落語の中の言葉170「歌舞伎・下」
次ぎに歌舞伎小屋の客席について『劇場新話』から少し紹介する。
参考のため図を二つあげる。文化4、5年頃1807-08の堺町中村座復元模型の図面(江戸東京博物館)と猿若町時代の中村座を画いた安政五年1858の浮世絵である。時代は違うが桟敷等の様子は概ね同様と思われる。
『劇場新話』は刊年未詳であるが、文中に切落が少し計りあるとあるので文化中期以前であろう。
桟敷については八間、六間と「間」という文字を使い、土間には八側、十三目のように「間」という文字を使っていない。桟敷は一間(けん)(六尺)四方だったようである。
一方土間は枡に仕切られているが、これは江戸の後期からという。
後藤慶二『日本劇場史』(大正十四年刊)によると
また枡の広さは変化している。
この構造は江戸のもので上方は違うという。また六人詰め五人詰めで見物とあるが、大入りだともっと多くを詰め込んだらしい。式亭三馬『客者評判記』(文化八年1811刊)の「上上 行過者」の書ぬきに
ところで内格子の舞台よりの所は舞台を横から見ることになる。「此内二間は幕の内也」とあるのは、幕をしめると幕の内側になるということである。舞台と客席を厳格に別けるようになったのは明治以後、西洋の劇場に倣ってからのことであり、江戸の芝居小屋は役者も客も同じ一つの天を頂いていた。
大入りでなくとも舞台上に観客席は設けられていた。羅漢台・吉野・通天等。
羅漢台の上には春は桜、秋には紅葉などが飾られたりしたので、桜や紅葉の間から見た。そこで吉野山や通天橋にちなんで吉野・通天などと呼ばれたという。
歌川豊国「芝居大繁昌之図」文化十四年1817の部分
羅漢台の前に芝居小屋の者が一人小さな畳のようなものに座っている。これが「蛙茶番」で半さんが失敗を演じる「舞台番」のようである。そして敷いているのが半畳らしい。桟敷は床が張ってあり毛氈が敷かれているが、平土間は文字通り土間のままであるから半畳が必要である。「半畳を入れる」あるいは「半畳をうつ」といって、半畳を舞台に投げうって不満を表したというが、具体的なやり方はわからない。現在大相撲で番狂わせなどがあると座布団を投げる。座布団であるから投げ込んでも怪我はないであろうが、半畳がどんなものかわからないが投げ込んでは危険であろう。寛保元年1741に市川海老蔵栢筵が大坂公演で半畳を入れられたという話がある。その六年前の享保二十年1735に、二代目団十郎三舛は悴舛五郎に団十郎を譲り、海老蔵栢筵と改名している。
羅漢台は土間の客と対面する形であり、本舞台の役者を後ろから見ることになる。もちろん幕が閉まれば幕の内側になる。その対極にあるのが「つんぼ桟敷」である。舞台から最も遠い二階席で、後ろは太鼓櫓である。三馬の『客者評判記』では、つんぼ桟敷の客を「大上上吉」の位付けで立役惣巻軸にしている。その理由を次のように述べている。
ところで芝居小屋には下足場も下足番もないので、履物は持って入った。
式亭三馬『客者評判記』の「上上 行過者」の書ぬきにも次のようにある。
前にあげた羅漢台の絵にも履物が描かれている。
最後に芝居茶屋について少し触れておこう。
芝居茶屋の客扱いは至れり尽くせりだったようである。「歌舞伎・上」に引用した金森敦子『きよのさんと歩く大江戸道中記』には
とあった。
今泉みね『名ごりの夢』はさらに詳しい。(今泉みねは桂川甫周(国興)御奥医師(外科)の二女 昭和十年八十歳の時の口述)
