落語の中の言葉・番外「江戸の町数」
享保七年における江戸の手習師匠「八百人あまり」は、何町に一人になるのかを考えてみたい。まずこの「八百人あまり」という手習師匠の数は武家地にいる手習師匠を含んだ数なのか、それとも町人地だけの数なのが問題である。
「有徳院殿御実紀附録巻十」には次のように書かれている。
「六諭衍義」の和解を「市井の塾師石川勘助某」に清書させ、それに序と跋を加えて「町奉行に下して梓行」させたとあるので町人地の手習師匠の数ではなかろうか。そうであれば手習師匠が何町に一人になるか計算するのに使える。武家地で手習師匠をしている人の数を含んでいる場合には使えない。というのは「町」は原則的に町人地だけにあって、武家地や寺社地にはないからである。武家地に番町とか御徒町とか「町」がついていても、それは地名であって町名ではない。町方の芳町・照降町・浜町と同じである。
江戸の土地は武家地が七割ほど町人地と寺社地が各一割五六分と云われている(内藤昌『江戸と江戸城』)。大名屋敷は大名に任せていたので、それ以外は幕府が管理し、町人地は町奉行、寺社地は寺社奉行がそれぞれ支配していた。江戸の周りの百姓地は代官(勘定奉行の配下)である。江戸八百八町などという町の数は二割に満たない町(門前町屋を含む)と町並地(これについては後述)にあった町数である。
享保の江戸の町数は『我衣』に九百拾八丁(享保戌年改め、享保十五年か)とあり、『享保通鑑』には千六百七拾弐町(享保六年改め)とある。
『我衣』の寛政四年1792のところには
『享保通鑑』と『我衣』の町数の違いは、どこまでを「江戸の町」と考えるかによるものと思われる。そもそも「江戸」の範囲が明確でない。
江戸の範囲が地図のうえに朱線を引いて明確化されたのは享保六年1721から約百年も後の文政元年1818である。
墨引は町奉行管轄の範囲である。勿論墨引内であっても武家地と寺社地は管轄外である。また朱引の後も町奉行支配地を江戸の範囲とすることもあったようである。
武家地・町人地・寺社地の区分はそれなりに厳格に守られていた。特に武家地は。
引用者註:江戸時代には「借」と「貸」が区別無く使われている。ここの「借」は貸すの意味である。
江戸が繁栄するにしたがい村方や寺社地が町化して行く。「江戸の繁栄」とは町人(商人や職人)の繁栄であって、武士は時代と共に衰微している。村方を支配する代官は下級旗本が任命され、五万石ほどの場所を管理したようである。配下も少なく、とても町奉行のような管理は出来ない。それで正徳三年1713に町屋敷化した村方を町奉行支配に組み入れた。この時組み入れたのは深川・本所・浅草・小石川・牛込・市ヶ谷・四谷・赤坂・麻布の二百五十九町といわれる。
年貢関係は代官、民政関係は町奉行の両支配になった。この地を町並地という。
また寺社地を支配する寺社奉行は勘定・町の両奉行と違い、石高の比較的小さい譜代大名が任命された。町奉行所の与力・同心のような専門職の配下はなく、役屋敷もない。自分の屋敷を役所とし、家来を使って寺社を管理するのであるから江戸の寺社の門前町屋を十分管理することは出来ない。そこで延享二年1745に寺社地の町屋は町奉行支配に組み入れられた。「寺社門前地四四〇ヵ所、境内二二七ヵ所」(内藤昌『江戸と江戸城』)という。
したがって享保六年時点では門前町屋はまだ寺社奉行支配である。おそらく『享保通鑑』は寺社門前町屋を含み、『我衣』は含まないことから来た違いであろう。
何寺門前という町は一般的な町に比べて極端に家数が少ない。文政八年1825の浅草の町方書上に見える門前町の家数を挙げると右表の通り。家数十軒未満が最も多く、三十軒未満で八割を占める。
手習師匠が一町当たり何人程に成るかを考えるのに寺社地にある門前町を含まない『我衣』の数字を使うと一町に0.8ないし0.9人となる。
ついでに武家地への町人の進出についても触れておこう。旗本などは比較的広い屋敷地を与えられている一方、懐は苦しい。敷地の一部を貸して地代を得ることがかなり広く行われていたようである。禁止されていた町人に貸して処罰されてもいる。
