落語の中の言葉195「駕籠屋・下」

 辻駕籠の実態についてその全体像を描くほどの知識が無いため、断片的にいくつか採り上げてみたい。

*辻駕籠の駕籠舁には元手も技術をあまり必要なかった。
 船頭は「竿は三年、櫓は三月」と落語にもあるように、舟を自由に操るには技術が必要であるが、駕籠舁は体力さえあればできた。
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    『江戸職人歌合』下 文化五年1808序
また辻駕籠は駕籠を所有している者もあったが、多くは乗物屋駕籠屋から一日いくらで借りていたようである。数の制限が撤廃された後、駕籠の貸し賃を安くして一手に行いたいという願いが何回か町奉行所へ出された。そうした場合奉行所は町名主へ障りがあるかどうか調べさせている。名主は返答書に於いて、乗物屋駕籠屋にとって駕籠の貸し賃が収入の重要な一部となっていること、駕籠舁も稼ぎの無かった日などは借り賃をまけてもらうこともあるが、一カ所から借りることになると役銭のようになり、必ずしも今より安くなるとは限らないこと、そのため両者とも今まで通りにしておいて欲しいと願っている旨申し上げている。

元文二年1737
  右願人共申上候通被仰付候而ハ、乗物屋かこ屋共幷かこかき共江障ニも相成候哉之旨御尋ニ付、乍恐左ニ申上候
一 辻駕籠損料之願人喜平治条助申上候通、昼夜ニ而損料拾六文弐拾四文、四ツ手かこも右ニ準引下借渡申度段奉願上候得ハ、願人共申上候通ニ而ハ、乗物屋かこ屋共商売相止難儀仕候、尢かこかき渡世仕候者共為ニも、勝手宜敷儀ニも無之由ニ御座候、此段当春も御尋ニ付吟味仕候処、被為仰付候而ハ障ニ罷成候段申候ニ付、又々此度町々乗物屋かこ屋共ニ相尋候処、当春申上候通、乗物屋共も近年商売等薄く罷成、御屋敷方出入も無之乗物屋共儀ハ、別而辻かこ損料を以日々渡世仕候処、右願之通被仰付候而ハ相障り、至極迷惑仕候段申上候
一 右願人喜平次条助方ゟ町中駕籠かき渡世之者とも右両人江相頼、願之通被仰付候得ハ、大勢之者共広大成御赦ニ罷成候由、勿論かこかき共拾七人連判を以奉願候ニ付、町中かこかき渡世仕候者共、銘々名主方ニ而此度之願両様共、損料下直ニ借渡候段、逐一ニ為申聞吟味仕候処、町中駕籠舁共相願候ハ、只今迄辻駕籠乗物屋かこ屋共ゟ相対を以借り請渡世仕、相応ニ稼も御座候節ハ、約束之通損料直段相払候得共、一向稼も無之節ハ、右之段遂断を候得ハ、平生借り請候乗物屋かこ屋共故、損料用捨仕候儀も御座候、又ハ相極メ候損料之内も、事ニ寄致不足貰候儀も時々御座候処、此度願人共江願之通被為仰付候而ハ、損料之儀も役銭同意ニ罷成、末々ニ至り迷惑可仕と奉存候間、只今迄之通ニ被差置被下候様ニ、町中かこかきとも一同ニ奉願上候、尤連判仕候かこかき共之儀ハ、纔ニ拾七人に而御座候、町中数千人之駕籠かき共、只今迄之通ニ奉願上候(以下略)
   巳七月            年番名主共
 

*体力さえあれば駕籠舁は出来たとはいえ、舁くにも上手下手があった。また乗り慣れないと乗物酔いもある。
 文化十年1813下総国葛飾郡行徳辺を遊歴した十方庵は行徳の駅について次のように書いている。
一 是より先々街道筋馬のみ多くして、更に竹輿(かご)なし、適(タマタマ)に才覚して駕籠に乗る事あれば、舁人(カキテ)不功者なれば支躰を動かし、久しく乗れば頭痛を生じ、歩行には甚劣れり、(以下略)(『遊歴雑記』初編)

   のりものに酔たをめかけひしかくし
         誹風柳多留十八篇(天明三年1783刊)

*辻駕籠が客を呼ぶ詞
 落語では「へい駕籠」と云っているが(「ちきり伊勢屋」「住吉駕籠」)、以前は違っている。

○「軽口御前男」巻之五(元禄十六年1703刊)
まよひ駕籠
「やりましよやりましよ。駕籠やりませふ」「駕籠かろふ。なんぼうじゃ」「三匁五分」「それは高い。一匁二分」「いやいや」と、一匁六分までに値なした。「よふござる。やりましよ」といふて乗せて行く。「いや旦那。どこまででござる」といへば、「ほんになふ、おれもしらぬ」といふた。


