落語の中の言葉179「役者の俳名」

        六代目三遊亭圓生「淀五郎」より

 この咄には三人の役者が出て来る。澤村淀五郎、市川団蔵、中村仲蔵。咄家によって団蔵は四代目(目黒団蔵)あるいは五代目(渋団蔵)、仲蔵は初代(栄屋)あるいは三代目(舞鶴屋)だったりしている。圓生師匠は四代目市川団蔵、初代中村仲蔵である。咄の中では中村仲蔵を初代とは云っていないが、稲荷町から三座の座頭になったと云っているので、落語「中村仲蔵」の主人公でもある初代である。
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             五代目団蔵と淀五郎
      玉柳亭重春(文政十三年1830)・東洲斎写楽(寛政六年1795)

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             初代中村仲蔵
          勝川春章(安永五年1776) 

 役者は名前のほかに家号と俳名がある。淀五郎の家号は紀伊国屋(俳名不明)、四代目団蔵は三河屋(俳名市紅)、初代仲蔵は栄屋(俳名秀鶴)である。
 俳名は俳句を詠むときの名である。俳諧の宗匠は法体をしていたので俳名を用いたが、俗体の者は使わなかったという。はじめは宗匠の俳名の一字を付けていたが、自由に付けるようになり、ついには俳句など詠まなくても俳名を名乗るようになったようである。

享保の頃までは俳諧好む人は、皆力も有句作も今とは違ひし。其上内藤左京亮[七万石]俳名露沾、俳の一字を露言へ遣すとて、
   色をまぜくだしおくれる花の露
其外へも一字を贈り給はる。近来は万石以上の面々も、歴々とは申ながら点者の名の一字を付給ふ。昔とは違ひたる事なり。(柴村盛方『飛鳥川』文化七年1810)

『新撰狂歌集』に前大上戸朝臣、また宇治茶大臣などのたぐひ、誰人の作ともしらず。酒の歌・茶の歌なれば、さる俳名を名(なづけ)たるにて、其読人の常に用る戯号にもあらず。また池田正式が布留田造(ふるのたづくり)・平郡実柿(へぐりのさねがき)なども、其歌合に作り設し名也。後世の如き、名を作りて用ひたる者なし。みな実名を書り。俳諧師も、宗匠は僧形なれば字音に呼(ヨブ)名をつけ共、俗躰の者は、よの常の名乗を用ること、連歌のごとくなりしが、後世、俗人も宗匠めける名をつくことは、大かた談林風よりこのかたの事也。其後は是を俳名と呼て、別に作り設たり。かくて五七五を排(ナラ)ぶるすべもしらずして、放蕩無頼の者も別号を付て表徳と称するは、何の徳を表するにか。是又、世の風(フリ)の一変なり。表徳は『礼』に、「二十而冠、々而字、々以表レ徳云々」(『西京雑記』、梁孝王の子賈従、入朝して上に謝するに、此を引り)。(喜多村筠庭『嬉遊笑覧』巻之三 文政十三年=天保元年1830自序)

  江戸の役者で俳名をつけた最初は初代市川団十郎であるという。
元禄六癸酉年1693
今年十一月、元祖段十郎京四条江登り、椎が本才麿の門に入て俳諧を学ぶ、俳名才牛とよぶ、是役者の俳名を付るはじめなり、是迄段十郎と云し、此度より団の字に替る、(『江戸芝居年代記』)

  役者と俳名については次のように云われている。
 役者の俳名 江戸時代の歌舞伎役者は、俳句を作る作らないにかかわらず、すべて姓名のほかに俳名を持っていた。上方では、すでに貞享(一六八四~八八)ごろから坂田藤十郎らが俳名を持ち、俳諧を通じて広い交際範囲をもっていたことが知られている(『道頓堀花みち』など)。初代市川團十郎は文才もあり、風雅な心も解した人らしく、実際に俳句を詠んだが、元禄七年(一六九四)京に上ったとき、俳人椎本(しいのもと)才麿の門人となって、「才牛」という俳名をつけてもらったという。やがてこれが習慣となって、役者は俳名を持つものと決まった。ある役者が、その由緒ある名跡を人に譲って、自分は俳名を名のるということもあり、そしてまたそれがひとつの名跡となってつづくという場合も生じた。岩井半四郎の俳名「杜若」、中村七三郎の俳名「少長」、尾上菊五郎の俳名「梅幸」、瀬川菊之丞の俳名「路考」などがそれぞれ舞台名のりになった類である。(服部幸雄『江戸歌舞伎』)

 三升屋二三治『紙屑籠』天保十五年1844に載せるものを挙げる。

   ○立もの俳号
才牛(元祖団十郎)     盛府(市松)      平久(坂東三八)
晩風(広右衛門)      柏筵(二代目)     春水(二代目あやめ)
杉弟(佐十郎)       是少(勘左衞門)    白猿(五代目)
一鳳(元祖あやめ)     瑞馬(津打門三郎)   喜長(喜十郎)
男女川(元祖松本小四郎)  花暁(粂太郎)     和孝(音八)
魚楽(助五郎)       五粒(高助)      柏車(雷蔵)
仙魚(菊次郎)       十町(広治)      高賀(高助)
車漣(坂田藤十郎)     天幸(三甫右衛門)   東山(又太郎)
錦紅(元祖高麗蔵、     雷子(三五郎)     井花(ひな次)
 幸四郎なり)
里舟(万ぎく)       秀鶴(仲蔵)      訥子(宗十郎)
助花(助十郎)       虎丸(竜蔵)      里虹(金作)
虎看(十蔵)        巴十(十四郎)     馬十(とく次)
是業(三津五郎)      義江(幾蔵)      新車(門之助)
巴丈(大吉)        巴江(いろは)     文車(よね三)
錦車(富三郎)       仙女(三代目菊之丞)