約五十年ぶりの禁令におもしろいことも起きている。
『馬琴日記』の文政十年二月十五日の条
すでに「医者」で採り上げたように、医者は大部分が剃髪であり、また町人以上の扱いをされていたので武家地を借りて住むことが出来た。それで剃髪して医者に化けたのである。馬琴自身も旗本の地所に建てられた家に住んでいた。これは旗本の借地に建てられた家を買って息子宗伯と馬琴の妻を住まわせ、自分は娘とそれまでの飯田町の家に住んでいたが、娘婿に飯田町の家も家主役も名前の清右衛門をも継がせて宗伯の家に同居している。宗伯は松前藩に抱えられていた医者であるからこの禁令には触れない。
ちなみに馬琴の支払った地代は天保三年の記載では七月六日に「六月分迄の地代金弐両壱分」、十二月廿五日に「当七月ゟ十二月分迄、閏月共、地代金弐両弐分弐朱」である。一月当たり壱分弐朱になる。
門前町屋は家数が極めて少なく小さな「町」であるが、町並地とともに実質的に増えている。町数の増加には名目的なものも多い。浅草の旅籠町を例に見てみよう。
切絵図「東都浅草絵図」には「旅籠町」の文字を含む町が六つある。旅籠町一丁目代地、旅籠町二丁目代地、新旅籠町、新旅籠町代地、元旅籠町一丁目、元旅籠町二丁目。
浅草の町方書上に基づいて整理すると一部年度の不一致もあるが概ね以下のようになろう。
往昔、元旅籠町一二丁目の辺に「旅籠町」があった。
①寛文八年1668、その一部が火除地として召し上げられ代地を与えられて「新旅籠町」が出来る。
②享保十七年1732「新旅籠町」が類焼してまたもその一部が火除地として召し上げられ代地を与えられて「新旅籠町代地」が出来る
③元地の旅籠町が一丁目と二丁目に分かれる。
④享保三年1718に類焼した節、奥行二十間のところ十二間を火除地に仰付られたが、八間の残地と十二間分の代地となっては難儀であるから全部を代地にしてほしいと願出て代地を与えられ「旅籠町代地」ができる。
⑤召し上げられた旧地は、奥行十二間は火除地となり八間は空き地のままであった。享保五年1720その空き地を蔵地にしたいと願出て許され拝借地となり「元旅籠町」の名を命じられた。(その後享保十三年1728表五間の拝借上納を願って許可され、奥行十三間の土地になる。天明四年1784買取を願い出て許可される。)
その結果、旅籠町一丁目代地、旅籠町二丁目代地、新旅籠町、新旅籠町代地、元旅籠町一丁目、元旅籠町二丁目になった。その他本所に、本所林町三丁目、本所林町四丁目、本所緑町二丁目ができている。
旅籠町が特別ではなく何々代地あるいは新何々町という町名を持った町が多くある。また代地に移った際に新しい名前にしている所もある。慶長の三百町・明暦の五百町から天保の千六百以上に増えたといってもすべてが実質的増加だった訳ではない。またもともと町奉行支配であった町にも様々な事由から家数三十未満の町もある。したがって例えば蕎麦屋が江戸に何軒あったからといって、それを門前町屋を含んだ町数で割って一町に何軒と計算しては実態とは合わないことになる。
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「有徳院殿御実紀附録巻十」には次のように書かれている。
其ころ松平薩摩守吉貴に琉琉国の政事文学のさまども御尋ありしかば。薩摩守より彼国の風俗ども聞えあぐるとて。程順則が著したる六諭衍義を献じたり。其書初学のものにたよりあるべしとて。室新助直清(引用者註:室鳩巣)に訳せしめらる。しかるに多くかの国の俗語にて書しものなれば。かの国の俗語をよく解したるものに。命じ給はんにはしかじと答へたてまつる。是によて荻生惣右衛門茂卿(引用者註:荻生徂徠)こそしかるべけれとて。やがてかれに命ぜられけるに。日ならすして訳したてまつる。後直清御前に候せしに。この書を出してしめし給ひ。世の風教のたすけともなるべければ。国字に解すべしとの御事なり。直清うけたまはりて家に帰り。和解三冊につゞりて進覧す。其体裁はのこる所なく感じ思しめすといへども。かくては詳かなるに過て。わらはべなどには弁へがたかるべし。