落語の中の言葉186「易者」
六代目 三遊亭圓生「ちきり伊勢屋」より
この咄のあらすじはとても長くなるので省略して、今回採り上げるのは易者(占者うらないしゃ)である。
咄には占いの名人として白井左近が出て来る。麹町に家を構えて易者をしていたというので、これは「正規」の易者であろう。一方「井戸の茶碗」の千代田卜斎は、昼は子供を集め素読の指南、夜は街に出て売卜をしているというところを見ると、「もぐり」の易者かも知れない。「正規」とか「もぐり」とか云ったのは、江戸時代に料金を取って占いや呪いをする者は土御門家の支配を受けることになっていたからである。
徳川幕府は、新規の宗教は認めず、仏教には、本寺末寺の制度をつくり、本寺に末寺を統制させている。一方、神道(神社)は神官を吉田家に、陰陽道は陰陽師を土御門家にそれぞれ統制させる方法を採っている。そして土御門家は占いは陰陽師の仕事であり神官であれ巫女であれ身分の違いを問わず占いをする者はすべて土御門家の支配下に入るべきものとして組織化を図った。
寛政三年の触れとは次ぎのものである。
江戸の触頭が発行した「定」(職札)について「近世の陰陽道」には次のようにある。
占者支配による土御門家の収入については次のように云われる。
「九字を切る」ことを代表にしているが、それは主に修験(山伏)が行うことであり、全体では「定」(職札)にあるように占いが中心であろう。
ここに公家衆の「内職」と言っているのは、公家は徳川幕府から旗本並の禄が与えられていたからである。
高埜利彦『天下泰平の時代』にある公家の知行高一覧(寛文5年)から千石以上の家を抜き出すと次の通り。総家数一一五家とあるが表に記載されているのは九二家で、それを百石ごとに区切ると右の表となる。ちなみに土御門家は177.6石である。
石高
九条 2,043余 1,000石以上 8家
近衛 1,797余 900石 2
二条 1,708.8 800石 2
菊亭 1,355.8 700石 4
同内室 300 600石 1
日野 1,103.7 500石 2
一条 1,019余 400石 3
鷹司 1,000 300石 9
萩原 1,000 200石 24
100石 37
合計 92
勿論、幕府から知行を受けるものの、奉公するのは朝廷に対してである。
ところで、大道易者は編笠を被っていたようである。
「ものはくさ」明和八年1771刊の図
山号寺号を使った戯文にも編笠のことが出て来る。
今日、易者というと八卦のほかに手相や人相なども見るように思われるが、『江戸職人歌合』上(文化五年1808序)には人相見と八卦見とが別物として扱われている。
ところで江戸で有名であった易者に平沢左内がいる。つぎに二つの話を挙げるがその評価は全く逆である。
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この咄のあらすじはとても長くなるので省略して、今回採り上げるのは易者(占者うらないしゃ)である。
咄には占いの名人として白井左近が出て来る。麹町に家を構えて易者をしていたというので、これは「正規」の易者であろう。一方「井戸の茶碗」の千代田卜斎は、昼は子供を集め素読の指南、夜は街に出て売卜をしているというところを見ると、「もぐり」の易者かも知れない。「正規」とか「もぐり」とか云ったのは、江戸時代に料金を取って占いや呪いをする者は土御門家の支配を受けることになっていたからである。
徳川幕府は、新規の宗教は認めず、仏教には、本寺末寺の制度をつくり、本寺に末寺を統制させている。一方、神道(神社)は神官を吉田家に、陰陽道は陰陽師を土御門家にそれぞれ統制させる方法を採っている。そして土御門家は占いは陰陽師の仕事であり神官であれ巫女であれ身分の違いを問わず占いをする者はすべて土御門家の支配下に入るべきものとして組織化を図った。
土御門家による陰陽師の組織化は、貞享、元禄年間から本格化し、畿内や関東を中心に広がっていった。土御門家は、主に古参の陰陽師を触頭、小頭に任命し、ある領域内の陰陽師の支配を彼らに委ねた。触頭は、配下の陰陽師から上納金を集金し、それを土御門家に貢納するとともに、許状・定の受渡しやその書替えの窓口になるという中間機関となった。土御門家―触頭―陰陽師という体制ができて、陰陽師の教団組織の骨格をなしていた。しかし土御門家の陰陽師組織が拡大してくると、触頭下の陰陽師を一律に扱うことができなくなり、より細分化した階層・集団を設定する必要に迫られた。とくに大都市・江戸で陰陽師支配を行っていた江戸役所は、明和・宝暦期以降、独自に古組、新組、新々組、売ト組、在々組という組をつくり、支配の網の目を細かくし、さまざまな宗教者、芸能者を吸収しようとした。(中略)
