落語の中の言葉169「歌舞伎・上」

          三代目古今亭志ん朝「四段目」より

 落語にはよく芝居が出てくる。江戸で日に千両ずつ落ちる場所の一つである。朝は魚河岸、昼は芝居町、夜は吉原。江戸時代には歌舞伎は大変な人気であったと言われる。この咄は明治以後の舞台設定であるが、店の小僧まで夢中になっている。江戸時代には無給である小僧は大芝居を見ることができたのであろうか。裏長屋の住民はどれ程芝居を見たのであろうか。
 歌舞伎は大変な人気であったと言われる一方、不入で借金が嵩み、興行ができずに控え櫓にしばしば交替している。また江戸三座の芝居を見ることが出来た者は少数だったとも云われる。
 芝居の見物人は、猿若町にならない前からきまっていたのですが、大概市民の中でも地主級の人達、それに地借級位のところで、町人と一口にいううちにも、何分か銭のある者の方だったのです。そのほか檜舞台を見物するのは、お供でするのであって、地主などに縁もゆかりもない者になりますと、なかなか立見も出来ない。飛ばすので芝居の名物になっていた大向、そういう銭の安い見物でも、なかなか年に一遍出来るかどうか。手銭の見物なんぞは、十年にも十五年にも見ない者がいくらもありました。それですから、最高級の市民のみが見るといってもいい。この芝居見物の階級、そういうものを、一つ市民から分けてもいいほどである。その芝居見物級の人達でも、一年に三四回しかない興行を、替り目毎に見るということはない。芝居の替り目毎に見るという人は贅沢者の方で、一般の例にはならない。金持の我儘娘が、芝居を替り目替り目に見られるような家へ嫁入りしたいというのを、法外な条件と考えたくらいであります。
 芝居見物の階級といって、市民のうちで、有福な者の方でさえ、そういう始末でありますから、一般市民と芝居見物とは、よほど懸隔りがあった。(三田村鳶魚『江戸ッ子』)

 小僧の芝居見物とは大変な落差である。天保の改革で役者の似顔の錦絵が禁止されていた頃、猫好きの歌川国芳が猫の顔を役者の似顔絵にした「猫の百面相」を出している。
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  これについて津田卓子氏は「歌川国芳の擬人化戯画をめぐって」(歴博Vol.193『浮世絵の戯画と風刺画』)に次のように書かれている。
擬猫化役者絵の秘密
 読者のなかには、なぜ「猫の百面相」を役者の似顔と断定できるのか、疑問を持つ方もいらっしやるだろう。あなたは江戸時代後期の歌舞伎役者に会ったこともないだろうに、と。そのとおりであるが、そもそも当時でさえ、役者の顔を間近で見たことがある人は限られていたはずである。それでは、どうやって役者を同定していたかといえば、毎年大量に生産された役者絵のおかげである。現代でいうところのブロマイドやグラビアの役割を果たしていた役者絵をとおして、役者のイメージは形成され、共有されていったのである。「このぎょろっとした大きな目は、ああ、五代目海老蔵だな。」というように。

  芝居の人気と実際に芝居を見ることはイコールではなかったのかもしれない。

 歌舞伎について書かれたものは多いが、多くは歌舞伎の内容や役者・作者に関するもので、見物人や見物席・木戸銭についてその沿革を詳しく書いたものは見かけない。見物人については式亭三馬の『客者評判記』、木戸銭については同じく三馬の『戯場(しばい)訓蒙図彙』、そのほかは、わずかに切落としについていくつかの随筆しか見ていない。そもそも芝居見物にはどれ程費用がかかったのであろうか。

   芝居切落し札の事
切落札も、当時は至て小く成、其上、右札を木戸の者割込候て、銘銘札を出した出したと申聞、引上げ候、我等など幼年の比は、切落札長七寸、巾壱尺(寸?)八分位も有之候て、板も厚き礼にて、其日限りにいたし、引上げ候事も無之候が、廿四五ヶ年以前安永ノ初より、今の切落札に相成候様覚申候、切落も今よりは広く有之候が、今は申分け計に切落を残し、皆土間、桟敷と相成候、桟敷の儀も、類焼の度々にせまく相成申候、(『親子草』巻之二 寛政九年1797)

