落語の中の言葉165「湯屋・下」

 前回に続き江戸の湯屋について。

 *石榴口
蒸気浴では浴室と洗い場の間に戸をたてたが、出入りが頻繁になると蒸気が流れ出てしまうため、壁にして、人が出入りするために下の方をすこしあけていた。こうした風呂を石榴風呂という。
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      井原西鶴『好色一代男』巻一 天和二年1682
温湯浴に変わってもその構造はそのまま引き継がれている。ただ入口はすこし大きくなったようである。この出入り口を石榴口という。
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 石榴口について山東京伝は『骨董集』上編(文化十年1813)に次のように書いている。
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〔醒睡笑〕〔割註〕元和九年1623作、万治元年板。」二之巻に云、いづれもおなじことなるを、つねにたくをば風呂といひ、たてあけの戸なきを柘榴風呂とはなんぞいふや、かゞみいるとのこゝろなり。」醒々云、かくいへるは庾詞(なぞ)なり。屈(かゞ)み入といふを、鏡 鋳(かゞみいる)といふにとりなしたるなり。昔は鏡を磨(とぐ)に柘榴の実の醋(す)を用たるゆゑなり。今は梅の醋(す)をもちゆ。
〔七十一番職人尽歌合〕かゞみとぎの月の歌に、
    水かねやざくろのすますかげなれやかゞみと見ゆる月のおもては
絵にも鏡磨のかたはらに、石榴(ざくろ)をおきたる所をかけり。此歌合は文安宝徳のころにつくりしものといへば、因(より)きたること久し。
  〔守武独吟千句〕天文九年1540吟、慶安五年刻、
    前句 じやくろなりけりいのちなりけり
    附句 かゞみとぎさ夜の中山けふこえて
かゝれば、天文の比も石榴を用たるべし。是等をもて案に、今江戸の銭湯に石榴口といふ名 目(みやうもく)あるは、石榴風呂のなごりなるべし。 然 則 (しかればすなはち)石榴口は石榴風呂より出たる名 目(みやうもく)にて、ざくろ風呂は鏡 磨(かゞみとぎ)より出たる名目なり。かゝるやくなきことも参考してよくしるればおもしろし。

 『人倫訓蒙図彙』(元禄三年1690刊)には「鏡磨(とぐ)には、すゞかねのしやりといふに、水銀(みづかね)を合て砥の粉をまじへ梅酢(むめず)にてとぐなり。」とあるので、元禄の頃にはすでに石榴ではなく梅酢が使われている。「すゞかねのしやり」とはどんなものなのか不明。昭和六十年台のはじめでも金属鏡は鋳たあと鏡になる面を粗密のヤスリで平らにし、鑯(せん)という刃物でヤスリ目を削り、砥石さらに炭で磨き上げる。その後、梅酢を塗り、その上にミョウバンと砥の粉に僅かの水銀を加えたものを塗り込んで磨き上げて鏡面を完成している。
 鏡磨も写りの悪くなった鏡面の水銀塗膜を砥石や炭で削り取って金属面に戻し、新たに水銀塗膜をつくる。

   かた炭を大せつにするかゞみとぎ  誹風柳多留七篇
   かゞみとぎ三み合せてかき廻し   誹風柳多留十篇

 『醒睡笑』の「かゞみいる」を京伝は「鏡」としているが、どうであろうか。鏡を鋳るためには石榴は必要ない。鏡面を仕上げるのに必要なのである。「かゞみいる」は「鏡を鋳る」ではなく、「鏡にる」の意であろう。

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   石榴口を浴室側から見た図である。湯船の設けてある浴室は石榴口があいているくらいでほぼ真っ暗である。したがって出入りする時には挨拶が必要であった。
式亭三馬の『浮世風呂』には
 「田舎者でござい、冷物でござい、御免なさい」
 「ソリャ出ますソリャ出ます。ハイまたぎます。おゆるしなさい」
  あるいは「ヲイ出やす。田舎者田舎者」などとある。

