落語の中の言葉181「大祓の祝詞」

     三代目 桂 米朝「風の神送り」より

 大坂の町に悪い風邪が流行って、よその町内ではみなやっているからと、「風の神送り」をする咄である。帳面を作って銭を集めて歩くのが咄の中心である。米朝師匠は、大祓の祝詞(のりと)とかいうのがあって、水無月祓でも罪も穢れもみんな、とにかく流してしまうのが日本のやり方だといって、次のように話している。
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     夏越祓(=水無月祓) 『東都歳事記』より

罪も穢れもみな川へ流してしまう。川から海へ出て行くと、海の向こうに口を開いて待っている神さんがいて、ガーと呑み込んでそれを根の国・底の国へパーと吐き出すと、根の国にも待っている神さんがいて、この神さんが忘れ物の名人みたいな神さんで、罪や穢れを持ってそのへんをウロウロ、ウロウロしているうちにどっかへ落として帰ってくる。それで罪も穢れも無いようになる。まことに便利に出来ている。

 これは大祓の祝詞の後半をわかりやすく簡略化したものである。この部分に当たる延喜式の大祓の詞は次の通り。
高山・短山(ひきやま)の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐(ま)す瀬織つひめといふ神、大海の原に持ち出でなむ。かく持ち出で往(い)なば、荒塩の塩の八百道(やほぢ)の、八塩道の塩の八百会(やほあひ)に坐す速開(はやあき)つひめといふ神、持ちかか呑みてむ。かくかか呑みては、気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主といふ神、根の国・底の国に気吹き放ちてむ。かく気吹き放ちては、根の国・底の国に坐す速(はや)さすらひめといふ神、持ちさすらひ失ひてむ。かく失ひては、天皇(すめら)が朝廷(みかど)に仕へまつる官々(つかさつかさ)の人等(ひとども)を始めて、天の下四方には、今日より始めて罪といふ罪はあらじと、高天の原に耳振り立てて聞く物と馬牽き立てて、祓へたまひ清めたまふ事を、諸(もろもろ)聞しめせ、と宣(の)る。(吉野裕子『蛇』1979.2より)

 この春、奈良東大寺の手向山八幡宮から春日大社へ向かって歩いていると、祝詞が聞こえてきた。ちょうど新幹線のなかで『蛇』にある大祓祝詞を読んでいたのでそれと分かった。行ってみると野外で神官と巫女が小径に縄を張って祀りをしていた。縄の外側には観光客が大勢見ていたのでしばらく見物した。
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何の神事かと神社の人に尋ねると水谷社の例祭だと教えてくれた。後で調べると春日大社の摂社の一つである水谷社の鎮花祭であった。
奈良観光協会ホームページの水谷神社鎮花祭には「この祭りは開花の季節にあたり、疫病流行を鎮める祈りをこめて行なわれるもので、当日は神前に桜花を献じ、神楽が奉納される。」とある。
 広くは御霊会といわれるものである。御霊会・鎮花祭で有名なのは京都の八坂神社の「祇園祭」と紫野今宮神社の「やすらい祭」であろうか。
 「祇園祭」は京都市観光協会の説明では
今からおよそ1100年前の清和天皇の貞観11年(869)に、京洛に疫病が流行し、庶民の間に病人、死人が多数出た。 これは、牛頭天王(ごずてんのう、素盞鳴命ともいわれている。)のたたりであるとして、鎮めるためにお祀りした祇園社(八坂神社の前身で、祭神は素盞鳴命)を信仰し、病魔退散を祈願したという。 その方法は、日本全国の国の数に準じて66本の鉾をつくらせ、それを神泉苑(中京区御池通大宮)におくり、悪疫を封じ込む御霊会をおこなったのがはじまりであると伝えられている。(中略)
 鉾が今のような形になり、豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけて貿易がおこり、町衆階級が勃興して舶来のゴブラン織や西陣織などが競って用いられるようになってからである。

 「やすらい祭」は紫野今宮神社のホームページには
疫病を鎮め平安を願う春のさきがけの祭として知られ、平安の昔より伝えられる花鎮めの祭礼です。「やすらい花」とも称され、桜や椿などで飾られた花傘を中心に、赤毛・黒毛の鬼達をはじめ約20名の行列が、お囃子に合わせて踊り歩き、御幣を奉じて神前へと向かいます。この花傘の下に入ると1年間健康に過ごせると云われています。
  とある。

