落語の中の言葉177「猫の蚤取り」
三代目古今亭志ん朝「高田の馬場」より
咄の枕に江戸にあった珍しい商売がいくつか出て来る。猫の蚤取り、耳掃除、爪取り、乞食の親孝行・きれい好き。このうち目にしたものを紹介する。
1、猫の蚤取り
『西鶴織留』(西鶴遺稿を整理したもの 元禄七年1694刊)
江戸にもこの商売をするものがいたようであるが、いつ頃まであったものか、文化の頃には絶えている。
2、耳掃除
山東京伝『骨董集』に
これも京伝の時代にはなくなっていた。この耳掃除のもとと思われることを屋代弘賢が文政八年1821四月の「兎園会」で披露している。
英一蝶の画は見ていないが、『骨董集』に「耳垢取古図」があるのでつぎにあげる。
ちなみに、右側に振袖を着た男児が描かれているので触れておこう。
右の図 鳥居清広「春駒遊び」宝暦期1751-64
「今は振袖着る人も稀なり」とあるのは十三四まで着る人は稀ということで、武士の男児も相応の身分の町人の男児も幕末まで振袖を着ることも珍しくない。『江戸名所図会』巻之一(天保五年1834刊)にある「藪小路」の挿絵と広重の「江戸名所 浅草東御門跡」安政元年1854をあげる。
広重の「江戸名所 浅草東御門跡」は七五三の宮参りで、袴着の男児の後ろには「帯直し(帯解きとも云う)」の女児も描かれている。124七五三で触れたように大人並みの長い着物を着ているため男性の肩に担がれている。
3、きれい好き
4、親孝行
石井良助『第二江戸時代漫筆』の乞胸についての記述のなかに出て来る。
また志ん朝師匠の咄と同様のものもあった。
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咄の枕に江戸にあった珍しい商売がいくつか出て来る。猫の蚤取り、耳掃除、爪取り、乞食の親孝行・きれい好き。このうち目にしたものを紹介する。
1、猫の蚤取り
『西鶴織留』(西鶴遺稿を整理したもの 元禄七年1694刊)
又五十ばかりの男、風呂敷をかたにかけて、「猫の蚤を取ましよ」と声立てまはりける。隠居がたの、手白(てじ)三毛をかはゆがらるゝ人、「取れ」とて頼まれけるに、一疋三文づゝに極め、名誉に取ける。先猫に湯をかけて洗ひ、ぬれ身を其まゝ、狼の皮につゝみてしばし抱きけるうちに、蚤どもぬれたる所をうたてがり、皆おふかみの皮に移りけるを、大道へふるひ捨ける。是程の事にも、そもそも何としてか分別仕出し、身過の種とはなりぬ。曲亭馬琴『燕石雑志』(文化七年1810序)に、昔あって今なきものとしてあげたなかに、
又猫の蚤をとらんと呼びあるきて、妻子(うから)を養ひしものもありけるとぞ。これも遠き事にはあらず。猫の蚤を取らせんといふものあれば、まづその猫に湯をあみせ、濡たるまゝ毛をひかざる獣の皮へ裹(つゝみ)ておくに、猫の蚤悉(ことごと)くその皮へうつるといへり。工夫はさることなれど、かくまでに猫を愛するもの多からねばや。これも長くは行はれず。
江戸にもこの商売をするものがいたようであるが、いつ頃まであったものか、文化の頃には絶えている。
2、耳掃除
山東京伝『骨董集』に
〔江戸鹿子〕〔割註〕貞享四年1687板。」「耳垢取(みゝのあかとり)、神田紺屋町三丁目長官」とあり。おなじ比(ころ)京にもあり。〔京羽二重〕〔割註〕貞享二年板。」「耳垢取、唐人越九兵衛」とあり。〔初音草噺大鑑〕〔割註〕元禄十一年1698板。」巻之五に、「京と江戸ゆきゝすぐなる通町の辻々をみれば、あるひは歯ぬき、耳の療治云々。〔老人養草〕〔割註〕正徳六年1716板。」に云、近来京師の辻々に、耳垢取(みゝのあかとり)とて、紅毛人のかたちに似せて云々。」とあれば、元禄の末正徳の比までもありしなるべし。(引用文中の西暦は引用者が追加、以下も同じ)
