落語の中の言葉160「見世物」
十代目柳家小三治「がまの油」より
小三治師匠は咄の枕で見世物をいくつか揚げている。蛇娘、大ざる小ざる、べな。いずれもインチキである。江戸時代には見世物が随分流行っている。東西の両国、浅草奥山、上野山下などのほか、開帳の際の寺院の境内など。
渓斎英泉「江戸両国橋ヨリ立川ヲ見ル図」天保前期
『江戸名所図会』巻之六 天保五年
見物する人も長屋の住民ばかりではない。神田雉子町の名主であった斎藤月岑も頻繁に見世物見物に出掛けている。『武江年表』文政三年1820のところに自身がその年に見た見世物を列挙している。
江戸で行われた見世物は大きく分ければ①珍しい生き物②つくりもの③軽業などの技 になろうか。
①珍しい生き物の例を揚げると
唐鳥・インコ(宝暦8年1758・「半日閑話」)、唐鳥(明和元年1764・「我衣」)、マンボウ(明和元年1764・「我衣」)、ヤマアラシ(安永四年1775・「武江年表」)、駝鳥(寛政3年1791・「武江年表」他)、海鹿(あじか)(文化5年1808・「我衣」)、駱駝(文化7年1810・「遊歴雑記五編」他)、黒猿(文化7年1810・「雲錦随筆」)、海豹(アザラシ?)(天保9年1838・「金杉日記」)、驢馬(天保十二年1841・「きゝのまにまに」他)、虎(実は豹)(万延元年1860・「酒井伴四郎日記」)
この他に見世物ではないが珍しい動植物で客寄せをする茶屋などがある。
左図、一勇斎国芳
「花鳥茶屋の夕照」
②つくりものには様々あるが、中には変なものもある。「とんだ霊宝」
『半日閑話』(大田南畝著後人追補)の安永六年1777四月のところに
歴史民俗博物館展示の復元品「三尊仏」
③業もいろいろである。軽業のほか曲馬・力持ち・歯力・眼力等々。放屁男はすでに第五回転失気で紹介した。
見世物小屋は仮設である。
十方庵は文政三年1820端午の日、所々の開帳の見世物を「一日に見廻らばやと」三人連れで屋根船で出掛けるが、
最後に、江戸の見世物がどんなものであったのか、長くなるが十方庵の見聞記を紹介する。
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小三治師匠は咄の枕で見世物をいくつか揚げている。蛇娘、大ざる小ざる、べな。いずれもインチキである。江戸時代には見世物が随分流行っている。東西の両国、浅草奥山、上野山下などのほか、開帳の際の寺院の境内など。
渓斎英泉「江戸両国橋ヨリ立川ヲ見ル図」天保前期
『江戸名所図会』巻之六 天保五年
見物する人も長屋の住民ばかりではない。神田雉子町の名主であった斎藤月岑も頻繁に見世物見物に出掛けている。『武江年表』文政三年1820のところに自身がその年に見た見世物を列挙している。
○今年正月より秋にいたり、寺地或ひは両国橋詰へ大造の看せ物出る。おのれが見る所を左にしるす。
△針金細工(両国広小路へ出る。細工人胡蝶、「難波なるかごの細工にまけまじとたくみ出したる江戸のはりがね」)〈麦藁細工(同所へ出)△虎遊び(同所へ出、虎の造物)△雨乞小町(浅草奥山へ出、ゼンマイ仕掛、東陽斎常山作)△笊籠細工(東両国、鯉滝登)△茶番細工(浅草奥山へ出、人形多し。細工人堤深川斎)△麦藁張細工(同所へ出、七丈余りの青龍刀、十二支の額、其の外北斎の下絵にて見事なり。大森の職人これをつくる)△貝細工(同所へ出、貝細工大塚看造、人形細工末吉石舟)△七小町人形(同所へ出る。二代目原舟月作)△籠細工(同所へ出る、松民斎作)△丸竹細工(回向院内へ出る)△江戸細工(西両国へ出、助六人形其の外、麦藁にて衣裳を張る)△削掛白沢の造物(回向院内へ出、三田高伊作)△貝細工(回向院内へ出、細工人)満亭一等宝亭平輔)△ギヤマン象頭山景(東両国へ出る、細工人大坂武楽斎)△文覚上人荒行(回向院へ出、細工人惣助、弥三郎、泉五、茂定)△瀬戸物細工(回向院内へ出る、細工人亀祐周平)△時雨桜(同所へ出、ゼンマイ人形、細工人大坂金橘堂)△絲瓜細工(浅草奥山へ出、江上仙吉作、此の小屋より出火して造物悉く皆灰燼となれり)△瀬戸物細工(同所へ出、細工人大坂富永軒)△三玉の牛(両国向へ出、生キ牛也。頭に玉の如き物三つ有り)△大盆石(浅草奥山へ出る、大坂井上宗菊作)
