落語の中の言葉172「行燈・下」
前回に続き行燈について。
江戸時代の灯し油は植物性の菜種油や綿実油と動物性の魚油(江戸では鰯からとったあぶら)が使われた。魚油は植物性の油と比べ価格は安いが油煙が多く臭いも強かったと云われるが、詳しいことはわからない。
一、一夜に使う灯し油の量について
落語「長兵衛」のなかで、お駒が丈八と逃げるとき書き残して行く文に「明ければ米の一升買い、暮れれば油の一合買い」とあり、これは毎日その日の分だけを買う生活という意味なのか気になっていた。米は夫婦で一日一升は少し多いようにも思うが、油は全くわからないのでそれとなく気に掛けていた。わずかであるが目にしたものをあげる。
慶応元年御進発御供の面々へ京都滞在中の賄い方経費についての達しには次のようにある。
三田村鳶魚『江戸の生活と風俗』には、
有明は夜明けまで点けておくもの。半夜が九つ(午前零時)までのものとすれば有明の半分で三勺でいいはずである。考えられるのは、寝るのを九つの一刻(とき)前の四つとすると、暮れ六つから二刻、有明は六刻であるからその三分の一で二勺。有明が灯心一本なのに対して起きている半夜は二本灯心とすれば四勺になる。
三田村鳶魚氏は同書のなかで次のように述べている。
油の使用量は季節によって又起きている時間によっても違うが、一合は二本灯心でも二日以上持ちそうである。油は米と違い量るのに時間が掛かるから、一合より少ない量は売らなかったのであろうかとも思ったが、違っていた。『絵本江戸風俗往来』には五勺でも売ったとある。
ところで鳶魚氏は享保十五年の値段を使っているが、其頃は物価も相当安かった。
同じく灯し油の値段を書いたものを拾い出すと
○『江戸真砂六十帖』巻之五
正徳五年1715、米高直にて、両に四斗より三斗七八升也、水油は一升に付八百六十四文也、
○小川顕道『塵塚談』文化十一年七十八歳
享保、元文年間、諸色の価の事、祖父笙船君隠宅小遣帳に、近年の物価と相違せしを抄出す、
享保十五年1730 十一月二日 一、百文 ともし油五合(一合20文)
同 十一月廿一日 一、四百四拾八文 新諸白弐升
(一合22.4文)
同 十二月廿八日 一、四百四拾文 上酒五升、
丹沢方へ歳暮(一合8.8文)
○『明和誌』
翌未年(天明七年1787)四月五日の頃より、米価百俵二百両余、とぼし油一升二朱ぐらひす。夫にても売買なし。 (天明七年の銭相場4,680~6,070 二朱は585~759)
○『江戸町触集成』第九巻
寛政五年1793
覚
一水油 壱升ニ付代三百四拾文、壱合ニ付代三十四文
右之通小売致候様御支配商人江早々可被仰付候、尤直書張札差出置候様是又可被仰付候
一諸色商内直段書此節一向不差出分相見え候間、先達而御達申候通、銘々商物附札直段書認、 早々張出候様御支配町々江可被仰付
正月十九日
右は諸色掛りゟ通有之
○『異聞雑稿』
癸巳(天保四年1833)の夏、江戸にて燈油の価甚昂がり、(一合を四十四文、四十六文に売る也)且、やゝもすれば、問屋に油尽たりとて、小売のものへ一二升より外は売らず、と聞えたり、云々
正徳五年、天明七年は飢饉の年で米をはじめ穀物はすべて騰貴しているから、寛政五年の価格一合34文あたりが平常時の価格であろうか。
ちなみに酒と燈油の価格を比べると油は酒より高い。
○越後屋呉服店の『小遣目録』(小野武雄編『江戸物価事典』)
酒一石 (一升) 燈油一升 (単位:銀匁)
