落語の中の言葉192「麻呂と朕」

       「茶金」より

 咄の中で近衛殿下は自分のことを「麻呂」と呼び、天皇は「朕」と自称している。

一、まろ
 「麻呂」についてはいろいろな考えがある。
人の名に、丸といふ字をつくる事、まるは不浄を入るゝ器なり。不浄は鬼魔のたぐひも嫌ふものなり。されば鬼魔の類ちかづかざる心を祝して、名の下につく心なり。古今集の作者に、屎(くそ)といひ、貫之が幼名をアコクソといふ類おほし、云々(岡西惟中『消閑雑記』 惟中は正徳元年1711歿 享年七十三)

人の名になにまろとつけ、あて(貴)人のみづからをさしてまろといへるものみな鄙下の称なるべし。そは材(ザエ)あるをかどあるといへるは、かしこきよしなり。まろは其うらにて材なきよしなり。難浪わたりの人、つねのことぐさに、ものゝあたひのたかきをうろこといひ、ひきゝをまろきといへるもおなじこゝろなり。今の人、身のほどをはからで、みだりに麻呂といはんはいかゞ。(釈 立綱『うき草のあと』文化十四年1817自序)

また船の名、上古には枯野、早鳥なんど号け呼けるも、中世より丸の字を加へぬ。是舟を愛して人になぞらふ也。昔物を愛して多く丸の字を加へし事あり。馬に節丸、犬に翁丸、鷹に緑丸、狆に花丸など号けたり。(百井塘雨『笈埃随筆』安永1772-80~天明1781-88末)

いにしへの人は、某麿といふ名多し。自称してまろといふも、まろはもとより自称なるにつきて、人の名にもおほくつくか。人の名に多かるゆゑ、自称ともなれるか。もとすゑはしらねど、ひとつ根ざしの詞にはあるべし。近ごろまでは、天子の自称のやうに心えをりつるを、学問の道あきらかになりて、今はさしもあらぬにや。牛飼は、後々までも丸といふ名つくうへに、天平勝宝の東大寺の奴婢籍にも、某丸といふ名多かり。
宇治拾遺物語に、猿を猿まろといひ、狭衣物語に、螽をいなごまろといへり。枕草子に、犬に翁まろあり。駿牛絵詞に、牛に貘丸あり。たち、かたな、琴、笛、何物によらず、某丸といふ名おほくつけたる物なりしに、今はさる事、をさをさきこえず。たゞ舟のみに、なほそのなごりあり。
或人の考に、自のうへをまろといふは、芸能ある人をかどありといふ反(ウラ)にて、から国にて不肖などいふもおなじ意ばへなりといへり。げにこれはよく相対(ムカ)ひてきこゆる詞なれば、打聞はよろしき説のやうなれど、さやうにこざかしく自謙(オト)しなどする事は、上れる代にはなき事ぞかし。もし此説のごとくならば、猿まろは、芸なし猿といふ事ならんかし。螽丸も芸なしいなごといふにやあらむ。かの物語には、拍子うつとありつるものを、心うき名にあらずや。すべて言語の本義は、いかなる事ともしりがたし。それしらずとも、まろは自称などやうに、当用をだにしらば、何の事かく事もなし。しかるをあながちに解むとすれば、かならず横ざまに、ゆがみゆくものなり。しかしり難き事をしらむとせんより、いとようしらるべき事のしらであるが多かるを、まづそれよりまなびとるべきわざならずや。世の学者たち。(石原正明『年々随筆』享和元年1801~文化二年1805)

  「まるは不浄を入るゝ器なり」について思い出すことがある。小学生の頃月遅れのお盆に信州の母の実家へよく出かけた。村の子供と蝉や魚を捕りに行くとき、「ちょっと待って、オシッコまってくる」と云われた。変な言葉だなアと思ったが、ずっと後になってこの言葉は方言ではなく古語であることが解った。古い時代の言葉がそのまま使われていたのであった。まる(放る)は大小便をすること。今では持ち運び出来る便器の「おまる」に残るくらいである。
 ちなみに、お盆とは陰暦七月十三日から十五日の行事で、明治に太陽暦に変わった際、農村などでは新暦の七月では早すぎるため、旧暦で行ったり、ひと月遅らせて新暦の八月に行った。これを「月遅れのお盆」という。何時の頃からか「月遅れのお盆」を単に「お盆」と呼ぶようになった。

二、朕
「朕」は元は天子に限らず使われていたが、秦の始皇帝の頃から天子だけが使う言葉になったという。

大漸弥留ノコト
(前略す)病ノ日々ニオモリテ同クラヰニモチテアルヲイフ。大漸弥留ハタガ上ニテモ重病ハカク云ベキコトナレドモ、本成王ノ亊ヲイヘルユヘニ、天子ノ御違例ナルニ用ユルナリ。シカルニ文選ニノスル王仲室ガ褚淵ガ碑文ニ、景命不永大漸弥留卜云リ。ソノ比マデハ臣下ニモ通ジテ用タルコトヽミエタリ。後世ハ決シテ天子ニカギレリ。凡テ言辞ノ道、字ニ定例アルニアラズ。古来ヨリ用付タル上ヲノヅカラ貴賤敬慢ノ体ワカルヽコトナリ。博考へ審ニギンミセザレバアヤマルコト多シ。朕卜云字、イニシヘハ上下ニ通用セリ。秦ヨリ以後ハ、天子ノ称ニカギル亦コノ例ナリ。(伊藤東涯『秉燭譚』享保十四年1729自序)