江戸で行われた見世物は大きく分ければ①珍しい生き物②つくりもの③軽業などの技 になろうか。
①珍しい生き物の例を揚げると
唐鳥・インコ(宝暦8年1758・「半日閑話」)、唐鳥(明和元年1764・「我衣」)、マンボウ(明和元年1764・「我衣」)、ヤマアラシ(安永四年1775・「武江年表」)、駝鳥(寛政3年1791・「武江年表」他)、海鹿(あじか)(文化5年1808・「我衣」)、駱駝(文化7年1810・「遊歴雑記五編」他)、黒猿(文化7年1810・「雲錦随筆」)、海豹(アザラシ?)(天保9年1838・「金杉日記」)、驢馬(天保十二年1841・「きゝのまにまに」他)、虎(実は豹)(万延元年1860・「酒井伴四郎日記」)
この他に見世物ではないが珍しい動植物で客寄せをする茶屋などがある。
左図、一勇斎国芳
「花鳥茶屋の夕照」
ちんぶつ茶や「唐わたりのめい鳥めい鳥、鳥をごろうじておちやをあがりながらおやすみなされませ。おちや代わづか十二せん。孔雀ほうわうの生どり、天狗の巣立、すり子木にはねがはへて、こはいろをつかひます。お国もとへのよいおみやげ、はなしのたねに御覧じませ。サアサアおはいりおはいり」(『旧観帖』二編下之巻 文化三年1806)
生麦村に羊を飼ふ茶や有。川崎に生熊菴とて熊を見する茶店もあり。(『我衣』巻十 文化十二年1815)
②つくりものには様々あるが、中には変なものもある。「とんだ霊宝」
『半日閑話』(大田南畝著後人追補)の安永六年1777四月のところに
とんだ霊宝 先月頃より両国橋広小路にてとんだ霊宝のみせ物大に流行す。
細工物宝物目録
細工人 鯰 橋 源 三 郎
古 沢 甚 平
三尊仏 尊体飛魚、頭くしがい、後光ひたら、後光仏
とこぶしの中にごまめのあたま、台座吸物椀
不動明王 頭はさゞゐ、顔はさけのあたま、手足体とも
鮭の塩引、御衣はひだこ、けさはこんぶ、剱
はさしみ庖丁、ばくの繩はつるしなは、火ゑ
んは鎌倉ゑび、御台座はさゞゐあわび
役行者 頭手足とも干大根、御衣わかめ、髭はところ
の毛、御袈裟かぶり物は干瓢、しやくでうは
するめの足、あし駄は氷菎蒻、岩はから鮭
後 鬼 頭より腹迄かながしら、手足はきす、こしま
きは椎茸、だいはかんてん
前 鬼 鎌倉ゑび、こしまきは椎茸、よきはかいじや
くし、だいはからざけ
右の外しげゝれば略す。
目録〔割註〕観世物場にて是を売る。」開帳とんだ霊宝略縁記なり。〔割註〕焉馬述る、本所相生町大工和助事なり。」
右両国に三ケ所、山下に二ケ所出来る。
歴史民俗博物館展示の復元品「三尊仏」
③業もいろいろである。軽業のほか曲馬・力持ち・歯力・眼力等々。放屁男はすでに第五回転失気で紹介した。
見世物小屋は仮設である。
両国のみならず、火除地の興行は、必ず小屋掛けでなければならぬ。常設の建物で興行したのは、中村・市村・森田の歌舞伎三座、肥前・土佐の浄瑠璃二座及び市ヶ谷八幡・芝神明・湯島天神の宮地三座だけであった。浅草寺境内の興行物もすべて小屋掛けのみであったが、新門辰五郎の手で、文久の頃から半永久的な建物になったのが、今日の常設に到達する端緒なのである。故に常設の見世物小屋は古いものではない。