三芝居土間はにし東とも花道の内計にあり。其後、東の方、花道の外に一側でき、それが二かわになり、三通りになる。安永の末より、切おとしと云は名計残り、昔の切おとし皆土間に仕切、一間二十五匁づゝとなる。是上方の風俗のよし。左右花道の間一体切おとしの時は、札せん百三十二文にて買、中にて半畳代十六文火縄代十六文、役々のもの取に来。中売とて、弁当六十四文、茶売一ぱい二文。役わり番附売ありく。(中略)
又中入後、札上とて、ざるを持、舞台の方より大男十人計、切おとし人込のいとひなく、札をとりあげ、札なきは引出す。其後は客をつれ来、押合中へわり込、自分々々の客を入代るなり。 (『明和誌』文政五年1822)

三芝居に、切落幷中の間とて、舞台際より鼠木戸まで追込にして、切落壱人百三拾弐文中の間壱人百文にて見物を入たり、二三十年以来、舞台際へ、土間、さじきを拵へ、残りは切落、中の間にて追込にせし処、近頃は、切落、中の間はさらになし、不残、土間、さじきにしたり、故に切落、中の間といふ者絶し也、(小川顕道『塵塚談』文化十一年1814)

 切落という安い席は安永(1772-81)の末より僅かになり、文化十一年1814には無くなったようである。

 切落としも含め桟敷・土間の値段は、『戯場(しばい)訓蒙図彙』(享和三年1803刊)にある勾欄全図に載っている。『近世風俗志』(守貞謾稿)に翻字したものがあるのでそれを示す。円形に変形されているため、時代は違うが普通の形の物も揚げる。安政五年1858刊『猿若年代記』所載のものという(『近世風俗志』)

傍(かたわら)に柵(さんじき)の定(さだめ)価(ねだん)を(里人呼んで本直(ほんね)といふ)しるすといへとも人山人海(おほいり)の時に至ては増益あるべし。二十年前、一面に切落と号するもの大半土間となれり(切落、今僅かに花道の側に有)

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  一階の一番後ろに「追込一ト切見十六文」とあるので、これなら小僧でも見られそうである。

 また『守貞謾稿』には次の詞もある。
 割込、わりこみと訓じ、少人数にて一席を買ひ得ざる時は、他の人と同席することなり。あるひは同茶屋の客に同席するもあり。あるひは茶屋も異なる客と同席するもあり。これをわりこみと云ふ。およそ一席七人を法とす。席料、割込にては定料より貴(たか)し。

天保四年1833刊行『三葉草』と云ふ書に所載 江戸芝居三坐席価の写し
    直段附
  一桟鋪   三拾五匁
  一高土間  三拾匁
  一平土間  弐拾五匁
  一割合   四匁五分
右定直段、大方は違はず、夏芝居またはふ入の芝居は五匁下げ、拾匁下げといふ事あれども、これはことごとくその節の番附に直段をしるし出す事 (『守貞謾稿』巻之二十四)


 享和三年も天保四年も最も高い桟敷は三五匁である。一席七人だと一人五匁になる。天保四年頃の銭相場は6,400~6,600文ほどであるから、五匁は540文ほどである。一席六人とすると630文ほどである。ただし桟敷の値段は芝居茶屋への売り値段で、茶屋への支払はそれだけでは済まない。文化の頃になくなったという安い切落でも、一日見物となれば132文のほかに半畳代、弁当代、茶代、煙草を呑む人なら火縄代も必要(おそらく数本)で250文ほどになろう。土間の二十五匁は2,700文ほど、一席七人だとしても、一人前約385文、半畳代等を含めれば500文ほどになろう。一席六人とすると一人前約450文、半畳代等を含め約560文ほどか。

 実例を見ると。
○金森敦子『きよのさんと歩く大江戸道中記』にあげる例
文化十四年三月二十三日羽州鶴岡から福島・日光・江戸・伊勢・奈良・大坂・京・金沢・新潟104日間の旅。裕福な商家の三一歳の妻(家付き)と武吉殿と荷持の三人旅。
(文化十四年)四月九日(陽暦五月二四日)
九日には芝居に参り候ところ、つの国屋と申す所に行き、それより芝居に行けば、煙草盆・茶菓子、様々出し、それより酒・肴、色々持ち来たり。丁寧に扱い、ちよつとのうちも暇なく「御用はござりませんか」と言うて参り、何ひとつ不自由のことこれなく、それより帰り候えば、灯籠を持ち、大門まで送る。五人にて壱両弐朱。但し三分の定めのところなれども、武吉様・村田様帰りに寄りて酒を飲み候故にて御座候。

