落語の中の言葉168「ぞめき」
古今亭志ん生「二階ぞめき」より
吉原をひやかして歩くことが大好きで毎晩出かける若旦那に対して、番頭は腕のいい出入りの大工の棟梁に広い二階に吉原の見世を作らせる。若旦那もその気になって一人でひやかして歩く。若い者や遊女の役を演じていたが喧嘩を始めて大声を出す。大旦那に静かにするよう云えと命じられた小僧の定吉が二階へ行くと若旦那は一人喧嘩に夢中になっている。大きな声で「若旦那、若旦那」と呼ぶとやっと気づき、「なんだ定吉か、悪い所で遇ったなア。大変な所で遇っちゃったなア、オヽお前(めえ)ネヘ、おれにここで遇ったってことを、うちへ帰(けえ)ったら親父にだまっててくれ」
頗るいいオチである。
「ぞめき」という言葉はあまり耳にしない。この咄でも題にあるだけで咄の中には出てこない。「ひやかし」といっている。
『日本国語大辞典』には
ぞめき〔騒〕名(動詞「ぞめく(騒)」の連用形の名詞化)
①さわぐこと。浮かれさわぐこと。さわぎ。
②遊郭・夜店などをひやかして浮かれ歩くこと。またその人。ひやかし。素見(すけん)。
前田勇編『江戸語大辞典』
ぞめく〔騒く〕(自カ五)
①わいわいしゃべったり唄ったりしながら歩く。口々にわめいて冷かす。遊里や露店などを、見物してまわる。
②わいわい言う。
とある。
「ぞめき」という言葉自体は古くからある。
江戸時代には次のように言われている。
畠山箕山『色道大鏡』(箕山は寛永三年1626生まれ、宝永元年1704歿)
庄司勝富『異本洞房語園』(享保五年1721自序 庄司勝富は新吉原江戸町壱丁目の妓楼西田屋の主人、吉原の開基といわれる庄司甚右衛門の西田屋四代目(養子))には次のようにある。
また、越谷吾山『物類称呼』巻之一(安永四年1775自序)にも
遊客の曲廓(くるわ)に至るを京都にて○騒(ぞめき)と云 江戸にて○そゝりと云 長崎にて腨(すね)ふりといふ
とある。
喜多村筠庭『嬉遊笑覧』(文政十三年1830 自序)巻之九には
用例をいくつか揚げる。
結城屋来示『吉原徒然草』(元禄宝永頃1688-1711 徒然草のパロディー、結城屋来示は新吉原江戸町壱丁目の妓楼結城屋の主人)。
『南閨雑話』(安永二年1773、品川での遊びを描く洒落本)
『浮世の四時』(天明四年1784自序、両国での仮宅を舞台にした洒落本)
江戸では、「ぞめき」は主にさわぎ歩くことに重点があって、ぞめき=素見では無かったらしく思われる。素見をさす言葉は、とりんぼう→そゝり→ひやかしと変化したようである。
ただ「ぞめく」を素見と同じような内容の言葉として使っているものもある。
中洲での仮宅の賑わいを書いた洒落本『中洲雀』(安永六年1777序)には次のように出て来る。
次の絵は歌川国芳「里すゞめねぐらの仮宿」(弘化三年1846)で、弘化三年の仮宅の様子を描いたものである。
「落語の中の言葉」とは直接関係は無いが触れておきたいことがある。ただ長くなるので次回番外として採り上げることにしたい。
ところで、万葉集の歌の文字を『色道大鏡』では「驟」、『幽遠随筆』は「驂」、『嬉遊笑覧』では「騒」にしている。『嬉遊笑覧』の原文もそうなっているのか、現在出版されているもの(岩波文庫)は現行の文字に変えたのかは不明である。
小学館『日本古典文学全集』4 万葉集三には
2571 ますらをは 友の騒(さわ)きに 慰(なぐさ)もる 心もあらむ 我そ苦しき
男の人は 友達と騒いで 気が紛れる こともあるでしょう わたしは苦しいのです
原文は「大夫波 友之驂尓 名草溢 心毛将有 我衣苦寸」としている。
「驂(サン)」という文字を漢和辞典でひくと
解字 会意。旧字体の參と馬とから成り、參は三の意で、三頭立の馬車を意味する。參はまた、音を表す。