小屋掛けといっても、軽業とか曲馬とかいう類の興行物には、高小屋と称するやや規模の大きいのもあった。大規模の小屋掛けは、回向院の相撲が一番凄じい。それでも、上部を藁菰、下部を駄(だ)板(いた)で囲って、桟敷は丸太と駄板とを縄で結び付けたものであった。大概な見世物小屋は、板囲いでない、桟敷などあるのもない。竹沢藤治の曲独楽が大評判であった時分には、板囲いの小屋で桟敷もあったが、そうした興行物は甚だ少かった。
見世物のためには、興行地域を与えなかった(引用者註:遊廓と芝居は場所を限定して許可しているのに対してのこと)。小屋掛けを条件として興行させたのは、いつでも取り払うぞ、という意味を持っているのだ。葭(よし)簀(ず)囲いで、縁台を並べるまでのものに過ぎない小屋であるから、夕暮には並べた縁台を片隅へ積み上げて、囲つた葭簀も巻いて取り除けてしまう。跡には丸太の柱が立っているばかりだ。晴天だけの興行で、雨が降れば休場するのは、角力のみでなく、一般見世物が皆御同様なのであった。(中略)
両国の広小路は、将軍が鷹狩に出掛ける時に乗船されるので、橋を挟んでお上り場が二箇所あって、鷹御成の当日は、すべての小屋は綺麗に取り払われる。取り払うといっても、小屋掛けなのだから、前日中に柱にしてある丸太までも抜いて、跡へ箒目(ほうきめ)を付けるのに、あまり骨も折れぬ。(三田村鳶魚『娯楽の江戸江戸の食生活』)
十方庵は文政三年1820端午の日、所々の開帳の見世物を「一日に見廻らばやと」三人連れで屋根船で出掛けるが、
両国の見せ物も、明六日公本所辺へ成らせ賜ふとて、それぞれの小屋を取崩せば、見せざりしは遺恨少なからず、(以下略)(『遊歴雑記』四編巻之上)と述べている。
最後に、江戸の見世物がどんなものであったのか、長くなるが十方庵の見聞記を紹介する。
(文政三年)六月朔日より信州善光寺の本尊回向院に於て開帳ある程に、又候や種々新作の見せ物集ひ出たるよし巷談区々なれば、いさや終日ふらめき見物せばやと、鈴木仲次小原逍斎を同伴し、頃は七月廿三日朝涼こそよけれと、卯の刻過る頃出宅し回向院へ罷りむ、時いまだ辰の半刻には及ばざれど、ゆく人帰る人男女貴賤参詣夥し、凡近年何れの開帳もみな衰廃し不繁昌なるに、嵯峨清涼寺信州善光寺のみ群参するは、流石日本に名たゝる霊物仏の威徳成るべし、さればいづれの開帳仏も、みな本堂の外にかり小屋を作り、霊宝を披露するに、善光寺に限り回向院の本尊をば、仮小屋へ移し開帳仏を本堂へ直したるは、面目とやいはん、実に三国伝来の霊像の訳なるにや、是によつて先開帳仏を拝し終り、扨兼て含の如く、それぞれの見せ物を見洩さじと、先本堂の右に作りし藁細工よりぞ見初めけり、是は浅草寺境内に麦の藁にて種々の形を作りたるに対して、此處に米のわらを以て大木の十三階の松二羽の丹頂、又は金鶏、桃いんこ、猩々、いんこ、唐獅子、南天、蔦、熊笹の類まで、みな米の藁の袴を白くさらし、或はいろいろに染さきて広くし撚て細くし、又は細に毛の如くにさき、扨はミゴを用ひ抔して造れり、一品といふべし、又北の方の裏門際の右には、雛形の如く小さき五十三次を作れり、藁葺の大さ何れも高さ壱尺弐三寸、人形みな四五分計、但し右側のみに作りて長さ壱町もあるべし、折曲りて近江八景の風色を模せり、家の大さ壱尺四五寸みな竹をさき染て作れり、三井寺の山門三重の塔といふもの高さ三尺に過ず、但し粟津とから崎と、矢(や)走(ばし)と比良の暮雪をのぞき、跡四ツを造る石垣塀等、一切みな竹にてこしらへ甚奇麗なり、又此奥に文覚の荒行体を模せり、その容体黒朴といふ石を以て積あげ、那智の瀧山高さ三丈あまり、双方にもろもろの雑樹を植込瀧口の様子真の如し、瀧壺の上に文覚といふもの破れし黒衣を着し、服を荒繩にてまき左の膝を折、右の足を延し右の手に鈴を持、岩頭に腰懸たり大さ人の如し、但し顔手足肌薄赤く、頭上の髪延髭生たる様なり、傍に井戸あり見物の溜るを待て、件の井の側なる轆轤を両人