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参考のため図を二つあげる。文化4、5年頃1807-08の堺町中村座復元模型の図面(江戸東京博物館)と猿若町時代の中村座を画いた安政五年1858の浮世絵である。時代は違うが桟敷等の様子は概ね同様と思われる。
『劇場新話』は刊年未詳であるが、文中に切落が少し計りあるとあるので文化中期以前であろう。
桟敷名目大概の事
東西上桟敷、舞台の方より八間を内格子といふ、此内二間は幕の内也、茶やの買直段、一は二十五匁、二は三十、三より八迄三十五匁也、九より六間の間を太夫といふ(入間ともいへり)、其次、平といふ、六間あり、太夫の四迄三十五匁、太夫の五より平の一迄三十目、平の二より六まで廿五匁也、下桟敷、舞台の方より八間を内(ウチ)翠(ミ)簾(ス)といふ、直段上桟敷と同じ、但幕の内、一は二十匁、二は二十五匁といへり、九より六間の間を外翠簾といふ、一より四迄三十五匁、五六は三十匁、其次を新格子といふ、東は六迄あり、二十五匁也、此内、揚幕の側をハタといふ、直段は同じ、入りのあるなしにて、直段高下あるべきにや、尤、桟敷番といふものありて、是を割渡す、此桟敷番は、太夫元の名代、表向の役、衣装改、其外公辺の事にも拘る役也、本土間、前土間、直段二十五匁也、所に寄て高下あり、市村座にては、近来、本土間に手摺を付、毛氈をかけ、三十匁に売也、東の方、本土間より花道の際迄、八側あり、舞台際より中の間の方へ十三あり、十三目の土間を切土間といふ、切落、今は土間の七八の末にて、十一より十三迄の内、少し計りの所也、昔は、舞台際より中の間の歩行の際迄、惣じて切落也、土間番といふもの、是を割渡す、(以下略)
桟敷については八間、六間と「間」という文字を使い、土間には八側、十三目のように「間」という文字を使っていない。桟敷は一間(けん)(六尺)四方だったようである。
近来武家の女どももこの風儀うつりて、寝起きから芝居咄しの長局といへる如く、芝居の噂の離るる事なく、衣類または笄(こうがい)・簪(かんざし)・手道具等にも己が執心する所の紋を付け、主人か夫の如く思ひ込み、密かに送り物などいたし、また妻女たるものも、時の御役人方御名前も我が家累代の訳も弁(わきま)へざるも、歌舞伎役者の事は住所、家名、誰が子にて齢歳までよく覚えたるなり。また男も遊女・芸者等に戯れ、放逸なる族(やから)は勿論の事、女色を好むものはとかく芝居を好み、我が寵愛する女どもを連れて見物に参り、酒肴・菓子・餅などの旨(うま)きものを給(た)べ合ひ、わづか六尺四方の桟敷の内に男女五、六人込み合ひて互ひに心を蕩かし、米五俵十俵二十俵の価に及ぶほどの奢りを、一日の間に六尺四方の内にて費すなり。昔の銭ならば百銅か二百銅くらゐ、米ならば二升三升ほども持ち行きて見物せしといふ。今は人に後ろ指をささるる程に倹約いたし、見ぐるしき事いたしても、桟敷にて見物するには金一両二歩より安くは出来ざるなり。米三俵余に当るなり。(『世事見聞録』文化十三年1816)
一方土間は枡に仕切られているが、これは江戸の後期からという。
後藤慶二『日本劇場史』(大正十四年刊)によると
明和三年1766七月、中村座にて切落の花道には反対せる側へあらかじめ見物の望みに任せて縄を張りて隣席との区域を別ち、之を「縄張」と称せしを、同九年二月の新築より縄に代ふるに木材を以てし、方四尺五寸を一枡とし、その定員を七人として之を「仕切枡」といひ、始めは僅に花道と反対の側三列だけを此の装置とせるを、見物に便なりとの評ありし故更に翌春より総体の半分を仕切枡とせり。
また枡の広さは変化している。