字義 ①三頭立の馬車。②そえうま イ三頭立の馬車の副馬。二頭を前に並べ少し後ろに一頭を副馬とする。ロまた、四頭立の馬車のばあいは、四頭を一列に並べ、その外側の二頭をそえうまといい、左を驂、右を騑 (ひ)という。③三頭立の馬車を用意する。④そえのり(陪乗)。貴人の護衛として同車する。(角川『漢和中辞典』)
とあって、さわぐの意味はない。
漢字は元々中国語であって、それを日本のことばに宛てている。多くは同じような意味の日本語に宛てているが中には全く別の意味のことばに宛てているものもある。
「姦」は①いつわり。よこしま。②みだら などを意味する文字であるが、日本では同様の意味とともに「かしましい」という言葉にもあてている。「鮎(ネン)」は「なまず」をさすが、日本では「あゆ」に宛てて、なまずには新たに「鯰」という文字を作っている。
「かしましい」に「姦」を宛てるようなものを「国訓」といい、「鯰」のように日本で作った文字を「国字」という。
日本には馬車は無かったので万葉集の時代には「驂」という文字をさわぐという意味で使っていたのであろうか。
また江戸時代には万葉集の「驂」を「ぞめき」と読んでいるが、現在は「さわぎ(騒)」と読んでいるようである。
ところで志ん生師匠は「ひやかす」という言葉について、「昔吉原のそばに紙漉き場があって、紙屋の職人が紙を水に浸して待っているのが退屈だから、紙のしやける間一廻り廻ろう、てんでひやかしという名前が出来てきた」と話している。これも「ひやかし」の語源説の一つである。
江戸時代には、浅草観音の周辺で漉き返しの紙がつくられていた。浅草紙といって落とし紙・鼻紙に使われるものである。
小森隆吉『江戸浅草町名の研究』では浅草田原町一・二・三丁目の町名由来について、
幕末には漉き返しの中心は千住宿周辺に移ったようである。
ちなみに浅草紙の販売は元禄の頃から始まったようである。
ところで江戸時代には紙の値段は現在と比べかなり高い。天保の改革では諸色の値段が引き下げられたが、漉返し紙も大きさまで決められ(竪9寸、横1尺1寸限)、小売百枚に付百文である。町触は文末に載せる。半紙は、大きさ大凡8寸×1尺1寸で、小売値は1帖(20枚)30文(『馬琴日記』天保四年1833三月の条)であった。
江戸時代の通貨を現在の金額に直すことは出来ない。物価体系が異なっているからである。なにを基準にするかによって大幅に違ってくる。とは言え何かを基準に換算すると物やサービスによって現在と比べ高いものと安いものとは分かる。例えば一文を20円とすると、天保十三年から嘉永二年までは一両=6,500文に固定されていたので、一両は13万円になる。
湯銭大人8文は160円、髪結賃28文は560円、蕎麦16文は320円となり、現在の同様の料金と比べ安い。一方半紙一枚30円、漉き返しの紙一枚20円である。江戸時代の紙は相当高価であったことがわかる。
「三枚起請」(古今亭志ん朝)で煙管を掃除するならこれを使えと、かつて貰った起請文を渡すと「あら、なアに、お前さん反古紙(ほごつかみ)使ってるネ、嬉しいじゃないか、あたしんとこへ来た時にや何でも半紙なんだもの、エ、鼻をかむんだって半紙だろ、下駄に付いてる泥を拭くんだって半紙だもん、まあこんな贅沢な人と一緒に所帯をやって行かれるかどうかって随分心配したヨ、ね、それがこう変わってくれるってのは嬉しいネ」という言葉もよく分かるというものである。
「天保十三寅年十二月廿六日」