五元集拾遺
観音で耳をほらせてほとゝぎす 其 角
此句も耳垢取のことをいへるなるべし。
〔一代男後日〕〔割註〕刻板の年号なし。按に、西鶴が廿五年の追善といふことあれば、享保二年1727の板なるべし。」二之巻に云、「松浦潟平戸といふ所に、わづかなる草の屋(や)をかりて云々。髪を惣(そう)なでつけにして、長崎一官と名をつき、都ではやる耳の療治人の似せをして、京の一官顔(がほ)して云々。」かゝれば当時京に一官といふ耳の垢取ありしならん。
これも京伝の時代にはなくなっていた。この耳掃除のもとと思われることを屋代弘賢が文政八年1821四月の「兎園会」で披露している。
慶長(1596-1614)年中、唐山の漂流船一艘、水戸の浦に着きたり。異国の者かと問ひければ、大明太原県の者なりとて七人乗組なり。このよし威公(水戸家初代頼房)に申し上げ、かくそのものどもに尋ねさせ給ふやう、汝等国に帰りたくおもはゞ送り遣るべし。此国に居りたくば置くべしと仰せ下されければ、御国に居りたきよし願ふ所なりと申すにより、みな江戸に召して、芸能をたづねさせ給ひければ、王春庭三宮といふもの、按摩導引をなすと申す。さらばとて御側勤のものに試みさせ給ふに、妙手なりと申すにより、威公御自ら療をさせ給ふに無比類名人なり。殊に御耳の垢をとり内を掃除する事、これまでなき術なりとて、大におぼしめしにかなひ、日毎に眤近して奉りければ、永く御舘にめしつかはるべし。然るうへは此国の風俗になれとて、月代をそり、衣服を改め、遠藤氏の女をめとりて、遠藤勘兵衛と改めたり。さて男子出生しければ、名を賜はりて造酒之助と称す。是より代々当主は勘兵衛。総領は造酒之助といふ。この造酒之助成長せしかば、何役にても望み候へと仰せ下されしより、いかゞおもひけん。能役者を願ふ。ねがひのごとく仰せかうぶり、高安の弟子になりて脇師になりたり。六世孫迄は嫡流にて有りしが、部屋住にて歿し、男子なかりしかば、其弟を総領にして家をつがせしに、それも男子なかりしかば、従弟を養ひてつがせたり。英一蝶がかける耳の垢とりは、此乗組の内歟(か)。もしは王春庭が弟子にても有りしなるべし。(以下略)(曲亭馬琴編『兎園小説』)
英一蝶の画は見ていないが、『骨董集』に「耳垢取古図」があるのでつぎにあげる。
ちなみに、右側に振袖を着た男児が描かれているので触れておこう。
右の図 鳥居清広「春駒遊び」宝暦期1751-64
町人年礼の服 五郎丸麻上下、兼松方花色鮫小紋、桜ぼうふり抔云染にて、肩の幅やうやう一尺六七寸に限る、袴も甚せばき事也、衣服は絹紬にて、花色黒青茶紋付にて、大方二つ計着事也、間着抔ゆふ物はなし、小児は松坂島桟留青梅島抔に限る、女小児は青茶花色抔に、折鶴梅花松葉ちらしを腰より下に付、振袖にて浅黄裏付たる木綿布子、桃色木綿の袖口、尤はれ着絹あふぎや染めもよふ付振袖、絹紅裏浅黄抔、島は大方郡内島位ひにて、帯は大方しゆすしゆちんなど也、男小児は相応の身分の人の子は振袖也、然共女房は、正月松之内より親類縁者へ、身上相応にかいどりにて出し事也、(『江府風俗志』寛政四年1792 元文寛保延享頃の様子を記す)柴村盛方(表御右筆組頭から御腰物奉行に進む)の『飛鳥川』(文化七年1810)の序に
あらわす所の書は、全体何の役にも立たぬ事どもなり。なれど享保以来、万の事移り変りたる風俗、また古跡やうの所をも取失ひ、埒もなき所も名所の様にいひなし、衣類商ひ物住居向等に至るまで、昔とは替りしゆへ、我おぼへたる事ども、いたづらに書しるし一冊とす。よくよく見給ひて笑ひの元手にもなれかし。寛保(1741-43)の頃までは、男の子も十三四まで、振袖を着し、髪もかき鬢とて、耳のあたりまでかきさげ結びしが、今は振袖着る人も稀なり。
