落語の中の言葉193「旦那」

     六代目三遊亭円生「百年目」より

 咄の中に、「旦那」という言葉の訳について人から聞いた話として、センダンとナンエンソウのことが出て来る。センダンのダンとナンエンソウのナンからダンナン、ダンナになった、持ちつ持たれつの関係だという。上方落語(桂米朝・桂文枝師匠)では御法談で聞いたこととしてシャクセンダンとナンエンソウとしている。いかにも法談にありそうな話である。
 ところでセンダンについて思い出すことがある。千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館へ行った時、少し離れたところに「くらしの植物苑」があって、ちょうど樹木の剪定をしていた。センダンと名札の着いた樹の下に葉や枝が沢山落ちていたので「栴檀は双葉より芳し」という言葉を思い出して、葉や小枝の切り口を嗅いでみたが芳香がない。作業している人に尋ねると別の樹だと言われた。帰宅して辞書をひくと、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀はビャクダンのことでセンダンとは別の樹だとあった。センダンという芳香のない樹があるのに、なぜ「栴檀は双葉より芳し」というのか不思議である。

閑話休題
 この法談に少し似た話が新井白蛾の『牛馬問』(宝暦五年1755自序)にある。
  檀那
或仏書に曰、檀那といふは、檀は木の名にして、葉茂りて雨もらず。那は草の名にして、甚だ雨にいたむ。故に此草、檀木の下に生ず。他の処にては生長する事を不得。故に頼よるを檀那といふ。此説可笑の甚し。檀那は梵語なり。唐には施主と訳す。相互に施すの義なり。檀は擅といふもの有。又檀香といふもの有。那といふ草有事をきかず。

 ダンナはサンスクリット語のダーナの音写で、布施と訳されている。「やけどの呪い」で触れたように、インドの仏教経典を中国語で表記するとき、同じ意味の漢字にする場合と同じ発音の漢字にする場合があった。後者を音写という。既に採り上げたもので言うと
 マハー(大きい)ヴァイローチャナ(太陽) 大日、 摩訶毘盧遮那
 マハー(大きい)カーラ(黒)       大黒、 摩訶迦羅
そしてダーナは、              布施、 檀那
である。
布施と檀那は元は同じ言葉である。日本では布施という行為の他に、布施をする人の意味でも使われ、そこから「旦那」へ変化したものらしい。
岩波『仏教辞典』には、次のように載っている。
檀那 サンスクリット語のdānaに相当する音写。もともとは、施し・布施を意味するが、わが国では、寺院や僧侶に布施・寄進をするパトロン、つまり檀越・檀家と同じ意味で用いられた。布施を受ける寺のことは、「檀那寺」と呼ばれる。(中略)
なお檀那は、家を支えるパトロンとか、恩恵を与えてくれる者の意味から、既婚の男子、特に夫や主筋の相手に対する一種の敬称とも転じ、「旦那」とも書かれるようになった。

 『守貞謾稿』巻之四は、若旦那にも触れている。
 檀那 三都ともに士民・臣僚・奴婢よりその主人を指して旦那と云ふ。ある人云ふ、だんな元梵語なり。倚頼の心なりと。しかるや否を知らず。
 武家万石以上以下も他に対し、時に応じてその主君を旦那と
 云ふ。
 陪臣の武家は皆必ずその主人を旦那と云ふ。
 民間もその主人を旦那と云ふ。
 武家の陪婢、俗に云ふ「またもの」は、己が仕媵婢(ようひ)
 をも旦那と云ふ。
 また俗家より菩提寺を旦那寺と云ふ。菩提寺および諸寺社ともに、信者にて常に米銭等を供す家を旦那あるひは旦家・旦方とも云ふ。
 勅願所は朝廷、御祈願所は幕府を大旦那と云ふの類なり。
 また己が主君にあらざるも、常に扶助を受くる人を指して旦那と云ふ。近世は小民より巨戸の主人を旦那と云ふは阿諛(あゆ)なり。
 また賤業の家および諸工家の輩などは、戸主を旦那と云はず親方と云ふもあり。
 また士民ともに主人父子在すには、京坂にて親旦那・若旦那と云ひ、江戸にて大旦那・若旦那と云ふ。あるひは小旦那と稀に云ふ。