紙屑之儀は世上棄ニ相成候品ニ付、直段引上ヶ候筋は毛頭無之筈ニ候処、近来追々直段引上ケ候ニ付、漉返之紙自然盤尺相詰り、市中別而軽キ者共及難儀候は、畢竟紙屑渡世之者江は相互ニ直段糴上ケ買〆、右を在々江一ト手ニ相廻し候哉ニ相聞、不埓之至ニ候、既ニ浅草三間町紙屑渡世家持かね後見清兵衛外三人之者共義は、多分之紙屑類買〆いたし候趣相聞候間、夫々吟味之上咎申付、猶重立候同渡世神田山本町代地栄次郎店助三郎外七人之者共取調、已来直段引下ケ、買入候紙屑直段糴上ケ不申、銘々買取候紙屑を遠国江相廻し儀は堅く不致、近在紙漉屋共限、白反古下物と三通り撰分ケ、紙漉目方何程と相定遣し、代銭ニ而は不請取、右目方ニ而漉立候員数通り、不残漉返し紙ニ而紙屑屋共方江受取、勿論漉返紙盤尺之義は竪九寸、横壱尺壱寸限漉為立、小売百枚ニ付百文宛来卯正月より市中売買いたし、此上迫々紙屑下直ニ相成候得は、右ニ準シ直段可引下ケ、尤銘々差働を以、右直段ゟ同品下直ニ売捌候は勝手次第之事ニ候、且紙屑屋共之内、是迄漉立為致不申小前紙屑屋共之分ハ、銘々買取候紙屑、市中漉立取扱候紙屑屋共之内江売渡、尤申合等いたし、取引直段不相当之儀相聞ニおゐては、厳重咎可申付間、正路之渡世可致
但、仕訳有之義ハ別紙ニ相渡候間、銘々見世先江張出シ置候様可致
右之通被仰渡奉畏候、為後日仍如件
天保十三寅年十二月廿六日
南伝馬町弐丁目
常蔵店
源 次 郎
外七拾四人受印
(『江戸町触集成』第十四巻)
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吉原をひやかして歩くことが大好きで毎晩出かける若旦那に対して、番頭は腕のいい出入りの大工の棟梁に広い二階に吉原の見世を作らせる。若旦那もその気になって一人でひやかして歩く。若い者や遊女の役を演じていたが喧嘩を始めて大声を出す。大旦那に静かにするよう云えと命じられた小僧の定吉が二階へ行くと若旦那は一人喧嘩に夢中になっている。大きな声で「若旦那、若旦那」と呼ぶとやっと気づき、「なんだ定吉か、悪い所で遇ったなア。大変な所で遇っちゃったなア、オヽお前(めえ)ネヘ、おれにここで遇ったってことを、うちへ帰(けえ)ったら親父にだまっててくれ」
頗るいいオチである。
「ぞめき」という言葉はあまり耳にしない。この咄でも題にあるだけで咄の中には出てこない。「ひやかし」といっている。
『日本国語大辞典』には
ぞめき〔騒〕名(動詞「ぞめく(騒)」の連用形の名詞化)
①さわぐこと。浮かれさわぐこと。さわぎ。
②遊郭・夜店などをひやかして浮かれ歩くこと。またその人。ひやかし。素見(すけん)。
前田勇編『江戸語大辞典』
ぞめく〔騒く〕(自カ五)
①わいわいしゃべったり唄ったりしながら歩く。口々にわめいて冷かす。遊里や露店などを、見物してまわる。
②わいわい言う。
とある。
「ぞめき」という言葉自体は古くからある。
江戸時代には次のように言われている。
畠山箕山『色道大鏡』(箕山は寛永三年1626生まれ、宝永元年1704歿)
ぞめく 驟と書、是もさわぐ貌(かたち)也、沙石集六之上に云、さしあたりたる世間公私のぞめきに打わすれて、おほくは空き事なるべしと、浄遍僧都の説法の段にかけり、驟の字は万葉に出たり、又公朝卿の歌に、引用者註:江戸時代の「当時」は現今という意味である
御垣守やそのつゝきは今もかもとものぞめきに若菜つむらし
当時のぞめきは、思ふ友をいざなひ、爰へわたり、かしこへさしかけ、ざわつきめぐる貌(かたち)をいふ也、
庄司勝富『異本洞房語園』(享保五年1721自序 庄司勝富は新吉原江戸町壱丁目の妓楼西田屋の主人、吉原の開基といわれる庄司甚右衛門の西田屋四代目(養子))には次のようにある。
遊女町を往来し出格子籬をのぞき、傾城共を見物する者を、京にてはぞめきの衆といひ、吉原にては、とりんぼうといふ。其義理も其文字もしれず。明暦の頃、男達に鶺鴒組と言ける一組の男達ありしが、卜養が狂歌に、引用者註:ちよろたゝき=女郎たゝき 岩たゝき=鶺鴒(鳥)の異名
当世の吉原たゝきちよろたゝき此とりんぼも岩たゝきかな
わかき人々などの、うらむれ徘徊するを、ゾメクといふ。万葉に、
ますらをは友の驂(ゾメキ)になぐさむる心ぞあらん我ぞくるしき