正徳三年 221.0(2.21) 8.8
享保十五年 82.0(0.82) 2.4
天明七年 220.0(2.20) 4.5
寛政五年 154.7(1.547) 3.0
二、行燈の火で煙草を点ける
錦絵では行燈の火から直接煙草を点けているものがある。
ところが洒落本では行燈の火を紙に移して煙草に火をつけている。
(染の井〔白我の相方〕はあんどうの火。みすかみへ付て。たばこをすい付てはくかへだす。)云々(振鷺亭『自惚鏡』天明九年1789刊 吉原での遊び)
(火入レを見て火がないゆへ手をたゝきそふにして)面倒だと(みす紙をちりちりとあんどうの火をつけてたばこをつける云々)(小金あつ丸『佳妓窺(かきのぞき)』享和三年?1803 深川での遊び)
山東京伝や式亭三馬はもう少し詳しく書いている。
〔黒衣〕ヲヤ重てへきせるだのウ(トあんどうは魚油をとぼすゆへ、紙に付てすいつける云々)(山東京伝『傾城買四十八手』寛政二年1790刊 吉原の小見世での遊び)
(其内おとまはきせるを出し、藤兵衛が煙草をついで、あんどうは魚油ゆへ紙へちりちりともやして出す云々)(式亭三馬『辰巳婦言』寛政十年1798自序 深川での遊び)
意外なことに吉原では行燈に魚油を使っていたようである。
『吉原徒然草』(宝永四年1676より後)にも
三田村鳶魚『江戸の生活と風俗』には次のように書かれている。
そのあとに『吉原徒然草』を引き、さらに
『吉原徒然草』にある「さん茶の見世」について少し説明する。新吉原へ移転の時市中にあった湯女風呂が廃止されたものの、料理茶屋と称して内証で売女屋をしていたものが、寛文年間吉原からの訴えで取り潰された。その時売女屋七十余人が遊女五百人余を連れて吉原へ入った。その際作られたのが堺町と伏見町である。かれらは風呂屋くずれであったところから風呂屋風の家作りをした(『異本洞房語園』)。同書には「今の散茶これなり」とある。
行燈に魚油を使っていたのは、大見世、小見世など見世によって違っていたのか、同じ見世でも酒宴をする部屋と遊女が客を迎える部屋では違いがあったのか、また時代によって変わっていたのかなど詳しいことは不明である。魚油を使っている行燈だけ紙に移して煙草を点けたのであろうか。それとも錦絵が「うそ」なのであろうか。
魚油は臭いも強く油煙も多いというが、菜種油も臭いは分からないが油煙は相当出ると思われる。というのも墨は煤(すす)を膠(にかわ)で練って作るが、その煤は燈台や行燈と同じく菜種油に灯心を灯し、上に信楽焼の蓋を置いてその内側に付いたものを集めて使う。あかりの為ではなく、煤を採るために燃やしているのである。菜種油のほか、胡麻油、椿油、松を使った煤で作る墨もある。
ついでながら、針や簪を使って火を掻き立てたときなど、針や簪を行燈の紙につきさして油をぬぐっている。行燈の紙は穴だらけだったようである。
(はしのかはりにした。松ばのかんざしを。あんどうへ。つつさして。ふいてさす)云々(山東京伝『総籬』天明七年1787自序)
程なく日もくれぬれば御袋ははりの穴だらけな行燈を出し油をつぎてかたはらによりて苧をうみかけると云々(甘露庵『替理善運(かはりせん)』天明八年1788刊)
〔新造〕いやだね つれへヨなんだかよん(読)でお見せなんしへ 〔客〕そんならあんどうをかきたてや(しんぞうはかんざしてかきたてあんどうのかみにつつさしてふき)〔新造〕サア早くおよみなんしな云々(山東鶏告・山東唐洲『夜半の茶漬』天明八年?)