 武家の場合は、身分によって殿様と旦那様にはっきり分かれていた。大名は殿様で、御家人は旦那様である。旗本は元は旦那様であったが、後に殿様と呼ばれるようになったという。
昔我等ごとき御目見以上は、旦那様御新造様と申す。いつとなく殿様奥様といふやうになり。近来は御用達の町人も、奥様御上様などと云も有やうに折々聞及。右に准じ、何事も奢のみに成、近来夏合羽など専用ひ、衣類住居向等、昔見ぬやうなる結構に成たる也。(柴村盛方『飛鳥川』文化七年1810序)
ここに「旦那様御新造様」「殿様奥様」と出て来るが、殿様の妻は奥様であり、旦那様の妻は御新造様であって、殿様・旦那様と同様に奥様・御新造様の呼び分けも厳格であった。少し長くなるが武家の呼称について市岡正一『徳川盛世録』明治二十二年1889刊の記載を紹介する。
尊称上下の区別
将軍は公方様と称し、その妻を御台様(みだいさま)と称す。未だ相続して将軍宣下なき間は上様と称す。世嗣は西丸様と称し、右近衛大将に任ぜられし時は、右大将様と唱え、その妻を御簾中様と唱う。また将軍の女は諸侯に婚嫁せしもみな姫君様と称す。ただ三家三卿の妻となりしものは某御簾中様と称し、将軍職を退きたるものは大御所様と称し、その妻を大御台様と呼ぶ。また将軍を指して御前とも上とも唱う。大名旗本にては殿様という。また御前と呼びし家来もありしかども、御前と呼ぶは大約寄合以上なり。大名旗本の妻は奥様と称し、その世子を若殿様と称す。また大名の女(むすめ)は於姫様(おひめさま)といい、寄合席にては於姫様と書きてヒー様と呼ばせたり。けだし姫というを憚りてのことなり。その他の旗本にては大約於嬢様(おじようさま)といいたり。また大名旗本の世嗣の妻を若奥様、または御新造様と唱う。御新造とは新たに殿舎を造りて住居せしむるの義なり。また目見以下・陪臣・浪人等おおよそ士たるものには召仕の男女その他目下の者は旦那様・御新造様といい、如何に富貴なるも殿様・奥様といわせず、またはいいもせざりし。目見以下の者、目見以上の役に転ぜし時は、殿様・奥様と改称せり。ゆえに目見以下の人御用召にて登城し、待受の客来あり、その妻出て客の取持ちをなし居るも、客その妻を呼ぶに御新造様といいて奥様といわず、もし殿中より役替の報知書来り目見以上となりたること分り、その妻客に向いて某儀某御役〔即ち目見以上の役なり〕仰せ付られたる旨申越したりといわば、これより来客の面々俄にその妻に向いて奥様々々と呼びたり。また手伝に来りたる出入の町人その他種々雑多の男女までも、これまでは世事にも奥様と呼ばざりしが、この報告を聞くや俄に奥様々々と呼びしこと、けだし別人のごとし。

 御家人の妻でも二、三十俵高の小身者の妻は以前はおかみ様を呼ばれていたが、生活ばかりでなく言葉までが奢ってきたという。
我等十四五歳の頃は、御家人弐三拾俵高の妻女をかみ様と、皆人称せり、まして商人は、富家にてもかみ様とよび、子共が親兄へは、とゝ様、かゝ様、あに様、あね様といひけり、然るに、二三十年以来、同心、渡り用人の類の妻、町人も相応にくらす者の妻は、御新造様と称し、又は一曰くらしの者の子共も、御とゝ様、御かゝ様、御あに様、御あね様といふ事になりたり、いはんや富家の浅草札差は心至り、礼義武家をまねて、娘をおじやう様、妻を御新造様と称す、大名の嫡子の室を御新造様と称する事を知らずして、僭上無礼なる亊、悪むべし、世の中奢れるより、言語までおごりて、実儀は薄く、軽薄になれ、諸商人は、卑賤の者へも売物を売付んとてあがめうやまふより、移り来りし事成べし(小川顕道『塵塚談』文化十一年1814)

 また、『守貞謾稿』には「士民ともに主人父子在すには、京坂にて親旦那・若旦那と云ひ、江戸にて大旦那・若旦那と云ふ。あるひは小旦那と稀に云ふ」とあるが、少し違う意見もある。
島崎藤村『夜明け前』にある、吉左衛門の女房が、「大旦那は」と言って下女に聞いている文章について難じて、三田村鳶魚氏は『時代小説評判記』で
普通は、息子があれば若旦那、その場合、当主のことを旦那という、もし当主に親があれば、その人を大旦那というようです。
  と述べている。
 店の当主を旦那といい、その跡継ぎの息子を若旦那という。若旦那が順調に成長して親から店を引き継ぐと若旦那から旦那になり、それまでの旦那は大旦那になる。旦那・若旦那、大旦那・旦那は父・子であり、大旦那・若旦那は祖父・孫の関係になるということであろう。ただ鳶魚氏には珍しく「というようです」と断定していないところを見ると、確固とした根拠となる文献資料は無いのかも知れない。

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