている。その日記によると
天保七年1836六月廿八日庚辰 曇昼後より晴
昼後、ゆしま磯又右衛門来訪。予初て対面。此人、御鉄炮方玉薬役御家人のよし。御家人株式授受、口入手広く被致候よし也。過日元直より被申聞候、四ツ谷組御持同心代弐百弐拾両の方、御親類ニ故障有之、相談出来かね候よし也。外ニ同組中ニうり株有之、是ハ地借り等無之、家作三間大蔵有之。代金百三拾両のよし。無借也。但、本人幼年ニて、番代外へ頼候ヘバ、十五俵ニ壱人扶持遣し候取極のよし也。外ニ御賄方ニも有之、廿俵弐人扶持、御役料十俵、拝領地面、年々金三分上り、上下勤ニ而、幼年ニても相済候。幼年の人は御役料七俵のよし。役徳有之候故、無借ニて代金弐百八拾両のよし也。至極得意ニ候へども、何分高金故、整かね候間、御持同心之方、相談致度旨及示談。依之て、明後七月一日、又右衛門・太郎同道ニ而組頭へ罷越候間、予不行届ニ候まゝ、駕籠ニ而も被参候様被申候。
引用者註:太郎は文政十一年1828生まれ。天保七年数え九歳。
番代外へ頼 別の者が本人元服まで代わりに勤めに出る
予不行届 馬琴は老年で歩行が少し不自由になっていた。
話の御家人株の同心は三〇俵三人扶持
この例から知られるように手広く御家人株の売買の仲介をしている者もいたようである。
一方旗本の養子には厳しい制限があった。
戸田茂睡『御当代記』の天和二年1682のところに
一養子の御吟味つよき事いふにいはれず、厳有院様(引用者註:四代将軍家綱)御代御僉議極り養子に被仰付候者も他門なれば不被仰付候、たとへ実の親と子にても不合の事あれば、一男をさし置て次男を惣領にたつる事有、人の子を我子になして、親と子のふかき交りをむすぶ事なれば、養父の心にあハざるものを子にいたすハきのどく成事也、本多善左衛門ハ実父戸田備後守にて戸田和泉守が弟也、本多の家に子なき故、厳有院様の御代本多の家を継、数年御奉公を仕、わかうして死するに臨て子なきゆへ、戸田又兵衛が子を願ふ所に、兄和泉守子ハまさ敷甥にて身ちかきに、それをねがハずして、同名なりとて又兵衛子を願ふ所、本意にあらずとて一跡絶る也とあって、養子を願う者本人の親類の旗本で、それも、より近い親類に限られていた。
頃日青山善兵衛(正康)死に臨て子なきゆへ、同名藤蔵(幸高)が子を願ひ奉る、善兵衛従弟あれども、先年知行の事に付て敵味方と立分れ公事仕、善兵衛高之内千石程、右の従弟の方へわかれしより、于今以て不通なり、右之仕合なれば、子に願ふべきわけなきゆへ、同名なるゆへ藤蔵子をねがひ候ヘバ、是も不義なりとて一跡絶る也
田沢久左衛門(正勝)子なきゆへ娘の子則孫なるゆへ願上候へバ、娘の子ハ他門なり、同名のうちを願ふべしとの事ニて、無是非同名のうちを願奉りし故被仰付候、田沢久左衛門、我孫こそいとおしく知行をもゆづりたけれ、同名なりとて思ハぬ者ニ知行ゆづる事ハ、先祖の名字をつゞけて先祖への孝となすまで也、家よりはじめて諸道具一色にても、右の養子へゆずるべきにあらずとて、家長屋迄こハし売候て、明屋敷と知行斗をゆづる也
綱吉の時代は養子を始め諸事に厳格であったこともあるが、他の将軍の時代にも概して旗本の養子にはうるさかったようである。
したがって江戸時代の身分制度は、上級武士・下級武士・良民(農工商)・賤民の四つであり、その他に天皇・皇族と公家衆があったと考えるべきであろう。
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