行灯というやつは、薄暗くって、人の顔さえよくわからなかった。そのそばで裁縫している女が、針を行燈に刺す。古い角行燈に残った針の穴を眺めて、亡妻を偲ぶ、という悲しい場面を書いた小説さえありました。(三田村鳶魚『江戸の生活と風俗』)
行燈(あんどう)に去た女房の針の跡 万句合寛延三1750・松の雨(『江戸川柳を楽しむ』)
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江戸時代の灯し油は植物性の菜種油や綿実油と動物性の魚油(江戸では鰯からとったあぶら)が使われた。魚油は植物性の油と比べ価格は安いが油煙が多く臭いも強かったと云われるが、詳しいことはわからない。
一、一夜に使う灯し油の量について
落語「長兵衛」のなかで、お駒が丈八と逃げるとき書き残して行く文に「明ければ米の一升買い、暮れれば油の一合買い」とあり、これは毎日その日の分だけを買う生活という意味なのか気になっていた。米は夫婦で一日一升は少し多いようにも思うが、油は全くわからないのでそれとなく気に掛けていた。わずかであるが目にしたものをあげる。
ことし(天保四年)二月の初より三月の半まで、なたねの油至て払底にて、某が宅にて夜の油に相用候油は、本町三丁目なる山崎屋又兵衛と申ものより五升宛求しが、油減たりしにて辞してはじめは弐升売しが、終には纔二合三合ならでは売不申、如斯ならんには三月の末に至りなば、御府内忽に闇夜となるべしと存ぜしに、三月十五六日の頃より追々常に復しぬ。是は奸商共より集りて油を擁せしによりしと承る。
是に付、物語あり。油払底に付、御勘定所諸色懸りの面々、町奉行の衆中と評議の上、油払底に付、当分壱合に付四文宛価を貴することを許したりとぞ。壱合に付四文は少なれ共、凡壱人に付夜に弐勺五才程の油は用ゆべし。然らば人壱人に付、日々壱文の利を失へるにやあらん。御府内其外にて、問屋共の手によりて油を求るもの、人別武家町家を合、五百万人もあらんには、奸商日々に五千貫文の利を貪りぬ。故なくして御府内のもの日々に七百両余の金を奸商のために失ひて、凡積四十日の内弐万八千両余の利を奸商得に至りぬ。経済に預るものかゝることにては心得あかぬべき事也。(川路聖謨『遊芸園随筆』)
慶応元年御進発御供の面々へ京都滞在中の賄い方経費についての達しには次のようにある。
但シ、今般御上洛御供之面々賄方之儀、宿主幷受負人御代官、焚出之分とも、当地町奉行所ニおゐて御払被レ成候間、其旨、尤炭ハ一日目方百六十目、油は壱ケ処三勺三才之積り、是迄買上相用候者は、右当りヲ以代料御下渡し相成候間、巨細取調、町奉行所へ可レ被二申立一候、(『在京在阪中日記』)
三田村鳶魚『江戸の生活と風俗』には、
ところで、水油や魚油がどのくらい江戸で使われたかと言いますと、享保の半ば過ぎまで、江戸の町家の数は、十三万戸と積られております。それに対して、五十二万石の油が必要だったと言いますから、一戸当り四勺ということになる。享保十五年十一月の油の代価は、百文に燈油五合の勘定ですから、四勺は八文の割になります。当時の日雇の賃銭は百五十文ないし二百文で、それから燈油の八文というものを計算してみますと、油の負担がどんな具合かということがわかるわけです。(中略)
一戸当り四勺という勘定は、どこから出るかと言いますと、大奥女中の分限帳に、油渡方という項目があります。
各一点の月額 有明一升八合 一夜六勺
半夜一升二合 同 四勺
半夜半分六合 同 二勺
有明は夜明けまで点けておくもの。半夜が九つ(午前零時)までのものとすれば有明の半分で三勺でいいはずである。考えられるのは、寝るのを九つの一刻(とき)前の四つとすると、暮れ六つから二刻、有明は六刻であるからその三分の一で二勺。有明が灯心一本なのに対して起きている半夜は二本灯心とすれば四勺になる。
三田村鳶魚氏は同書のなかで次のように述べている。
