落語の中の言葉196「天下の往来」
三代目三遊亭金馬「たが屋」より
咄の中に「天下の往来、七分は士が通り、残りの三分を農工商が通る。その頃は咄家の通る所はなかった……」とあるが、江戸の往来は士農工商、馬・荷車も入り交じって通っている。
『江戸名所図屏風』日本橋の部分、明暦大火前
『熈代勝覧』十軒店辺の部分、文化二年1805頃
『江戸名所図会』挿絵の「中橋」
『絵本江戸風俗往来』は次のように云う。
川田 壽氏は『東都歳事記を読む』の「初春路上図」と「元旦諸侯御登城図」について述べるなかに次のように書かれている。
厳守されてはいないけれども、一応の慣行はあったらしい。
すれ違ったり、ぶつかりそうになった時にも互いに左へよける慣行だったようである。
安政二年1855の「両国橋渡初寿の図」も左側を歩いている。
『閑田次筆』には薩摩では夏は日陰を人に譲り、冬は日向を譲るのを「礼至れり」と云っているが、ルールとしては単に左へよける方が優れていると思う。互いに譲り合えばぶつかるからである。
武士は刀の鐺(こじり)が左右に大きく振れることのないような歩き方(腰をひねらない)をしていたであろうが、左腰に刀を差しているので、刀の鐺がぶつかってトラブルになるのを避けるためにも、互いに身体の右側ですれ違うようにしていたのであろう。江戸の町は武士が多かったから、町人も担いだり背負ったりしている荷が武士の刀に当たらないよう左に避けるのが慣例になったものと思われる。村方など武士とすれ違うことが殆ど無い地域ではこうした慣行は無かったであろうから、村方から奉公に出て来たばかりの者は知らなかったであろう。
また、大名行列等武家の行列に出会った時の町人の対応について、江戸御府内では避けているだけでよかったようである。ただし、日光門主や御三家御三卿等の場合は下座しなければならなかった。
紀伊家紅葉山予参途中供連の図
上の図を見ると、土下座している者・立ったままの者・しゃがんでいる者がある。
武家同士が往還で出会った時の礼は細々とした定めがあった。例えば同書「途上の礼式の次第」の項には次のようにある。
また、行列の直前や途中を横切ったりすれば、無礼討ちになりかねない。但し、産婆は例外だったようである。供割りしたことを大いに自慢している。
とりやげばゞ供を割たがきついみそ 誹風柳多留七篇
また幼児も大目に見られたらしい。
供先を割る付紐の愛らしき 収月評万句合
元文二年1737
前句 かまはざりけり々々
子供の着物は紐が付いていて帯は締めない。紐付きの着物から帯を締める着物に替わる祝いを帯直し(帯解き)の祝いという。
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咄の中に「天下の往来、七分は士が通り、残りの三分を農工商が通る。その頃は咄家の通る所はなかった……」とあるが、江戸の往来は士農工商、馬・荷車も入り交じって通っている。
『江戸名所図屏風』日本橋の部分、明暦大火前
『熈代勝覧』十軒店辺の部分、文化二年1805頃
『江戸名所図会』挿絵の「中橋」
『絵本江戸風俗往来』は次のように云う。
道路の通行
一 将軍家はなおさらのこと、御三家方・諸大名・諸武家方及び神官・僧侶、文武の師を始め径捷(けいしよう)便利とて、横町・小路・新道などの通路外なる町内へ踏み入ることなく、通常定まりたる往還道路ありて、その路筋の外を通行せず。町人といえども身柄ある人は、横町・新道を横切りで径捷を得ることなし。大八車・牛車・小荷駄馬も、平生の通行すべき道路の外、引き入ることなし。大通りの如きは人肩相摩すといえども、十中八、九分は物見遊山、神仏詣での通行なれば、雪踏下駄踏む音も自然徐々として、往来悠然たり。ただせわしなきは朝夕芝居見物の往来なり。
川田 壽氏は『東都歳事記を読む』の「初春路上図」と「元旦諸侯御登城図」について述べるなかに次のように書かれている。
初参りや年始廻りで賑わう橋の上をいっぱいにひろがって威風堂々と武家の行列が来る。参賀に行くのであろう。「はた迷惑な」などと、今の感覚で眺めても仕方がない。当時は、これが当り前であった。だがよく見ると、やや左よりに寄って歩いているようである。
橋の中央部には、板が一枚、打ちつけてあるが、中央線の意味を持っていたかどうか。つまり、右側通行や左側通行という慣行が、すでにあったのだろうかという疑問が浮かぶ。