  つの国屋は芝居茶屋で、そこを通して桟敷で見物したようである。五人で三歩のところ、帰りに茶屋で酒を呑んだために一両二朱になった。五人で三歩であるから銭相場を6,800として銭にして一人当たり1,020文。(文化十四年の銭相場 6,780~6,870 『日本総覧』Ⅳより)

○竹内誠『江戸社会史の研究』にあげる例
会津村松の佐藤喜兵衛の伊勢参宮・西国札所めぐりの旅日記からの紹介。四人連れで天保十一年1840正月二十九日出立、五月十五日帰郷。江戸には二月十四日から廿四日まで十泊。うち二日芝居見物。
 十八日も晴天。この日は朝五ッ半(午前九時頃)から暮六ッ(午後六時頃)まで、堺町の中村座へ芝居見物に出掛けた。演目は「鶴岡根元曾我」。この入用は金二朱と銭三九二文。芝居見物は「茶屋附ニ而参るべし」と記し、芝居茶屋の利用をすすめている。
 二十一日は大雨であったが、葺屋町の市村座へ芝居見物に出掛ける。朝五ッ(午前八時頃)に始まり、夜五ッ半(午後九時頃)まで興行している。演目は「七五三翫宝曾我」。この見物料は金一分と銭三〇文。結構な値段である。

  銭相場を6,900文とすると(天保十一年の銭相場 6,850~6,980 『日本総覧』Ⅳより。)  金二朱と銭三九二文は銭1,242文、金1分と銭30文は銭1,730文。

○『日本庶民生活史料集成』第二十巻所収の伊勢参宮道中記
 会津南山保上小屋 嘉永三年1850正月九日出立、十六日江戸着
神田大明神・つまこゑいなり大明神・湯島天神・しのばず弁天・上野東ゑひ山・東本願寺・あさくさくわんおん・あづまばし・やなぎしま明見・あづまの森権現・梅屋敷・亀井ど天神・両国のゑこふ院・両国橋 所々拝見仕候
 あんないせん十壱人にて三百文(引用者註:十壱人は旅人一団の人数)
 しばいけんぶつ致
 ちやに付壱人にて
 六百文づつかかり

  「ちやに付」の意味がわからないが一人六百文からすると桟敷ではなく土間での見物であろう。十一人のお登りさんを連れて江戸を一日案内して日当が三百文。六百文の芝居見物でも日当二日分である。

○江戸東京博物館調査報告書第23集「酒井伴四郎日記」
島村妙子「幕末下級武士の生活の実態」(『史苑』第32巻2号1972年)の万延元年十一月から翌年(文久元年)十月までの一年間の小遣娯楽費分類表として
文久元年一月1,400 三月240 四月2,285 八月2,868 計6,793文 6回 の数字をあげている。四月と八月は2回で一月と三月は1回と思われる。三月の240文は他に比べ極端に小さいのでおそらく広小路や神社内の小芝居であろう。金額は分からないが万延元年十月廿四日の条に久保町原での芝居見物の記載がある。
晴天、朝五ッ時過出殿いたし候処、御用召有之、御座敷御差支ニ付延引、明日と振替りニ相成候、昼比高岡主馬来り飯をくち魚ニ而振廻、昼後けち連何方江歟行、予三人連ニ而久保丁江行、芝居を見物いたし、夕方相果、帰りニ坂下ニ而主馬ニ別れ帰り候

  三月の240文以外は江戸三座の芝居とすると5回で6,553文となり1回1,310文ほどになる。
わずかな例であるけれども、桟敷での見物には銭で一貫文から一貫数百文は必要で、土間でも六百文はかかりそうである。比較的稼ぎのいいとされる大工の手間銀が飯料込みで大火後でもない限り四匁二分(四百数十文)である。

 ちなみに歌舞伎座で現在公演中の七月大歌舞伎の料金は、
     一階桟敷     ¥20,000
     一・二階 一等  ¥18,000
     一・二階 二等  ¥14,000
     三階A       ¥ 6,000
     三階B       ¥ 4,000
     四階一幕見   ¥ 700、¥1300、¥2,000 演目、幕により違う

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