寛政三年(一七九一)四月には、土御門家の長期にわたる嘆願を受け入れ、幕府は陰陽師支配の全国触流しを実施した。触れは、幕藩体制の機構を通じて流され、土御門家は、それを利用して支配の拡大と強化につとめた。(林 淳「近世の陰陽道」(『陰陽道の講義』))
寛政三年の触れとは次ぎのものである。
陰陽道職業致し候輩ハ、土御門家支配たるべき儀勿論ニ候処、近年甚乱雑ニ相成、陰陽道猥ニ執行ひ候族も有之様ニ相聞候、以来右躰之心得違無之、土御門家ゟ免許を請、支配下知堅相守可取行候、右之趣不洩様可被相触候
四月
右之通可被相触候
右之通被仰出候間、町中不残入念可相触候、以上
(寛政三年1791)四月十五日 (『江戸町触集成』第九巻)
江戸の触頭が発行した「定」(職札)について「近世の陰陽道」には次のようにある。
定
一、天社占考広く相勤めるべき事
一、御公儀・御法度の儀は申すに及ばず、安家作法
の通り正敷く相守るべき事
一、非義非道の占考、異法新法の行事仕るまじき事
一、子弟為ると雖も届無く陰陽道占考仕るまじき事
右の趣を堅く相守り、職業正しく相勤めるべきもの也
年号月 土御門二位殿江戸役所 吉村権頭印
誰 殿
この定(職札)では、陰陽師の勤めるべき活動内容が、占考に絞られている。この内容は、争論や寺社奉行の改めを通じて形成されたものと思われるが、陰陽師の職分を占考と規定したことで、占考が陰陽師の特権であるという主張にもなっていった。土御門家は、これを利用して占考を行う宗教者はすべて自らの配下になるべきだという独断的な考えを打ち出した。
占者支配による土御門家の収入については次のように云われる。
(前文略)公家衆はそんなことで内職があった、其外歌だの香だのと云って、門入料だの免許だのと云って取り立てた、其一番ゑらいのが、吉田家であったと云ひます、なぜならば、神社の位、神主の位、菓子屋の大掾、浄るり語りの大掾等の許し、稲荷の正一位は最も収入が多かったと云ひます、第二が土御門家で、これは神主もあるが、九字を切ると云って、色々なおまじなひをする者は、皆許を受たのみならず、巫(みこ)、覡(かんなぎ)、降巫(いちこ)までも、許を受けさせられたと云ひます、(後略)(村山鎮『大奥秘記』)
「九字を切る」ことを代表にしているが、それは主に修験(山伏)が行うことであり、全体では「定」(職札)にあるように占いが中心であろう。
ここに公家衆の「内職」と言っているのは、公家は徳川幕府から旗本並の禄が与えられていたからである。
高埜利彦『天下泰平の時代』にある公家の知行高一覧(寛文5年)から千石以上の家を抜き出すと次の通り。総家数一一五家とあるが表に記載されているのは九二家で、それを百石ごとに区切ると右の表となる。ちなみに土御門家は177.6石である。
石高
九条 2,043余 1,000石以上 8家
近衛 1,797余 900石 2
二条 1,708.8 800石 2
菊亭 1,355.8 700石 4
同内室 300 600石 1
日野 1,103.7 500石 2
一条 1,019余 400石 3
鷹司 1,000 300石 9
萩原 1,000 200石 24
100石 37
合計 92
勿論、幕府から知行を受けるものの、奉公するのは朝廷に対してである。
ところで、大道易者は編笠を被っていたようである。
売卜者 売卜者の多く出づるは、筋違御門内より芝口新橋迄の大通り町最も多く、日々午前より夜に入るや提燈・行燈を点じたり。その外麹町・赤坂・四ッ谷・芝愛宕下久保町の原・浅草御門内外・柳原土堤にそい上野山下・本郷通り等に、総じて人の多く出でける所には必ず出でたり。白き木綿をもって蚊帳の如き囲いをなして、その中にて売卜するもあり、また三尺に六尺ばかりの台の上に机を控えたるもあり。また売卜の台を前にかまえ、卜者腰を掛けたるもあり。白木綿の囲いなき卜者は皆笠をまぶかに被りて面を掩(おお)えり。その扮打(いでたち)は古紋付の衣類に白き毛織の被布(ひふ)などを着し、白髭を粧うたる老人の異風なるものありしも、多くは古紋付の羽織に縞の衣類を着し、小脇指一腰を帯し、いかにも由ある武士の浪人の如く見せたり。この外は一戸の門構、または表に格子戸などを立て、易・観相の看板を出したり。芝神明前の石竜子・浅草の青雲堂・親爺橋の白井ト星・南伝馬町の本国堂など易観相の有名なり。浅草御蔵前に床店の内にて売卜観相をなすものあり。こはいみじき大きなる笠を門口につりて目印とするより、蔵前の大笠とて、人口かまびすしかりき。(菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』) 下図