驂はさわぐ心かといへり。(入江獅子童『幽遠随筆』安永三年1774刊)
また、越谷吾山『物類称呼』巻之一(安永四年1775自序)にも
遊客の曲廓(くるわ)に至るを京都にて○騒(ぞめき)と云 江戸にて○そゝりと云 長崎にて腨(すね)ふりといふ
とある。
喜多村筠庭『嬉遊笑覧』(文政十三年1830 自序)巻之九には
○素けん・ぞめき、『万葉集』に「友の騒(ゾメキ)」、『沙石集』に「世間公私のぞめき」など見えて、古言なり。『因果物語』に、「七歳になりける子、このぞめきのまぎれに、水門にはまりぬ」などいへり。いそがはしく鬧(サハガシ)き事に用(もちう)。花巷にて今はそゝるとも、ひやかすともいふは、素見(スケン)の事也。『言塵集』に、「そゝりとは、子をいだきあげて、そゝりそゝりといふは、此心なり。俗にいさましくすゝむ事を、そゝるといふ」とあり。『今昔物語』に、「幼キ児(ちご)共ノソヽリトイフ事スルヤウニシテ云々」あり。これその本義也。ひやかしは、悪口(ワルクチ)きゝなどして、興を醒(サマ)す也。さますとは、熱きものを冷(サマ)すことにいへば、やがて冷(ヒヤ)かしといひたりと聞ゆ(おかしき事をいひて睡(ネム)気を覚し、わる口をきゝて興をもさますなり)。
用例をいくつか揚げる。
結城屋来示『吉原徒然草』(元禄宝永頃1688-1711 徒然草のパロディー、結城屋来示は新吉原江戸町壱丁目の妓楼結城屋の主人)。
一段 つれづれなるまゝに
(前略)わけよき大臣の言けんやうに、づにてほてくろしきは、すいのおしえにたがふらんとぞ覚ゆ。銭なしのぞめき衆は、中々はがゆき事のみ有なん。
七十五段 蟻のごとくに集りて
蟻のごとくにぞめきて、土手をいそぎ、左右に走る大臣有(あり)。かんざぶあり。すい有。やぼ有。行(ゆく)者(もの)あり。帰る者有。云々
『南閨雑話』(安永二年1773、品川での遊びを描く洒落本)
入相の鐘も響渡レば。そゝり、そめきのぞやぞやと。なじみのあるは。あしはやに。駕のかよひ路せわしなく。行クも帰るも恋路のやみ。茶やがてうちん道しるべ。云々
『浮世の四時』(天明四年1784自序、両国での仮宅を舞台にした洒落本)
〔豊二郎〕是忠公はきものがかわつたザエ 〔忠四郎〕ほんにナ。サア是からなんと浅草をそゝつて帰ろふじやアねエ欤 〔豊二郎〕おもしろ狸おもしろ狸むだても言ながら四ッまてそゝろふ云々
(中略)
〔豊二郎〕(前略)うしろへ屏風を立ッた所はきついさるとりをまつているといふ顔だの、大ふ女もそめくの 〔忠四郎〕ウヽめづらしいからきん所のかみさん達が見て歩行(あるき)なさるのだ
江戸では、「ぞめき」は主にさわぎ歩くことに重点があって、ぞめき=素見では無かったらしく思われる。素見をさす言葉は、とりんぼう→そゝり→ひやかしと変化したようである。
ただ「ぞめく」を素見と同じような内容の言葉として使っているものもある。
中洲での仮宅の賑わいを書いた洒落本『中洲雀』(安永六年1777序)には次のように出て来る。
水茶屋女に贅(むだ)のあだつきは茶をかわかして空過(ぞめく)を楽しみ、遊郭へ通ふ猪牙船たへまなく云々
(中略)
息子かぶ愚鈍(こけ)にふまれて二朱見せを壱分といゝ勤の金を掠(かすら)るゝもしらす、無益(むだ)の空過(ぞめき)も人の遊興に夜のふくるもわすれ、帰りに犬の吠(ほゆる)ル憂(うれい)有事を不知云々
次の絵は歌川国芳「里すゞめねぐらの仮宿」(弘化三年1846)で、弘化三年の仮宅の様子を描いたものである。
「落語の中の言葉」とは直接関係は無いが触れておきたいことがある。ただ長くなるので次回番外として採り上げることにしたい。
ところで、万葉集の歌の文字を『色道大鏡』では「驟」、『幽遠随筆』は「驂」、『嬉遊笑覧』では「騒」にしている。『嬉遊笑覧』の原文もそうなっているのか、現在出版されているもの(岩波文庫)は現行の文字に変えたのかは不明である。