土間 高土間に対して「平土間」ともいふ、略して「平」ともいひ、通り詞にて「穴」ともいへり。(中略)本舞台正面下通り広きところなり。これに縦横に木材を渡して、区画を設け「限(マセ)」と称せり。この区画の中を「仕切枡」といひ、明和九年始めて之を設けしときは、方四尺五寸定員七人なりき。其の後天明四年には五尺に四尺八寸となりしが、文化六年には四尺五寸に四尺となり天保移転後は四尺五寸に四尺三寸となれり。また安政三年には四尺五寸に四尺と減ぜり。されば規定は七人詰なりしも窮屈なる故、実際は六人或は五人詰にて見物せしものなり。その構造は舞台に直角なる仕切は敷居木を用ゐ、之に直角に方二寸五分程の角材を渡し、之は取りはづし自由に造りて、二枡買切の見物あるときは之を除きて二席を連絡せしむ。されば縦の仕切には隔板あれど横にはあることなし。
この構造は江戸のもので上方は違うという。また六人詰め五人詰めで見物とあるが、大入りだともっと多くを詰め込んだらしい。式亭三馬『客者評判記』(文化八年1811刊)の「上上 行過者」の書ぬきに
(隣に座したる人にむかひ)けふはよく這入(へゑり)やしたネ、土間が拾(じふ)とまりだ、今の内楽をしておきなせへ昼過からはやみトいれやすゼ、全体(ぜんてへ)土間も六人とゞで見るといゝけれど、これへ九人の十人のと入れられちやアたまらねへ、重箱へ鮨(すし)を詰(つめ)るやうだ、しかしががんと透居(すいて)るも気のねへやつさ、弥上(やがうへ)におつぺされるので張合(はりゑへ)がありやす、役者もおめへ夫(それ)だけに実(み)を入やすはさ、註:とゞ=すわること
ところで内格子の舞台よりの所は舞台を横から見ることになる。「此内二間は幕の内也」とあるのは、幕をしめると幕の内側になるということである。舞台と客席を厳格に別けるようになったのは明治以後、西洋の劇場に倣ってからのことであり、江戸の芝居小屋は役者も客も同じ一つの天を頂いていた。
江戸時代の芝居小屋では、舞台と観客席との厳密な区別がなかった。幕は引かれていてもそれは芝居の時間的経過や場所の移動を区切りとして示すときの便宜に用いられるのであって、舞台と客席を幕によって区画する意図はまるでなかった。
だから、大入り満員になれば、観客をどんどんと舞台の上に上げて座らせた。それはごく普通のことで、別段奇異なことではなかった。このために準備しておいた大道具が飾れなかったり、ごく狭い空間を使って所作事を演じるといったことも起こった。
「野も山もなごやのうわさ。山三の評判で。それはそれはにぎやかな事でござる。それゆへか大しばゐに入(いり)があまりて。ぶたいの上に。見物山のごとく。のぼりかゝつて見ると申」(元禄十二年刊『役者口三味線』京・中村七三郎の評)とあるのは、決して誇張ではない。川柳の「大当り一坪ほどで所作をする」(十32)「大当り死骸をやっと片づける」(傍四3)などの句には実感がある。また、「見物と役者と並ぶ大当り」(九41)の句は、江戸歌舞伎の構造を巧まずしてみごとに表現した一句だと思う。
舞台の上にどんどんと客が上がって来て、道具も飾れず、思うように踊りもできない。そんな状態になったとき、役者は腹を立てただろうか。そんなわけはない。役者は自分の芸をこんなにもたくさんのお客様が見に来てくださったことの光栄に感激し、感謝しているのである。(服部幸雄『江戸歌舞伎』)
大入りでなくとも舞台上に観客席は設けられていた。羅漢台・吉野・通天等。
○羅漢台(本舞台左の方、段々に高き所を云ふ。見物のかたち羅漢をならべたるに似たり。故に名とす)△通天△神楽堂(通天は通天橋のかたちのごとく、かぐら堂ともにかたちによつて名とする物なり)(式亭三馬『劇場訓蒙図彙』享和三年1803刊)