○風来山人(平賀源内)『風流志道軒伝』巻之四( 宝暦十三年1763刊)
 此国は穿胸国(せんけうこく)とて、男女とも押(し)なべて、皆胸に穴あり。貴人他所へ行(く)にも、竹輿(かご)乗物はなくして、其胸の穴へ棒を通して、かきありけどもいたまず、辻辻には賤者(いやしきもの)ども棒をたづさへて、通りを待(ち)人を見れば、「棒やろふ棒やろふ」となんいへる事、日本の「かごやらふ」といふがごとし。

  しんのやみ駕イ駕イの声斗(ばかり)
           『誹風柳多留』七篇(安永元年1772刊)

○『寐ぬ夜のすさび』
文政十一年1828に江戸で流行った事を書いた消息文から書き写したものとして
 此程はやりまいらせ候御事、なんだそれ、お芋のたいたの、ゑんこうの丸あげ、めったにおかしく、ほいほいの駕籠やさん、あはせ鏡のほどのよさ、薩摩らうそくの大当り、御蔵前にて子猿の因縁、云々

 「ほいほい」は、客を呼ぶ詞か舁く時の掛け声か不明。

 三田村鳶魚氏は『生活と風俗』で
『吉原讃嘲記時之太鼓』に、
 やかましきもの、めしませいといふ六しやくども。
『吉原こまざらい』に、
 日本堤のあだがよひ、めしましやうといふかごにのり。
とある。これらは寛文度(1661~72)の刊行物と思われるが、舁夫が、「めしませい」とか、「めしましやう」とか言って、乗客を勧めた。(中略)
江戸時代には、舁夫と乗客とは、職業の差別だけでなく、人格の差別もあった、と概言し得ると思う。しかし、舁夫の眼に見えるところだけでなく、乗客の自恃するところも、だんだん低下してもくるので、召しましょうが、駕籠やろうになり、駕籠やろうがホイ駕籠にもなる。
 と述べている。江戸の前期には駕籠の客は武士が主だったのであろう。そのため駕籠舁が客を呼ぶ詞も丁寧である。

*辻駕籠の掛け声
 幕末の『守貞謾稿』後集 巻之三には、「はあん」「ほう」とあるが、これまた以前は違っていた。
 『古今馬鹿集』(安永三年1774)  ヤツサアコリヤサア
 『契国策』(安永五年1776)    やつさこれはさ
 『突当富魂短』(安永十年1781)  ヤツサコリヤサ
 『美止女南話』(寛政二年1790)  ヤツサコリアサ
 十返舎一九『埜良(やろうの)玉子』(寛政十三年1801)には一行に書かれてはいるが、文字が一部右寄せになっている。ここでは色分けすると
    コリヤサイヤツチヤイコレハサイ
ヤツチヤイコレハサイヲツテウエイかごコリヤサイコリヤサイ

*前をゆく駕籠を抜くときには挨拶
さきへ江戸かごと見へてあまりいそがず地みちにゆくをあとよりこへかけ若ひ衆たのみますといへは、さきのかごヲヽやらしやいくといふより少しはやめて一ぱい大きなこへでやつとまかせろ是はさとかつぎぬけて半丁程へだゝる(『契国策』安永五年1776刊)

短六「駕籠でおもひ出したが、先へ行く駕籠を乗越す時は〔若い衆御苦労〕と詞をかけて乗越すの」 長六「さうさ、あれは礼儀と見えるテ」(『浮世床』初編巻之中 文化十年1813刊)

*駕籠賃
駕籠賃は様々でよく分からない。ただ、吉原行きの駕籠は割高だったようである。
○『守貞謾稿』巻之二十二
 小伝馬町に赤岩と異名する駕籠屋あり。先今世、かごや第一の繁昌なるべし。この赤岩より吉原大門口まで駕籠賃「さし」と云ひて一挺二夫にて舁(かつ)ぐ者、大略金二朱。三枚とて手代りを供し三夫の者、金三朱。また雨天には増賃を取る。

○『江戸町方の制度』
 駕籠屋は今の人力屋の如く毎街必らずその営業者ありて、人の需要に応じ街上にも辻駕籠てふもの出だし置きて客待したり。一挺の駕籠賃は本町より大門までにて二朱とし、一人の手換りを加へて三枚となすときは、一挺の価三朱なり。酒手は一人に二百文宛を与ふるを通例とす。遠近によりて価の差別ありしは勿論ながら、これにて推して知るべし。
 当時駕籠に乗るの人は今の人力車の如く頻繁なりしに非らず、吉原通ひの遊客と雖も概ね十分の九は歩行なりしなり。けだし賃銭の不廉たりしによるべし。