今少しさとしやすきやうにあらたむべしと仰あり。重ねてこれを刪りかれを改め。二冊となして御覧に備ふ。これにて文意もはやく聞え。御旨にもかなひたれとて。市井の塾師石川勘助某をしてこれをかかしめられ。直清に序跋を加ふべしと仰あり。やがて其詞をつくり。御前にもち出てよみけるに。かたじけなくも御筆をさへ添給ひ。遂に町奉行に下して梓行せらる。さて勘助をば大岡越前守忠相の廳にめして褒銀など下されける。かくて府下のわらはべに。手習さする事をすぎはひとするものゝ数を尋ねられしに。八百人にあまれり。其中に名の聞えたひものは。勘助をはじめ十人ばかりなりしを。いづれも町奉行の廳によびて。新刻六諭和解各一冊をあたへける。これかの塾師等が無益の事かきて。わらはべにさづけんより。これらのことをかきてならはせなば。童教のたよりともなるべしとの御旨とぞ聞えける。
「六諭衍義」の和解を「市井の塾師石川勘助某」に清書させ、それに序と跋を加えて「町奉行に下して梓行」させたとあるので町人地の手習師匠の数ではなかろうか。そうであれば手習師匠が何町に一人になるか計算するのに使える。武家地で手習師匠をしている人の数を含んでいる場合には使えない。というのは「町」は原則的に町人地だけにあって、武家地や寺社地にはないからである。武家地に番町とか御徒町とか「町」がついていても、それは地名であって町名ではない。町方の芳町・照降町・浜町と同じである。

享保の江戸の町数は『我衣』に九百拾八丁(享保戌年改め、享保十五年か)とあり、『享保通鑑』には千六百七拾弐町(享保六年改め)とある。
『享保通鑑』
一、当丑年(享保六年1721)之武江人別
男、弐拾弐万千百七拾五人
女、弐拾五万弐千八百七拾四人
壱人ニ付米五合宛、一日ニ弐千六百三拾壱石
壱斗、一ヶ年、九拾四万七千九拾九石六斗三升、
但、御所武家方者除之、
(中略)
町 数 千六百七拾弐町
寺 数 弐千八百九拾八ヶ寺
家 数 拾弐万八千百拾五軒
『我衣』の寛政四年1792のところには
江戸町数、享保戌年改る所、惣町数九百拾八丁。延享二丑年1745閏二月中寺社奉行より町方へ御引渡に相成候寺社門前町、五百五拾壱ヶ所程。当寛政年中に至り町数千六百七拾四町、内寺社門前町五百三拾五ヶ所。本所深川奉行相止候は、享保四亥年1719四月也。正徳年中(引用者註:正徳三年1713)町方支配に成。但御年貢地は御代官へ相納、両支配に成る。今は町奉行の与力同心本所深川掛り相はじまる也。
『享保通鑑』と『我衣』の町数の違いは、どこまでを「江戸の町」と考えるかによるものと思われる。そもそも「江戸」の範囲が明確でない。
我等廿歳頃迄は、白山、牛込辺の人、神田辺或は日本橋辺へ出る節は、下町へ行の、家来は下町へ使にやりたり抔(など)といふ、また浅草近辺の者は、神田、日本橋辺へ出るをば、江戸へ行といひけり、山の手、浅草辺は、近年迄田舎に有けるの通言也、近頃、下町へ行、江戸へ行といふ人絶て無し、(小川顕道『塵塚談』文化十一年1814 顕道は元文二年丁巳1737の生まれ)
深川 〔川〕けふはおりほうやおまぼうはどうした。見へねへの。〔つる〕小船(せん)さんの迎に江戸へ行やした。(蓬莱山人帰橋『伊賀越増補合羽之龍』安永八年1779)
〔仲の町の茶屋の女房〕おめへさんの気がすまざア、今に喜兵へを、ゑどへつかはしますから、おふみでもおあげなさいませ (十返舎一九『狐窠這入』享和二年1802自序)
江戸の範囲が地図のうえに朱線を引いて明確化されたのは享保六年1721から約百年も後の文政元年1818である。
墨引は町奉行管轄の範囲である。勿論墨引内であっても武家地と寺社地は管轄外である。また朱引の後も町奉行支配地を江戸の範囲とすることもあったようである。
武家地・町人地・寺社地の区分はそれなりに厳格に守られていた。特に武家地は。
寛文七未年1667十月
覚
一従此以前如被 仰出之、所々明地ニ家を作出儀、堅御制禁之條、
明春以御検使可被相改之、若新規に家を作出輩有之ニおいてハ、
可為曲事事、
一奉公人(引用者註:幕府奉公人の意で旗本御家人のこと)屋敷之内