羅漢台の上には春は桜、秋には紅葉などが飾られたりしたので、桜や紅葉の間から見た。そこで吉野山や通天橋にちなんで吉野・通天などと呼ばれたという。
歌川豊国「芝居大繁昌之図」文化十四年1817の部分
羅漢台の前に芝居小屋の者が一人小さな畳のようなものに座っている。これが「蛙茶番」で半さんが失敗を演じる「舞台番」のようである。そして敷いているのが半畳らしい。桟敷は床が張ってあり毛氈が敷かれているが、平土間は文字通り土間のままであるから半畳が必要である。「半畳を入れる」あるいは「半畳をうつ」といって、半畳を舞台に投げうって不満を表したというが、具体的なやり方はわからない。現在大相撲で番狂わせなどがあると座布団を投げる。座布団であるから投げ込んでも怪我はないであろうが、半畳がどんなものかわからないが投げ込んでは危険であろう。寛保元年1741に市川海老蔵栢筵が大坂公演で半畳を入れられたという話がある。その六年前の享保二十年1735に、二代目団十郎三舛は悴舛五郎に団十郎を譲り、海老蔵栢筵と改名している。
伝に曰、寛保元酉年冬より、市川海老蔵、大坂佐渡嶋長五郎座へ登る、当りつゝけし狂言、左之通り、
酉十一月朔日より、万国太平記に畑六郎左衛門に而、ういろう売の狂言いたし、此狂言中見物より半畳を舞台へ打あげ、見物の中に而、ういろう売のせりふをはやことにいゝし者あり、其内海老蔵は舞台に手をつゐて居て、のこらず言仕廻し時、高ふはござり舛(ます)れど、此所より御礼申上舛る、先は私儀御ひいきとム(ござ)り舛て、かよふに半畳を沢山に下さり舛る段、益々繁昌仕り舛る瑞相と、いか計り有かとふ存じ奉り舛る、隨ひまして御慰にと、右ういろう売のはや言せりふを、跡の方よりくり返して言しゆへ、見物もきもをつぶし、大坂の気まいにて、ゑらい者じやと云出して申合せ、海老蔵が宅へちか付に行し時、酒の肴に、右のせりふを跡からも、はしからも自在に言しゆへ、いよいよ見物我を折りて、希代の者なりと評判有しとかや、(著者未詳『江戸芝居年代記』)
羅漢台は土間の客と対面する形であり、本舞台の役者を後ろから見ることになる。もちろん幕が閉まれば幕の内側になる。その対極にあるのが「つんぼ桟敷」である。舞台から最も遠い二階席で、後ろは太鼓櫓である。三馬の『客者評判記』では、つんぼ桟敷の客を「大上上吉」の位付けで立役惣巻軸にしている。その理由を次のように述べている。
〔頭取〕仰のごとく、役者揚幕より出て花道へかゝる間は顔容(かほかたち)もわかれど、本舞台でする事は何ぢややらわけがわからず、折ふし高調子の役者か、或は一調子(いつてうし)はり上ケた時ばかり、ちらりと耳へはひれど、すべての狂言は一向すじもしれず、別して低い調子の役者、又はおもいれにて声低(こゑびく)の場などは、扨々じれつたき事にて、見たも見ぬも同じ心もち、なまなか見ると思へば腹のたつ筈なるを、じつと辛抱致さるゝ所〔大ぜい〕よほど気のねれた見物ぢや、大体(たいてい)お定りの狂言は、推量いらずにわかれど、新狂言などでは当推量もことごとく間違ふ、それさへかまはず一日見物して居るとは、此上もない芝居好〔頭取〕それゆゑ立役の巻軸に居(すえ)ましたが、皆さま無理はム(ござ)り升まい〔皆々〕いかにも尤(もつとも)ぢや、