して幾度も捻廻せば、頓に頂上より水迸り落、但し先初めに霧降の瀧なりとて、しばらくの間瀧口より幾筋となく細く吹出り水迸し下て、実も霧雨の如し、良ありて那智の大瀧ぞといふとひとしく、頂上より水落る事すさまじく、大盥抔の水をあけたるが如し、彼岩上の文覚か首より惣身件の大瀧を受るや否や、右に持し鈴をからからと振る事活るが如し、彼文覚の人形蝋にても造りしや水をはじくといふものあり、又は下地を木にて作り桐油にて包みしといふものあり、手摺より文覚の居し處迄は四五間もへだち、殊に植込の樹木の陰にて薄くらく、聢とはいひがたし、扨又元の木戸を立出で西側に瀬戸物細工の見せ物あり、花檀に作りし大輪の菊、若竹に筍、梅か枝に鶏、鶴、山(さん)鵲(じやく)、亀、火炎、太鼓の類みな清(きよ)水(みづ)やきにて作れり、但し紋から角菱の類は、小皿長皿等を以て作り、関羽周操は壱丈四五尺不出来なりし、又表門北側の角に貝細工あり、浅草寺にて見し抜群の細工なり、とりわけ丈五尺の六枚折の屏風、片々あふみ八景の絵を悉く貝にて作れり、其手ぎわ絶品といふべし、但し大鯉の瀧登りを作る高さ壱丈余の山を模し、瀧口を拵へ鯉魚の首尾とも瀧口へあらはれたり長さ七九尺、何にてやあらん人の溜るを待、拍子木にて相図し頂上より水を落して飛(た)泉(き)を模せども、鯉魚さらに動かず甚不細工といふべし、又表門の南の隅に景月の輪の時雨の桜を作る、奥に篁(たかむら)とも覚しき人形束帯して、ぜんまひの仕懸にて、側の衝立に壽の一字を書あり、又境内を出て両国手前、右の方に線香を作る仕様を見せるあり、或は左の裏手には硝子を以て、讃岐の国金毘羅参詣の船場の風景、城又は橋寺社など見るが如く、正写に雛形作り、からくりの船ありて橋のあなたより乗出し人形は艪を出し帆を引上ると、そのまゝ帆に風を受くる容体して彼處へ着岸す、此舞台の幅凡六間ばかり川の模形舞台一抔水を湛へたり、此作り物後へ廻れば、讃州象頭山金毘羅神の門外の風景より、都て社内一山の様子細に作れり、則惣門花表山門絵馬堂経堂神楽殿拝殿本社本地堂井戸屋形五重之塔鐘楼奥の院に至る迄みな五色の硝子にて作れり巧工といふべし、此舞台の幅七間余奥行三間みな一円に彼山の風景を雛形に模せり、されば見物の人溜り、拍子木を打、口上にしたがひ、山谷の下より黒塗の衣(え)桁(こう)の如き物弐尺計中央にあらはれ出れば、上よりは鞍馬山の僧正坊とも覚しき人形、雲に両手を懸て漸くに下り、彼衣桁の上の横木に足を踏や否や、件の人形両手を放せば、雲は空中に隠れて跡方なし、しかるに件の人形口上にしたがひ衣桁に似たる横木の上を左右へしばし歩み終り、忽然と金の幣(へい)帛(はく)と化し、空中に入や否や、中段に硝子にて作りし両堂、忽爾(こつじ)と左右へ引わかるゝと、その儘後の岩壁須臾に変じ奥の院万燈と成、数百の燈明かゞやき渡り、羞明(まはゆく)目覚る心地せり、細工の案じ能く拵へたり、扨又橋向広小路の真正面には、上にいふ女兄弟の曲馬あり、おのおの馬上にて躍狂言いろいろ曲乗をなせり、所謂草摺引弐人、椀久、京鹿子、団七九郎兵衛、石橋の類たり、乗人は勿論馬の馴て能足拍子をふめる事賞するに堪たり、此小屋の傍に鈎鐘を持上るといふ力持ちありて、われら三人桟敷へ上りて余程の間、色々曲持は見しかども、鈎鐘は大切にや持ぬらん、良時うつれどもせざりしまゝ見残して立出けり、此日は見せ物都合八つ見物しける、兼ての含とはいひながら、年季の丁稚が二季の宿下に出し如く、名ある見せ物を見尽したるは、酔狂とやいはん、馬鹿ものとや笑れん、論外といふべし、今是を書載る事は後々かゝる見せ物もありしといふを知らしめん為なり、云々 (『遊歴雑記』第四編巻之上)
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