三、一人称種々
 その他にも江戸時代には様々な一人称があった。
○越谷吾山『物類称呼』安永四年1775自序
自(みづから)をさしていふ詞に豊前豊後にて○わがどうと云 又 身が 等といふもおなじ 又身ども 身 とばかりもいふ、〔正徹物語〕ニ 身が家は二条東ノ洞院に有し也と云々 又 おれ と云 おら といふは己(おのれ)の転語にて諸国の通称か 東国にては○おいらとも云 中国にて○うらと云(後略)

○山手馬鹿人(大田南畝)『軽井茶話 道中粋語録』(安永八九年頃1779・80)の姥捨山人の序文には次のようにある。
学者の足下。藩中(おやしき)の貴殿。侠者(きやん)のおみさん。通(つう)のぬし。何れもきさまはきさまなり。その返報に不佞(ふねい)といひ。身(み)どもといひ。おれがといひ。わっちといふ。いづれも拙者は拙者なり。(以下略)
   「不佞」は医者も使っている。

 面白いのは江戸では女性も「おれ」を一人称として使っていたことである。
小咄集『茶のこもち』甲午初春(安永三年1774?)
  石橋
「今度富十郎が石橋を致しますが、おかみ様、お前にしやうでござります」「おれに似たとは、器量か」「いへいへ」「風俗か」「いへいへ」「どこが」「髪の赤いところが」

式亭三馬『浮世風呂』二編巻之上(文化十一年1814刊)女中湯之巻 朝湯から昼前のありさま に登場する女性(子供は除く)の一人称を拾うと次のようになる。
画像

  お三味  何文字とか豊何とか名告るべき十八九の白歯
  お撥   三十ばかりの白歯
  母    三十四五
  辰    女三人男二人の子を持つ母 長男は本店へ奉公
  巳    辰のそばに居る人 男の子一人を持つ母
  さる   七十の婆さま
  とり   六十の婆さま
  いぬ   三十歳くらいの女房
  お山   太った女
  上方すじ 太った女

 安永頃は人から「おかみ様」と呼ばれる女性も「おれ」を使っている。文化の末頃になると「わたし」「わたくし」が多くなっている。
 自称の「おれ」という言葉は次のように云われる。
おれとは、もと人を罵る詞なり。日本紀、古事記ともに爾の字を訓せり。いまみづからいふは、あたらぬやうにぞ侍る。またはおのれの中略なるにや。(榊原篁洲『榊巷談苑』 篁洲は宝暦三年1753歿 享年五十一)

 現在東京では女性の自称「おれ」はほとんど使われていないが、地域によっては今も普通に使われているらしい。そもそも女性が「おれ」と言うことは昔は極普通のことであったという。
 米田達郎氏の「人称詞オレの歴史的変化」によると、
奈良時代   二人称として上位者が下位者に対する時使われる。
平安鎌倉時代 奈良時代を踏襲、罵倒表現が主。
       一人称のオレが見られる。身分のある人や、下位者が
       上位者に対する時にも使われる。
室町時代   鎌倉以降は二人称のオレは見られず一人称のみとなる。
       一人称のオレは老若男女を問わず使用。ただし、鎌倉
       時代に比べ価値が低下し、下位者が上位者へ対する
       場合には使わない。
       女性の場合は身内に多く使われる。
江戸時代前期 女性のオレは貴賤を問わず使われるが、身内相手が主。
江戸時代後期 上方では女性のオレは見られない。「わし」が多くな
       り始める
       女性のオレは江戸では引続き使われるが身内仲間内
       に制限される。
       男性のオレが一般町人の罵倒表現で多用されるように
       なったため、女性は使うのを避けるようになったと思
       われる。

 言葉は段々下落して行くものらしい。「お前」のように。

 また自称にについては次のようにも言われる。
   ○老翁道人などのこと
一条禅閤の桃花老人と書かせ給ひ、此外有徳の人、何の老翁、何の道人、或野叟などとかゝれたる類をならひて、徳もなき凡下の人、或俳諧連歌をする輩、かく妄に自書すること然るべからず。玄旨法印の愚老、愚翁などと書給ひしも、其人なれば世の人これをとがめず。又和歌のことばにも、我身の事を賤とよむは、高貴の上にての詞也。西行上人の、心なき身にもあはれはしられけりとよみ給ひしも、其人なればなり。普通の人の心なきなどとは言ぬことなり。元来心なき身なればなり。平常の詞にもあまり謙退しすぎたるは、却つて無礼になることもあり。書札通用の俗文章にも、我身のことを拙者、或愚拙、或愚意、愚按などと書ことも斟酌して用うべし。(平 直方『夏山雑談』寛保元年1741序)

  現在でも時々「不徳の致すところ」と云う言葉を耳にするが、徳の備わっている人が使うぶんには謙遜となるが、徳など備わっていそうもない人が使うと謙遜どころか、尊大・横柄になる。

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