落語の中の言葉・番外「石榴風呂」追補

 166「湯屋・下」で石榴風呂について山東京伝『骨董集』の記載を紹介した。『醒睡笑』にある
「いづれもおなじことなるを、つねにたくをば風呂といひ、たてあけの戸なきを石榴風呂とはなんぞいふや、かゞみいるとのこゝろなり」
である。
その時はこの語源説そのものについては触れなかった。かなり広く知られているからである。
 『醒睡笑』は策伝が「小僧の時より、耳にふれておもしろくをかしかりつる事を、反故の端にとめ置きた」ものをまとめたもので、自筆本は失われ江戸時代末期の写本が数種類残るだけである。これら「諸本を総合して本文を校定」したという岩波文庫の『醒睡笑』では巻之一に「謂へば謂はるる物の由来」のもとに四二の話が集められており、その中の一つが石榴風呂のこの文章である。「謂へば謂はるる」とは、よくもまあこうもこじつけたものだという意味で、それを笑いの種にしているのである。「石榴風呂」の他には

 ○そら言をいう者を「うそつき」というのはなぜか。うそ(鷽)という鳥は木
   のそら(末)にとまって琴をひくから(註:鷽の別称を琴弾きという)
 ○子どもを「風の子」というのはなぜか。ふうふの間の子だから
 ○むさきことを「きたない」とはなぜか。五行説では北は水である。水が
   なければ万物きよからず。それで水ないといふ意味で、きたないという
などがある。

 「ちんば」については原文を引こう。
河内の国に珍というあり。大和に場といふあり。二人ながら兵法の上手なりしが、ある時試合せし。双方片足を落し落され、すでに死にのぞむ時、金瘡の上手とて来る。あまりあわてふためき、そのぬしぬしの足をば取違へ、我がを人に、人のを我がに、つぎたかへり。さるまま、一人は足長くなりたり、一人は足みじかくなり、腰をひきしより、今もかかるあるきの人を、ちんばとはいふよし。

  石榴風呂も含めてこれらの話は、落語「やかん」や「浮世根問」「つる」にある話と同類である。多くがばかばかしい駄洒落やこじつけであるが、そのなかで、石榴風呂はなかなか面白い洒落である。面白いが故に、この部分だけが引用されることも多く、いい洒落だと思う人がいる一方、なかには「なるほど」と思う人も出て来る。ついには有力な語源説となったようである。 江戸の人はこういう洒落が好きだったらしい。46「足袋屋の看板(続)」で紹介したように、看板類にも多い。焼き芋の十三里、餅屋の木馬、風呂屋の弓矢などなど。また前回の豆腐の紅葉もそうである。

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