堀端は、参賀の行列で混み合ってきた。
しかし、雑然としている風ではない。端然として歩いたり、屋敷の前では、腰をかがめながら、粛然と行列の出立待ちという気配である。
これらの行列の歩き方というか、通行の区分けは、一定のきまりがあったのだろうか。
たとえあったにせよ、この絵を見る限りでは、通行区分を厳守しているようには思えない。
厳守されてはいないけれども、一応の慣行はあったらしい。
○路を行人たがひに左によりて行は、常の礼なり。かくすれば牛馬口つきのものも、其付たる方に当れば、あやまちもなし。然るに薩摩の辺にては、夏は自(ミヅカラ)日の照かたへ行、日陰を人に譲る。冬はこれに反すとぞ。路を譲るの礼至れりといふべし。又いづこの国か、男女行ク路をことにするを常とすとかや。これはことにかしこきならはしたり。(伴 蒿蹊『閑田次筆』文化元年1804序)
すれ違ったり、ぶつかりそうになった時にも互いに左へよける慣行だったようである。
途中
「隣町まで今までかかるとは、きつい隙の取りやう」「イヤ、お聞きなされませ。参る向ふから人が来て、行当る。除ける方へついて除け、大きに手間を取りました」「ハテ、われは、鈍な者だ。すべて法があって、左へ除けるものだ」と教へられ、又使に行き、心得て左へよれば、向ふも除ければ、「貴様は下地があるはへ」。(小咄本『茶のこもち』甲午初春(安永三年1774))
安政二年1855の「両国橋渡初寿の図」も左側を歩いている。
『閑田次筆』には薩摩では夏は日陰を人に譲り、冬は日向を譲るのを「礼至れり」と云っているが、ルールとしては単に左へよける方が優れていると思う。互いに譲り合えばぶつかるからである。
武士は刀の鐺(こじり)が左右に大きく振れることのないような歩き方(腰をひねらない)をしていたであろうが、左腰に刀を差しているので、刀の鐺がぶつかってトラブルになるのを避けるためにも、互いに身体の右側ですれ違うようにしていたのであろう。江戸の町は武士が多かったから、町人も担いだり背負ったりしている荷が武士の刀に当たらないよう左に避けるのが慣例になったものと思われる。村方など武士とすれ違うことが殆ど無い地域ではこうした慣行は無かったであろうから、村方から奉公に出て来たばかりの者は知らなかったであろう。
また、大名行列等武家の行列に出会った時の町人の対応について、江戸御府内では避けているだけでよかったようである。ただし、日光門主や御三家御三卿等の場合は下座しなければならなかった。
途中下座触 日光御門主、三家三卿、同嫡子市中往来のときは、供方の者(使之者、小人目付、徒目付、先徒等)下座触をなし(下座触は「下に居れ」「下に居れ」と叫ぶ)、往来の諸人をして路傍に屈居せしむ。ただし雨天たりとも傘・下駄を脱せしむ。(市岡正一『徳川盛世録』明治二十二年1889)
紀伊家紅葉山予参途中供連の図
上の図を見ると、土下座している者・立ったままの者・しゃがんでいる者がある。
武家同士が往還で出会った時の礼は細々とした定めがあった。例えば同書「途上の礼式の次第」の項には次のようにある。
万石以上以下とも、日光御門主・三家・三卿に出逢いたるときは歩を止め駕を下りて礼をなす。その法式先箱にて下馬下乗をなし、打物来たりたるとき腰を屈め、乗物間近くなりぬれば平伏す(国主等のごときは少しく違いありき)。このとき万石以上・五千石高役人には、三家・三卿は乗物を下り歩を進めて会釈す(その歩を進むる身分によりて差別あり)。万石未満・五千石高未満役人には乗物のまま会釈をなす。
江戸にて万石以上の面々、公家衆等に出逢いたるときは、横道に入り駕を後の方に向け居り。
また、行列の直前や途中を横切ったりすれば、無礼討ちになりかねない。但し、産婆は例外だったようである。供割りしたことを大いに自慢している。
とりやげばゞ供を割たがきついみそ 誹風柳多留七篇
また幼児も大目に見られたらしい。
供先を割る付紐の愛らしき 収月評万句合
元文二年1737
前句 かまはざりけり々々
子供の着物は紐が付いていて帯は締めない。紐付きの着物から帯を締める着物に替わる祝いを帯直し(帯解き)の祝いという。
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