「今は振袖着る人も稀なり」とあるのは十三四まで着る人は稀ということで、武士の男児も相応の身分の町人の男児も幕末まで振袖を着ることも珍しくない。『江戸名所図会』巻之一(天保五年1834刊)にある「藪小路」の挿絵と広重の「江戸名所 浅草東御門跡」安政元年1854をあげる。
広重の「江戸名所 浅草東御門跡」は七五三の宮参りで、袴着の男児の後ろには「帯直し(帯解きとも云う)」の女児も描かれている。124七五三で触れたように大人並みの長い着物を着ているため男性の肩に担がれている。
3、きれい好き
掃除 同三都にあり。竹箒をもつて戸前を掃くといへども、魏勃(ぎぼつ)を倣(なら)ふにあらず。「庄介しよ、掃除をしよ、朝から晩まで掃除をしよ」と呼ばはり、銭を乞ふ。(『守貞謾稿』巻之七)
4、親孝行
石井良助『第二江戸時代漫筆』の乞胸についての記述のなかに出て来る。
乞胸のことー乞食・その一ーここに出て来る親孝行は実際に人を背負って歩いている。その図が『東都歳事記』(天保九年1838)にあるので右に出す。
江戸時代には、士農工商のほかにその下に位する人民が居りました。士農工商に属するものを良民と呼べば、これらは賤民と総称できましようか。両者の身分は大体はっきり区別されていましたが、両者の中間に入る特別の身分に属するものとして、乞胸がありました。
普通の賤民ですと、身分と職業とは一致しており、しかも身分は世襲されたのでした。換言すれば、世襲的身分と職業とが一体をなしており、いずれも賤であると考えられていたのですが、乞胸の場合に限って、その「身分」は世襲的でなく、しかもこれと「家業」とははっきり区別されて、乞胸は、「身分」上は町方に属し(すなわち町人であり)、たた「家業」だけについて乞胸頭仁太夫および仁太夫を通じて、非人頭車善七の支配を受けたのです。そこで、乞胸は家業さえやめれば、直ちに仁太夫との関係はなくなって、ただの町人となるのでした。乞胸頭の仁太夫についても同じで、もしかれが家業をやめれば、車善七との関係は全然なくなったのです。
(中略)
後世になっても、乞胸の家業が世の人気を集めるように仁太夫はいろいろ工夫をこらしています。たとえば、天明年間に佐野善左衛門が殿中で田沼意知を斬ったとき、仁太夫は七曜(田沼の紋)の印のある酒菰と丸に二引(佐野の紋)の印のある酒菰とを二人に着せて、佐野が田沼を追いかけるまねをさせ、またヒョットコの面をかぶった者が老婆の面をかぶった者を背負って、親孝行と称して貰い歩かせたごときことですが、そのほか歳末に「サッサ節季候、毎年毎とし且那のお蔵へ金銀お宝飛び込め舞ひ込め」と、人の門戸につきうたった節季候とか、毎年末各家で処分にこまる諸神諸仏の古札を集め(これを納め札といい、各家よりは集札人に四文ずつ与える)る古札納めとか、「石見銀山鼠取、悪戯者はいないか」と売り歩いた鼠取りや阿房陀羅経読等も乞胸の家業であり、また火事があると詳細にこの出来事を記載した明細図を作って瓦版に起こして、翌日江戸各地に行商せしめた火事番附とか、四文の料金で富の当り籤を報道するお話し四文とか、同じく瓦版の神田明神や麹町山王神社の祭礼の祭り番附、改元の報告等は仁太夫の企画したところでした。
また志ん朝師匠の咄と同様のものもあった。
親孝行の扮 天保末、江戸にて一夫、張りぬきの男人形を胸につり、衣服二つを上下に着し、手足も張りぬきを用ひ、孝子父を負ふに扮す。(『守貞謾稿』巻之七)
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