 五来重氏の『宗教歳時記』1982.4によると、鎮花祭というのは、
 『大宝律令』の『令義解』(神祇令)に、季春(三月)の祭として次のようにあげている。
  季春 鎮花祭(謂く、大神と狭井の二祭なり。春の花飛散するの時、疫神分散して癘を行ふ。其の鎮遏の為め、必ず此の祭有り。故に鎮花と曰ふ。)
 これは大和の三輪山の麓にある、大和一之宮である大神神社と狭井神社の三月の祭であるという。その理由は、桜の花の散るころになると疫癘(流行病)がはやりやすいので、疫神を鎮め遏(ふせ)ぐために、鎮花祭をおこなうのだという。
『令義解』は「鎮花祭」と書いているが、もとは返り点なしに「シツメノハナ」だったかもしれない。これにたいして『令集解』は「釈説」という一説を引いて、

釈に云く、大神・狭井二処の祭なり。大神(大神神社)は、祝部、神祇官の幣帛を請ひ受けて祭る。狭井(大神神社の摂社・狭井神社)は大神の麁御霊(あらみたま)なり。此の祭は、花の散るの時、神も共に散りて、疫を行ふのみ。此の疫を止めんが為に祭るなり。古記別に无し。
  とある。

 鎮花祭で鎮めるのは厄神であって花ではない。また鎮花祭は大神神社と狭井神社にかぎったものでもない。現在の「祇園祭」も「やすらい祭」もその起源とは大分違って来ているようである。

同じく『宗教歳時記』には次のように書かれている。
『梁塵秘抄口伝集』は
「やすらい花」には紫野社へ仮装して集まり、歌をうたい、笛太鼓、鉦鼓ではやし立てたと言っている。
ちかきころ、久寿元年三月のころ、京ちかきもの、男女、紫野社えふうりやう(風流)のあそび(歌舞)をして、歌笛たいこすりがね(鉦)にて、神あそびと名づけてむらがりあつまり、(中略)傘のうへに風流の花さし上、わらはのやうに童子にはんじり(半尻)きせて、むねにかつこ(鞨鼓)をつけ、数十人斗拍子に合せて乱舞のまねをし、悪気と号して鬼のかたちにて首にあかきあかたれをつけ、魚口の貴徳の面をかけて、十二月のおにあらひ(鬼追儺)とも申べきいで立にて、(下略)
 ここに紫野社といったのは、いまの今宮神社のことで、平安時代には船岡の葬場の中にあったために紫野御霊社として祀られた。これは八坂祇園社が鳥辺野(とりべの)葬場の一角にあったために祇園御霊社になったのとおなじ関係であるが、両社とも御霊社を疫神社として摂社にしてしまった。
 このような御霊社では、歌や踊りで疫病をおこすおそれのある御霊や死霊を鎮魂し、これを海や河へ流しに行く御霊会をおこなっていた。これを「神送り」とか「厄神送り」と言って、全国に多くのこっている。祇園御霊会(いまの祇園祭)では、御霊の依代(よりしろ)であるホコ(穂木)を鴨川に流したのであるが、あのようにホコが立派になり美術品の山車に乗せられると、流してしまうのが惜しくなった。しかし『年中行事絵巻』のホコは人々が手に手に持った木の枝だったから、惜しげもなく流したのであろう。これにたいして紫野御霊会すなわち「やすらい花」では、難波の海まで流しに行ったという。いまの大阪天神祭の「ホコ流し」もこれである。
(中略)
久寿元年(一一五四)の『百錬抄』で、はじめて「夜須礼(やすらい)」と呼ばれるようになる。
  四月、近日京中の児女、風流を備へ、鼓笛を調べて紫野社へ参る。世これを夜須礼と号す。  勅有りて禁止す。(原漢文)
 ところで、ここに「風流を備へ」とあるのは、仮装行列よりも風流傘を指したものであろう。これは『梁塵秘抄口伝集』に「風流の花をさし上」とあるのにあたり、これが「やすらい花」の花傘である。いまもこの下にはいれば夏病みせぬなどと言ってはいるが、じつはこの花傘の下に、御霊(疫神)を「安らはせ鎮める」ものであった。

  祇園祭でもヤマ・ホコのもとに厄神を呼び寄せ鎮めるので、厄神が再び町へ出ないように祭りが終わると直ぐにヤマ・ホコは解体して蔵に収めてしまい、祭り以外には表に出さないというが、そのはじめはこの咄(風の神送り)と同様に厄神もろとも川に流していたのである。

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