○『東武日記』元治二年1865三月の条
新吉原夜ノ風景道ノ真中ニ桜夥敷植数万の燈灯ヲ釣、美々敷事難尽、日中の如し。
   駕籠壱丁代五貫文ツヽ。
   但駕ニテ夜八ッ半時麹町迄帰宅ス、駕三丁代十五貫文遣ス。道中処々〆切御門幷御番所有リテ困ル
  引用者註:「道中処々〆切御門」 幕府が設けた見附などの御門以外にも、町には木戸があり夜間は閉められていたので、木戸番に木戸を開けてもらわなければならない。
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    葛飾北斎「百人一首 宇波か縁説」天保六年1835頃

 以上は吉原行き又は吉原帰りの駕籠賃である。一方、一般の分はそれ程には高くはない。
○曳尾庵『我衣』巻之五 文化六年1809
八月十六日、妻かね、在所へ遣す。三男竹三郎十三歳供に連れ、四男亀五郎五歳一所に駕籠に乗せ、十六日夜八ッ時過出立。月の明か成事、白昼の如し。藤沢迄かご賃二貫六百文なり。但壱里に付二百文のつもりのよし、駕夫申き。
  引用者註:曳尾庵の自宅は下谷御成道

○『馬琴日記』天保三年1832八月廿三日の条
一、八半時前、戸田中間、おミち迎ニ麻布へ可参旨、申来ル。遅刻ニ付、急候様ニ付、駕の敷物、遣之。日暮前、おミち、麻布より帰宅。太郎・お次ハ駕に、おミちハ歩行のよし。依之、駕賃百文減じ、壱朱わたし遣ス。
 引用者註:馬琴の家は神田明神下、当時、孫の太郎数え五歳、お次三歳

雨や雪の日には割増しがあり、体重が重ければ「おもたまし」がある。
○『ものはなし』宝暦六年1756跋
女郎ばかりか近頃は駕籠迄が。たいそうになり宵に雨が降りましたから。百増で御ざると言出し。雪あらしに壱歩の女郎買(かふ)て。壱貫五百が。かごに乗(のる)と云ふも。けしからぬ事なり。

 贅沢の代表ともいえる吉原遊びでさえ「概ね十分の九は歩行なり」と云うように駕籠賃はとても高い。今日のタクシーとは大違いである。例えば天保三年の人足賃は一日三百文である。

『馬琴日記』天保三年正月九日の条
日雇太兵衛に、元日よりの人足ちん、金三朱ト百四文わたし遣ス。四人半分、一日三百文ヅヽ、此内三日ハ半人也。

その頃の銭相場は金一両が六貫五百から六百文であったから二朱でも八百文強になる。酒手を出せば軽く一貫文を超す。駕籠舁に成るのは簡単でも駕籠に乗るのは大変である。裏長屋住まいの者では死ぬまで駕籠に乗ったことの無いものがほとんどであろう。

*駕籠舁の酒手ねだり
落語のもあるように酒手ねだりもあった。特に吉原通いでは。
  駕舁は乗せて昨日の客を誉め
         裏若葉(享保十七年1732刊)
  駕の者おろして願ふむし薬
         誹風柳多留五篇(明和七年1770刊)
      駕籠を下に降ろして、「むし薬」(酒手)をねだる
  棒組よおねがひ申せなぐるそよ
         誹風柳多留十篇(安永四年1775刊)
      「なぐる」とは雨か雪が横なぐりに降っていることであろう
  ぼうくみやおよらぬうちにねがやれな
         誹風柳多留十八篇(天明三年1783刊)
       「およる」とは眠ること
  だんなもしいつそぬまだとねだる也
         柳多留拾遺七(明和年中1764-72の万句合)

 その酒手を出さないとブラブラ、ヨロヨロと歩くことになる
  よろつかあつい大門に着にけり
         誹風柳多留五篇(明和七年1770刊)

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*追補
嘉永二年1849十一月に堀江町に生まれ、大正七年まで同所に住居した著者が、大正十年に著した『江戸の夕栄』には次のようにあります。
  辻駕籠が客を呼ぶ詞      「ヘエ駕籠」
  四ッ手駕籠の吉原通いの掛け声 「ホイヤ ホイヤ ホイヤ」

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