「ものはくさ」明和八年1771刊の図
山号寺号を使った戯文にも編笠のことが出て来る。
占山(うらやさん) 陰陽(をんやう)寺
本尊 当卦
霊仏
本卦
幷ニ 日光月光の額あり
当寺のかい山。伏義(ふつき)上人は。和かんの大祖なりはるかの後にこの宗門を継(つぎ)て伯道和尚の開基にしてわか朝へわたりしは神亀年中なりしかるに吉備の大じんに勅命ありてさん木めと木をもって一宇をこんりうし名づけておんやう寺と号す後(のち)周易和尚これしうゑきの元祖也そのゝち道満和尚晴明(せいめい)和尚といふ名僧出て此宗旨をよくけう化し給ふ後断易年中に心易和尚といふ人名僧にならんとて聖廟へ梅花をさゝげてかんこん。しんそん。りこん。だけん。と真言をとなへそののち卜筮(ほくせい)年中に手のす寺(じ)といふ末寺をこんりうしほうろくをよむねかひ。のぞみのある人又は病人欠落人等の祈願所にして星祭(ほしまつり)の守り此寺よりいつる
まい年三月出かはりのころ参詣多し
此寺の宗旨にて編笠をかふりてくわんけする (『大の記山寺』天明三年1783自序)
今日、易者というと八卦のほかに手相や人相なども見るように思われるが、『江戸職人歌合』上(文化五年1808序)には人相見と八卦見とが別物として扱われている。
ところで江戸で有名であった易者に平沢左内がいる。つぎに二つの話を挙げるがその評価は全く逆である。
両国橋米沢町に居る平沢左内は、占道に妙を得、箱のうちなる物をさすに、神のごとし、或時、松平雲州にて、百色当といふ事を致し、九十九品をさすに一品も不レ 違、此一色にて百色に満る、左内しばらくかんがへ、此占知れ不レ 申候、と云、雲州其ゆへを被レ 尋に、是は陰陽一身に備りたる人なり、かゝる人可レ 有とも不レ 奉レ存候故、相知不レ 申候旨、申上候と云、雲州手を打て、左も可レ有、歌舞妓役者の名なり、と言はれければ、左内まゆをひらき、然らば、瀬川菊次郎仙魚にて御座有べし、仙魚の外三ヶ津に実の女形は無二御座一候、といふてふたをとる、はたして、菊次郎なり、一座の人々大きに感称せり、(『江戸塵拾』巻之一 明和四年1767頃)
平沢左内と云ト者あり、其以前は、柳原和泉殿橋向新道通りにかすかなるくらしして、辻などへ出て、手の筋を見、かたがた其日細き煙りを立たるが、享保、元文の頃より、不レ計はやり出して、今占の一流平沢流と云は、片腹いたきいやきな奴なり、扨々文盲千万の匹夫なり、店替、宿替をする事、一ヶ月に二三度ヅヽなり、白銀町をも居たゝまれず、亀井戸をも立てられて、此頃は両国橋米沢町、是も引越と、其まゝもやもや有、久しからずして変宅疑ひなし、爰を以知るべし、其人となり宜からざることのみ、みぢんも何とも知らず、却て人を人とも思はぬゆへ、人々是を憎みて、或時ははんかの輩も来て問答するに、悉く打負、あたり隣へ外聞悪く、居たゝまれずして逃廻りけり、江戸中に四五ヶ所も会所を拵置、一六は木挽町五丁目本屋与七、二七は鞘町の不動院、三八は浅草山本宮内隣などゝ、人の家を借りて、門弟と称して、何も知らぬ鉄火打を見るやう成下郎をあつめ、算木、めど木取散し、素人などおどして金銀をむさぼる媒とし、表の障子這入口に、知る人の外、前後被二仰込一無き方へは、不意に御出被レ成候得ば対面不レ致候とは、余り弱き逃言葉を書て、若(もし)も知る人有て難問せん事を恐れての事なり、軍書講師神田杏林と云者、白銀町へ推参して、論議して大きに左内を云込ける、後は右の通に張札を出して、人こはがりけるとなり、或時、去る歴々衆へ招かれ、左内へ其御方ののたもふは、此箱の中へ入たるもの有、占て見給へ、と有ければ、左内占て申けるは、箱の内に有とも正敷生類なり、何の役にも立物にてなし、国土のつひへ、取るに足らぬものなり、と子細らしく申けり、其御方大に感じ笑せ給ひ、是はよく当りたり、何の役にもたらぬ取に足らざる馬鹿者、名を書て入置きたり、是見られよ、と箱を明給へば、紙に平沢左内と書て入給ふ、是は一生平沢左内が占の大あたりなり、(馬文耕『当世武野俗談』宝暦七年1757自序)
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