小学館『日本古典文学全集』4 万葉集三には
2571 ますらをは 友の騒(さわ)きに 慰(なぐさ)もる 心もあらむ 我そ苦しき
男の人は 友達と騒いで 気が紛れる こともあるでしょう わたしは苦しいのです
原文は「大夫波 友之驂尓 名草溢 心毛将有 我衣苦寸」としている。
「驂(サン)」という文字を漢和辞典でひくと
解字 会意。旧字体の參と馬とから成り、參は三の意で、三頭立の馬車を意味する。參はまた、音を表す。
字義 ①三頭立の馬車。②そえうま イ三頭立の馬車の副馬。二頭を前に並べ少し後ろに一頭を副馬とする。ロまた、四頭立の馬車のばあいは、四頭を一列に並べ、その外側の二頭をそえうまといい、左を驂、右を騑 (ひ)という。③三頭立の馬車を用意する。④そえのり(陪乗)。貴人の護衛として同車する。(角川『漢和中辞典』)
とあって、さわぐの意味はない。
漢字は元々中国語であって、それを日本のことばに宛てている。多くは同じような意味の日本語に宛てているが中には全く別の意味のことばに宛てているものもある。
「姦」は①いつわり。よこしま。②みだら などを意味する文字であるが、日本では同様の意味とともに「かしましい」という言葉にもあてている。「鮎(ネン)」は「なまず」をさすが、日本では「あゆ」に宛てて、なまずには新たに「鯰」という文字を作っている。
「かしましい」に「姦」を宛てるようなものを「国訓」といい、「鯰」のように日本で作った文字を「国字」という。
日本には馬車は無かったので万葉集の時代には「驂」という文字をさわぐという意味で使っていたのであろうか。
また江戸時代には万葉集の「驂」を「ぞめき」と読んでいるが、現在は「さわぎ(騒)」と読んでいるようである。
ところで志ん生師匠は「ひやかす」という言葉について、「昔吉原のそばに紙漉き場があって、紙屋の職人が紙を水に浸して待っているのが退屈だから、紙のしやける間一廻り廻ろう、てんでひやかしという名前が出来てきた」と話している。これも「ひやかし」の語源説の一つである。
吉原へ見物のみに行くを素見といひ。俗にはひやかしといへり。これはむかし、山谷にはすきがへしの紙を製する者多く住たり。その紙漉ものゝ方言にて、紙のたねを水につけおき、そのひやくるまでに行て、廓のにぎはひを見物しけるより、出たる詞なれど、今はそのことばのもとをしる人まれなりと、松沢老泉のはなしなりき。(山崎美成『三養雑記』天保十一年1840)
江戸時代には、浅草観音の周辺で漉き返しの紙がつくられていた。浅草紙といって落とし紙・鼻紙に使われるものである。
小森隆吉『江戸浅草町名の研究』では浅草田原町一・二・三丁目の町名由来について、
『御府内備考』はわからないとしているが、『東京案内』は、
此地は本(も)と千束郷広沢新田の内にして、田畝(でんぼ)に係り居民(きょみん)農隙(のおげき)を以て紙漉を業とし、紙漉町と称せしが、後漸(やうや)く人家稠密と為(な)るに及び三箇所に分ち、元と田畑なりし故を以て今名(こんめい)を附すと云伝(いひつた)ふ。
と記している。
(中略)
ところで、住民は、農耕の合間に紙を漉いたという。
この紙漉について、『江戸図説』は、
紙商ひは門跡東のかた三軒町、田原町辺漉返し紙を製す、是を浅草紙といふ。今は千住にて専ら漉、また三谷・鳥越にても多くいたす。
と記し、『浅草寺志』も、
浅草紙田原町にて漉く、
と記述している。(以下略)
幕末には漉き返しの中心は千住宿周辺に移ったようである。
還魂紙(かんこんし)売り 江戸にては浅草紙と云ふ。今は千住駅辺にこれを製す。大坂は高津新地にてこれを製す。漉返し紙は、紙屑を再び漉き成すなり。価 大略百枚百文。簣(あじか)にて担ひ巡る。圊(かわや)紙・鼻紙等に用ふ。京坂にて売り巡るは近年なり。(『守貞謾稿』巻之六)