 役者が俳名を持ちたがった理由として服部幸雄氏は同書の中で二つの理由を挙げている。

ひとつは、俳諧はその性質がほかの文芸のジャンルに比べて、もっとも歌舞伎に近かったために、せりふを作り、狂言の趣向を理解したりするうえの基礎的教養として有効だったことである。(中略)
 第二の理由は、役者の身分意識の反映である。江戸時代における俳諧は、一般町人階級の教養的娯楽として、広い範囲に広がっていた。商家の旦那も、経済的にゆとりのある者は、俳句を作り、寄り合ってたがいに興ずることができた。月並俳諧に投句することもある。役者たちが俳諧に親しみ、俳名を持つことは、観念における脱制外者化の欲求に応えることになっていた点を認めないわけにはいかない。(以下略)

  「脱制外者化」とあるのは、江戸時代の役者は「河原乞食」と蔑称されたように身分としては一般町民より一段低い地位に置かれていたからである。

 さて、仲蔵の逸話は落語「中村仲蔵」になっているので、四代目団蔵のものを紹介する。
やはり若手抜擢と新しい役柄作りに関するものである。
寛政年間二代目嵐吉三郎〔割註〕俳名李冠家号岡嶋屋、今の嵐吉三郎は李冠の兄嵐猪三郎の子にして李冠の甥也。李冠を俗に大嵐といふ。」若輩の時伊勢古市の芝居にて市川団蔵、〔割註〕俳名市紅家号三河屋、当時団蔵より三代以前にして幼名虎蔵といふ中頃の名人なり。」浅尾為十郎、〔割註〕俳名奥山家号銭屋、今より四代以前敵役の名人なり。」関三十郎、〔割註〕俳名小太家号尾張屋、今より三代以前武道の名人なり。此次の三十郎は其始め嵐宗太郎といひしが中村歌右衛門の弟子となり中村歌助と号す。後に関の養子となり三十郎とあらたむ、小太の三十郎は後にまた三右衛門と改名せり。」並に嵐吉三郎等の座組なり、此時の狂言則ち伊賀越乗掛合羽に極り夫々中通りの役割すみて団蔵政右衛門、三十郎誉田(こんだ)内記、為十郎股五郎と、実(まこと)に役割動かざる所也。然るに団蔵の云く、斯(かゝ)る不座なる時には関三丈の内記は当まへにて面白からず、内記は李冠にさすべしと、頭取も大に困りけるは此時分の李冠は未だ若輩にて、中々前々より名人老功の勤めし役なれば何とて若年の吉三郎いかでか勤るべきと思へども、相手の団蔵よりの指図ゆえ為方(せんかた)なく、吉三郎へ此由を告しかば、是も思ひがけなき事ゆへ大に駭(おどろ)き、前々より老分の勤められし役といひ、殊更座頭の相手に生若き我等実に以て不都合也と、建(たつ)て辞退せしかども、団蔵聞入なき故是非なく役をさまり、銘々稽古にかゝるに、李冠は一(ひと)しほ身を入て稽古せんと、毎日団蔵の宿へ行しかども、唯せりふの言合せのみにて鎗の立廻りのけいこはぜず、夫ゆへ李冠も大に心を痛めけるが、終(つひ)に惣稽古になって舞台へかゝり、段々あって、頓(やが)て鎗の伝授に成て立合になる所にて爰(ここ)はよしト云て、荒々と口立にて済しければ、李冠は一円合点ゆかず、大事の場故夜も寝ずして左(と)や右(かく)と案じ煩ひし、が、其夜団蔵方より使を以て、作りやうは矢張貴公の年齢にて然るべくと言こしけるゆえ、翌初日其詞(そのことば)に随ひ持まへの年齢の作にて若殿の形勢(ありさま)一向若輩也、偖(さて)茶屋場に成て稍(やが)て伝授になり、李冠鎗を構へると団蔵は飛しさり平伏して団「先大殿様には鎗術の秘事は、残らず御伝授申上置ましたれども、若殿様には未だ御伝授申上ず、御免下されト立上り、夫より鎗と扇の立廻り、李冠は是まで稽古もせず、唯口立の事なれば何の差別(しやべつ)もなく突て行を団蔵は是を握り、又扇にてあしらひ、初々しき様なる李冠に立まわりを手を持そへぬばかりの団蔵の仕打小手の利やう、李冠がこれ迄になき役を勤たる若殿のこしらへ、原来(もとより)若年の事なれば其取合両個(ふたり)の立まわり、実に伝授するが如く見へて見物一統に感心して大評判にて古今の当を取たりとぞ、後に団蔵の云く尤奥儀とは言ながら、摺(すり)はがしの大殿に今まで伝授せぬといふは、殿が柔弱か悪くいへば不器量ものゝ様に見ゆる故、岡島屋が若年より不図(ふと)おもひ付たりと。是理屈ばかりに非ず人を選みて舞台の摸様を付たる発明といふべし。 (暁晴翁『雲錦随筆』文久二年1862刊)

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