二本燈心などという普通の行燈では、燈蓋皿の中に朱を塗って使うと明るい、ということでしたが、真鍮の燈蓋皿をよく磨くと明るい、とも申しました。しかし、そのくらいのことでは薄暗くって仕方がない。行燈の紙が古くなると、赤みがついて暗くなる、真白な紙でなければいけないというので、行燈の貼替えと言って、始終貼り替えるようにしておりました。云々
油の使用量は季節によって又起きている時間によっても違うが、一合は二本灯心でも二日以上持ちそうである。油は米と違い量るのに時間が掛かるから、一合より少ない量は売らなかったのであろうかとも思ったが、違っていた。『絵本江戸風俗往来』には五勺でも売ったとある。
「ヘエ油、ヘエあぶらア」と呼ぶ声の聞こゆるや否、裏家住居(すまい)の独住(ひとりずみ)、留守をあずかるやからは、油さしを取り出し、一合買うあり、五勺もとむるありて、日暮れの繁忙おびただしきは、市中所々の横町・新道の裏屋にて油を買うこと、いずれも同じ。してみると、一日必要な量を毎日買ったと云っている訳ではなく、少量ずつ買ったことを語呂よく米の一升買い、油の一合買いと云っているようである。
ところで鳶魚氏は享保十五年の値段を使っているが、其頃は物価も相当安かった。
同じく灯し油の値段を書いたものを拾い出すと
○『江戸真砂六十帖』巻之五
正徳五年1715、米高直にて、両に四斗より三斗七八升也、水油は一升に付八百六十四文也、
○小川顕道『塵塚談』文化十一年七十八歳
享保、元文年間、諸色の価の事、祖父笙船君隠宅小遣帳に、近年の物価と相違せしを抄出す、
享保十五年1730 十一月二日 一、百文 ともし油五合(一合20文)
同 十一月廿一日 一、四百四拾八文 新諸白弐升
(一合22.4文)
同 十二月廿八日 一、四百四拾文 上酒五升、
丹沢方へ歳暮(一合8.8文)
○『明和誌』
翌未年(天明七年1787)四月五日の頃より、米価百俵二百両余、とぼし油一升二朱ぐらひす。夫にても売買なし。 (天明七年の銭相場4,680~6,070 二朱は585~759)
○『江戸町触集成』第九巻
寛政五年1793
覚
一水油 壱升ニ付代三百四拾文、壱合ニ付代三十四文
右之通小売致候様御支配商人江早々可被仰付候、尤直書張札差出置候様是又可被仰付候
一諸色商内直段書此節一向不差出分相見え候間、先達而御達申候通、銘々商物附札直段書認、 早々張出候様御支配町々江可被仰付
正月十九日
右は諸色掛りゟ通有之
○『異聞雑稿』
癸巳(天保四年1833)の夏、江戸にて燈油の価甚昂がり、(一合を四十四文、四十六文に売る也)且、やゝもすれば、問屋に油尽たりとて、小売のものへ一二升より外は売らず、と聞えたり、云々
正徳五年、天明七年は飢饉の年で米をはじめ穀物はすべて騰貴しているから、寛政五年の価格一合34文あたりが平常時の価格であろうか。
ちなみに酒と燈油の価格を比べると油は酒より高い。
○越後屋呉服店の『小遣目録』(小野武雄編『江戸物価事典』)
酒一石 (一升) 燈油一升 (単位:銀匁)
正徳三年 221.0(2.21) 8.8
享保十五年 82.0(0.82) 2.4
天明七年 220.0(2.20) 4.5
寛政五年 154.7(1.547) 3.0
二、行燈の火で煙草を点ける
錦絵では行燈の火から直接煙草を点けているものがある。
ところが洒落本では行燈の火を紙に移して煙草に火をつけている。
(染の井〔白我の相方〕はあんどうの火。みすかみへ付て。たばこをすい付てはくかへだす。)云々(振鷺亭『自惚鏡』天明九年1789刊 吉原での遊び)
(火入レを見て火がないゆへ手をたゝきそふにして)面倒だと(みす紙をちりちりとあんどうの火をつけてたばこをつける云々)(小金あつ丸『佳妓窺(かきのぞき)』享和三年?1803 深川での遊び)
山東京伝や式亭三馬はもう少し詳しく書いている。
〔黒衣〕ヲヤ重てへきせるだのウ(トあんどうは魚油をとぼすゆへ、紙に付てすいつける云々)(山東京伝『傾城買四十八手』寛政二年1790刊 吉原の小見世での遊び)
(其内おとまはきせるを出し、藤兵衛が煙草をついで、あんどうは魚油ゆへ紙へちりちりともやして出す云々)(式亭三馬『辰巳婦言』寛政十年1798自序 深川での遊び)