   *湯屋の二階
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 二階に上がる階段は男湯だけにあった。二階にも着物を入れる戸棚があるが、多くは貸切だったようである。
 江戸の浴戸は二階も客を上ぐるなり。京坂には更にこれなきことなり。
 浴戸表間口全く、奥行三間ばかりなり。すなはち男女湯の板の間の上なり。ここにも下のごとく衣服の棚あり。梯子口の側に炉を置き釜を掛けて、常に沸(わき)湯(ゆ)を絶やさず、客あるごとにこし茶を一碗づゝ出すなり。漉(こし)茶と云ふは柄付の小笊に茶を納れ、これを碗上に置きて沸湯をつぐに、碗中すなはち茶となるものなり。
 右の炉前に一夫坐してこれを掌(つかさど)り、この夫を二階番頭と云ふ。およそ下男古参の者を番頭と云ふなれども、他より云ふ時は、湯屋下男を呼ぶには、番頭番頭と云ふ。今世、江戸の習風なり。二階番頭は最もその古参なる者なり。
 この二階に上り衣服を脱ぐは、美服を着し、あるひは所持の品物ある者、専ら二階に上る。
これは下より客数少なく、自然と盗難稀なるをもつてなり。かくのごとき一回の客は茶代八文、あるひは十二文、十六文ばかりを与ふ。
 また得意の浴客は、毎日茶代を与へず、五節句にこれを与ふ。大略二百文ばかりなり。かくのごときは二階の衣服棚に記号等を描きてこれを用ふ。浴客一戸より数人入湯する家、また一棚を用ふなり。
 また炉辺、鮓および菓子を蓄へてこれを売る。鮓・菓子ともに大略価八文なり。これまたこれを製して湯屋二階に持ち巡り売る原賈あり。二階番頭、茶代とこれを売るとを己が有とす。
 またこの二階に上る客は男子のみなり。婦女は上らず。美服多しといへども下に脱ぐ。
 また二階にて膏薬等をも取り次ぎうる。下の高坐にても、膏薬あるひは歯磨粉等を売る。
 またこの二階必ず狭からざる故に囲碁稽古、あるひは活花稽古などの席にこれを貸す。右等の稽古は毎日にあらず、専ら一月に六ヶ日なり。けだし稽古ある日も浴客は常のごとくなり。
あるひは、拳の稽古もあり。浴戸ごとにこれあるにはあらず。
 また男客をも、更に二階に上さゞる浴戸も稀にはこれあり。(『守貞謾稿』巻之二十五)

  『浮世風呂』には酔っぱらいが二階へのはしごをあがらうとするところに、
 ばんとう「アヽもしもし二階は貸切でござります。どうぞ下に被成(なすつ)て下さりまし (中略) ばんとう「 イエサ、貸切といふ訳は、店(たな)向(むき)のお方(かた)がたに戸棚を皆貸てござりますから、お脱(ぬぎ)なさる場がござりませぬ云々(『浮世風呂』)
  とある。
 二階の床の一部が格子に成っていて、そこから覗いている者が左の方に描かれている。詞書きに「八兵へがくるはづだが見へねへ」とあるので下は男湯の板の間である。女湯の板の間が見える造りになっている湯屋もあったという。そもそも寛政の改革で入込湯(混浴)が禁止されるまでは男女混浴であったし、禁止も徹底されたわけでもなかった。また入込禁止も江戸ばかりだったようである。天保の改革後は京坂も浴槽は別になったという。
 京坂ともに従来は、男女入込と云ひて、男女とも湯槽を分たず一槽に浴すことなりしを、天保府命後、男槽女槽を別つ。(『守貞謾稿』巻之二十五)

 紀州若山の侍医原田某が安政後江戸詰中に見聞した国元とは違う江戸の風俗を誌した『江戸自慢』には、江戸の湯屋について次のように書かれている。
湯屋は男女別風呂ニ而、戸口も同じからず、男の方にハ二階アリ、帯刀人又ハ身柄の町人ハ二階に上る、二階には、象戯、碁盤、火鉢、煙草盆も有、三助茶を煮て客ニ出す、菓子ハ壱ツ八銭ニて好の品を取食ふ、二階へ八銭、下に湯代八銭、合せて十六銭、糠袋借り賃四銭、垢すり四銭、留桶を出すハ湯屋ニ而の大じん也、月ニ百銅ツヽ遣れバ、自分ニ湯を汲面倒なく、垢もすらし、勤番者の大体に見ゆるハ湯屋ニ止まれり、風呂焚男ハ日々町中の古木、小便桶、雪隠板の分ちなく拾ひ集、焚物とす、(以下略)

   *留桶
 また正月、上巳、端午、七夕、重陽の日、浴戸下男に銭二百文を与ふ者には、毎浴の時、右の小桶と留桶に上り湯を汲み、持ち出し、客の背を磨り、また再び小桶と留桶に上り湯を汲み出す。これを留桶の客と云ふ。留桶、大きさおほむね高さ六寸、亘り八寸に一尺ばかりの楕円なり。俗に云ふ小判形なり。輪同前。これまた槙の正目あるひはさわら材なり。
 右、五節の内、七夕を除きて中元に与ふもあり。また十月二十日前に留桶新制にするの条を紙に書きて水槽の上に粘(ねば)す。この時、常に留桶を用ふかの留桶の客ら、各自銭を与ふに差あり。あるひは金二朱一分または銭三、五百文、二百文を極下とす。その銭数と名を紙に書きて羽目板に粘す。二十日に至り留桶・小桶ともに新制を用ふ。けだし輪は作り改むるにあらず。
 天保前は外見を好むの徒、銭を多く与へて留桶に定紋を漆書きさせ、あるひは記号の熔印をするもあり。天保以来、このこと廃す。今これを用ふるは、かへつて数年を用ふのみ。
 留桶の客いづれの浴戸にも男子には十人の中一人、百人に十人ばかり。婦女はこれを用ふる者、十人に九人、これを用ひざる者百人に十人なり。(『守貞謾稿』巻之二十五)

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