ちなみに浅草紙の販売は元禄の頃から始まったようである。
爰に馬喰町一丁目紙屋五郎兵衛とて紙商ひ、越後屋の如く繁昌する、元禄年中、九尺店にして、才槌あたまの若者一人有り、夫婦三人、浅草漉返しの紙見世を出し、鼻紙一通り売弘めける、江戸中、五郎兵衛一軒にして、見世にもはかばか敷売ぬゆゑ、五郎兵衛せり売に出る、其節の漉返し紙を遣ふ者は、あれ浅草紙を遣ふとて、乞食、非人の様に笑ふ、後子供の商ひ仕習ひに、箱に入れ歩行、今は子供多くして、皆五郎兵衛所にて請取ける、それより段々商ひはびこり、今は盛りの商人なり、(和泉屋何某『江戸真砂六十帖』巻の四 寛延宝暦頃1748-1763)
ところで江戸時代には紙の値段は現在と比べかなり高い。天保の改革では諸色の値段が引き下げられたが、漉返し紙も大きさまで決められ(竪9寸、横1尺1寸限)、小売百枚に付百文である。町触は文末に載せる。半紙は、大きさ大凡8寸×1尺1寸で、小売値は1帖(20枚)30文(『馬琴日記』天保四年1833三月の条)であった。
江戸時代の通貨を現在の金額に直すことは出来ない。物価体系が異なっているからである。なにを基準にするかによって大幅に違ってくる。とは言え何かを基準に換算すると物やサービスによって現在と比べ高いものと安いものとは分かる。例えば一文を20円とすると、天保十三年から嘉永二年までは一両=6,500文に固定されていたので、一両は13万円になる。
湯銭大人8文は160円、髪結賃28文は560円、蕎麦16文は320円となり、現在の同様の料金と比べ安い。一方半紙一枚30円、漉き返しの紙一枚20円である。江戸時代の紙は相当高価であったことがわかる。
「三枚起請」(古今亭志ん朝)で煙管を掃除するならこれを使えと、かつて貰った起請文を渡すと「あら、なアに、お前さん反古紙(ほごつかみ)使ってるネ、嬉しいじゃないか、あたしんとこへ来た時にや何でも半紙なんだもの、エ、鼻をかむんだって半紙だろ、下駄に付いてる泥を拭くんだって半紙だもん、まあこんな贅沢な人と一緒に所帯をやって行かれるかどうかって随分心配したヨ、ね、それがこう変わってくれるってのは嬉しいネ」という言葉もよく分かるというものである。
「天保十三寅年十二月廿六日」
紙屑之儀は世上棄ニ相成候品ニ付、直段引上ヶ候筋は毛頭無之筈ニ候処、近来追々直段引上ケ候ニ付、漉返之紙自然盤尺相詰り、市中別而軽キ者共及難儀候は、畢竟紙屑渡世之者江は相互ニ直段糴上ケ買〆、右を在々江一ト手ニ相廻し候哉ニ相聞、不埓之至ニ候、既ニ浅草三間町紙屑渡世家持かね後見清兵衛外三人之者共義は、多分之紙屑類買〆いたし候趣相聞候間、夫々吟味之上咎申付、猶重立候同渡世神田山本町代地栄次郎店助三郎外七人之者共取調、已来直段引下ケ、買入候紙屑直段糴上ケ不申、銘々買取候紙屑を遠国江相廻し儀は堅く不致、近在紙漉屋共限、白反古下物と三通り撰分ケ、紙漉目方何程と相定遣し、代銭ニ而は不請取、右目方ニ而漉立候員数通り、不残漉返し紙ニ而紙屑屋共方江受取、勿論漉返紙盤尺之義は竪九寸、横壱尺壱寸限漉為立、小売百枚ニ付百文宛来卯正月より市中売買いたし、此上迫々紙屑下直ニ相成候得は、右ニ準シ直段可引下ケ、尤銘々差働を以、右直段ゟ同品下直ニ売捌候は勝手次第之事ニ候、且紙屑屋共之内、是迄漉立為致不申小前紙屑屋共之分ハ、銘々買取候紙屑、市中漉立取扱候紙屑屋共之内江売渡、尤申合等いたし、取引直段不相当之儀相聞ニおゐては、厳重咎可申付間、正路之渡世可致
但、仕訳有之義ハ別紙ニ相渡候間、銘々見世先江張出シ置候様可致
右之通被仰渡奉畏候、為後日仍如件
天保十三寅年十二月廿六日
南伝馬町弐丁目
常蔵店
源 次 郎
外七拾四人受印
(『江戸町触集成』第十四巻)
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