意外なことに吉原では行燈に魚油を使っていたようである。
『吉原徒然草』(宝永四年1676より後)にも
廿二段 盃の底をすつる事は
「さん茶の見世、くすぼる事は、如何心得たる」と、或人の尋させ給ひしに、「凝油をとぼし侍るゆへ、くすぼりて、あしき匂ひの候らん」と申侍りしかば、「凝油にてはなし。魚油也。いわしをしぼりて、其油をとぼしける故」とぞ仰られし。
三田村鳶魚『江戸の生活と風俗』には次のように書かれている。
その他に魚油の有様を著しく見せましたものは、ずっと早いところで、例の其角の句に、「闇の夜も吉原ばかり月夜かな」とある通り、吉原で使ったやつで、これが最も派手に分量も多かったように見える。(中略)
新吉原の夜景は、上方の人が見ると仰天するほど明るく見えたので、其角もいささか江戸自慢のような心持があって、この句を作ったらしいが、その明りはと言えば、あの悪臭い、油煙の多い魚燈だったのであります。
そのあとに『吉原徒然草』を引き、さらに
華美を事とする遊廓でも、臭いの強い、油煙の多い魚油を無遠慮に使う。その他の油に比べれば、卑しまれていた魚油ではありますが、それが一方では、江戸名物のように言われている吉原の夜を明るくしたのです。江戸ばかりではありません、四条河原の涼みが京都の夜を明るくしたのも、やはり魚油のためであることを考えますと、江戸といい、京都といい、魚油の勢力は、まことに侮るべからざるものがありました。
『吉原徒然草』にある「さん茶の見世」について少し説明する。新吉原へ移転の時市中にあった湯女風呂が廃止されたものの、料理茶屋と称して内証で売女屋をしていたものが、寛文年間吉原からの訴えで取り潰された。その時売女屋七十余人が遊女五百人余を連れて吉原へ入った。その際作られたのが堺町と伏見町である。かれらは風呂屋くずれであったところから風呂屋風の家作りをした(『異本洞房語園』)。同書には「今の散茶これなり」とある。
行燈に魚油を使っていたのは、大見世、小見世など見世によって違っていたのか、同じ見世でも酒宴をする部屋と遊女が客を迎える部屋では違いがあったのか、また時代によって変わっていたのかなど詳しいことは不明である。魚油を使っている行燈だけ紙に移して煙草を点けたのであろうか。それとも錦絵が「うそ」なのであろうか。
魚油は臭いも強く油煙も多いというが、菜種油も臭いは分からないが油煙は相当出ると思われる。というのも墨は煤(すす)を膠(にかわ)で練って作るが、その煤は燈台や行燈と同じく菜種油に灯心を灯し、上に信楽焼の蓋を置いてその内側に付いたものを集めて使う。あかりの為ではなく、煤を採るために燃やしているのである。菜種油のほか、胡麻油、椿油、松を使った煤で作る墨もある。
ついでながら、針や簪を使って火を掻き立てたときなど、針や簪を行燈の紙につきさして油をぬぐっている。行燈の紙は穴だらけだったようである。
(はしのかはりにした。松ばのかんざしを。あんどうへ。つつさして。ふいてさす)云々(山東京伝『総籬』天明七年1787自序)
程なく日もくれぬれば御袋ははりの穴だらけな行燈を出し油をつぎてかたはらによりて苧をうみかけると云々(甘露庵『替理善運(かはりせん)』天明八年1788刊)
〔新造〕いやだね つれへヨなんだかよん(読)でお見せなんしへ 〔客〕そんならあんどうをかきたてや(しんぞうはかんざしてかきたてあんどうのかみにつつさしてふき)〔新造〕サア早くおよみなんしな云々(山東鶏告・山東唐洲『夜半の茶漬』天明八年?)
行灯というやつは、薄暗くって、人の顔さえよくわからなかった。そのそばで裁縫している女が、針を行燈に刺す。古い角行燈に残った針の穴を眺めて、亡妻を偲ぶ、という悲しい場面を書いた小説さえありました。(三田村鳶魚『江戸の生活と風俗』)
行燈(あんどう)に去た女房の針の跡 万句合寛延三1750・松の雨(『江戸川柳を楽しむ』)
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