楼門高台皆充満男女老若喜楽攸(ところ)と三階の棟札の通り名にあふ戯場(しはい)もさかひ町、外はゆきこふ人の山、新狂言は作者の山、客留(きやくどめ)大入の札を翻し、仕切場の青簾は仲の町の俤ありて、木戸番の声は痰持(たんもち)のごとく、二階の階子(はしご)は斎日の山門に異ず、東西の桟敷は毛氈に甲乙を争ひ、切落しの人いきれは煙草の烟りと共に雲を起す、内格子のうそ暗には親馴(ちかづき)の役者を請し、末室(はたはた)の小便臭(くさき)には手前弁当の結びを甘ンず、前台(つんぼう)は正面を称(賞)して聞へざるをうらみず、後堂(らかん)は聞ゆるを貴んで尻を見るをいやしまず、本ン舞台まで見物を押出して、国大夫か声すゞしく東寿府川撥音(ばちおと)さへ渡る、(以下略)(うくひす谷白眼『三千之紙屑』寛政十三年1830)
ところで芝居小屋には下足場も下足番もないので、履物は持って入った。
当時は土間桟敷等へ履物を持ち込みしものにて、下足場、下足番の如きは更になく、而して上桟敷端「腰隠し」に下駄を入れこれを下駄箱と称へ居たり。(後藤慶二『日本劇場史』大正十四年)
吉原下駄 杉甲松材歯に籜の粗緒を付けたるを云ふ。途中、雨に逢ひたる一時の凌ぎにこれを用ふ。あるひは芝居茶屋の客下駄、これに焼印を押して用ふ等なり。価六、七十銭。歯高さ一寸八分、甲幅二寸八分。(『守貞謾稿』巻之三十)
式亭三馬『客者評判記』の「上上 行過者」の書ぬきにも次のようにある。
(さきに座したる、 女にむかひ)モシ腰帯が解(とけ)やしたゼ、おれに結んで呉(くれ)ろか、チツト待(まち)たり茶碗をゆすぎの、下駄の脇へこぼしの、紙でふきの、先(まづ)ついでださうといふ所だ、ソリヤ熱物でございナント気が利(き)くだらうが、割合(わりやひ)の土間でお遣(つか)ひなさつては、第一お徳用な男だ、
前にあげた羅漢台の絵にも履物が描かれている。
最後に芝居茶屋について少し触れておこう。
芝居茶屋の客扱いは至れり尽くせりだったようである。「歌舞伎・上」に引用した金森敦子『きよのさんと歩く大江戸道中記』には
九日には芝居に参り候ところ、つの国屋と申す所に行き、それより芝居に行けば、煙草盆・茶菓子、様々出し、それより酒・肴、色々持ち来たり。丁寧に扱い、ちよつとのうちも暇なく「御用はござりませんか」と言うて参り、何ひとつ不自由のことこれなく、それより帰り候えば、灯籠を持ち、大門まで送る。
とあった。
今泉みね『名ごりの夢』はさらに詳しい。(今泉みねは桂川甫周(国興)御奥医師(外科)の二女 昭和十年八十歳の時の口述)
大勢の時は屋形ぶねでございます。船つき場へはちゃんときまった茶屋からの出迎えがおりますが、手に手に屋号の紋入りの提灯を持って、「ごきげんよう、いらっしゃいませ」といかにも鄭寧(ていねい)に、手を添えて船から上げてくれます。(中略)
茶屋にはまた粋な男や女が、夏なら着物も素肌にきて、サアッと洗い上げたといったような感じのする人達がい並んでいんぎんに一同を迎えて奥座敷か二階かに案内いたします。ここでしばらく休みますが、もうすっかり芝や気分に浸っていますと、カチーンカチーンときの音、そら木がはいった、皆の胸はとどろきます。一瞬は思わずいずまいを正しますが、急にまたガヤガヤ屋鳴り震動がはじまって、「時がまいりましたから」と迎えが来てつれてゆかれます。実にその辺の気配がいいのです。客は幾組か知れませんのに一向混雑もなく、きれいに静かにゆくところのたくみさ。茶屋の焼印のあるはきものも、身をかがめてはかせるほどにして気をつけてくれるそのあつかい振り、何から何までほんとに気持ようございます。芝居も芝居ですがそれも忘られぬ一つです。(以下略)
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