商売人に借之儀弥御停止也、万一借輩於有之は、是又可為曲事事、
一自今以後、御料私領之百姓幷寺社領等之地をかし、家をつくらせ
候もの於有之は、可為曲事事、
附、所により断之上可任指図事、
十月 (『御触書寛保集成』)
引用者註:江戸時代には「借」と「貸」が区別無く使われている。ここの「借」は貸すの意味である。
江戸が繁栄するにしたがい村方や寺社地が町化して行く。「江戸の繁栄」とは町人(商人や職人)の繁栄であって、武士は時代と共に衰微している。村方を支配する代官は下級旗本が任命され、五万石ほどの場所を管理したようである。配下も少なく、とても町奉行のような管理は出来ない。それで正徳三年1713に町屋敷化した村方を町奉行支配に組み入れた。この時組み入れたのは深川・本所・浅草・小石川・牛込・市ヶ谷・四谷・赤坂・麻布の二百五十九町といわれる。
正徳三年閏五月十五日
けふ令やられしは。近郊農地に設けし鄽肆(てんし)。これまで代官に隷せしが。代官はかの市鄽をかねつかさどりては。ことさら繁劇なれば。今より租税をはじめ。其地にかゝりし事は。旧のごとく代官つかさどり。市店にあづかりしことは。町奉行より沙汰すべし。されば町。勘定の奉行。代官にはかり。そのさまよろしく沙汰すべしとなり。(「有章院殿御実紀巻四」)
年貢関係は代官、民政関係は町奉行の両支配になった。この地を町並地という。
また寺社地を支配する寺社奉行は勘定・町の両奉行と違い、石高の比較的小さい譜代大名が任命された。町奉行所の与力・同心のような専門職の配下はなく、役屋敷もない。自分の屋敷を役所とし、家来を使って寺社を管理するのであるから江戸の寺社の門前町屋を十分管理することは出来ない。そこで延享二年1745に寺社地の町屋は町奉行支配に組み入れられた。「寺社門前地四四〇ヵ所、境内二二七ヵ所」(内藤昌『江戸と江戸城』)という。
喜多村ニ而年番名主江被申渡
覚
寺社方江附候町屋之分不残、向後町御奉行所御支配ニ相成候間、此旨を被存、組合江も早々可被達候、
以上
(延享二年)丑閏十二月十五日 (『江戸町触集成』第五巻)

何寺門前という町は一般的な町に比べて極端に家数が少ない。文政八年1825の浅草の町方書上に見える門前町の家数を挙げると右表の通り。家数十軒未満が最も多く、三十軒未満で八割を占める。
手習師匠が一町当たり何人程に成るかを考えるのに寺社地にある門前町を含まない『我衣』の数字を使うと一町に0.8ないし0.9人となる。
ついでに武家地への町人の進出についても触れておこう。旗本などは比較的広い屋敷地を与えられている一方、懐は苦しい。敷地の一部を貸して地代を得ることがかなり広く行われていたようである。禁止されていた町人に貸して処罰されてもいる。
文政八年1825六月十四日、於本多遠江守宅、御目付新見伊賀守立合申渡、
昌平橋御門内右の角 御番御医師
山 田 宗 悦
右拝領長屋を町人共え借置候儀は勿論、屋敷地之内他人え借置候儀も不相成事にて、先年相触候儀も有之候処、其方長屋を町人等え借置候趣相聞、不束之事に候に付、御穿鑿をも可被遂候得共、此度は不被及其沙汰に候、依之屋敷被召上差扣(さしひかえ)被仰付候、
筋違御門外御成小路
小普請組
佐野肥前守支配
高四百俵 三 浦 藤 五 郎
右宗悦同様文言、屋敷被二召上一差扣被二仰付一候、(『宝暦現来集』)
文政九年1826
屋鋪之内を町人等ニ貸置候儀、前々ゟ御制禁ニ候、弥堅差置申間鋪候、至来春ニ可相改候間可存其旨候右之通安永八亥年1779相触候処、近来猥ニ相成、屋敷地面之内は勿論、長屋をも町人等ニ貸置候趣相聞候、弥右之趣相守、心得違無之様可致候、尤追而可相改候間可存其趣候
右之通可被相触候
六月
右之通御書付出候間、為心得可相触旨、従町御奉行所被仰渡候間、町中不残可相触候、以上
六月廿一日 町年寄役所
(『江戸町触集成』第十二巻)
約五十年ぶりの禁令におもしろいことも起きている。
『馬琴日記』の文政十年二月十五日の条
一、亀や文宝来ル。予、対面。明後十七日剃髪いたし候よし、申之。近来、浅草御先手組やしき三筋町ニ罷在候処、此節、町人隠居、武家地ニ不被差置候ニ付、旧冬引払、親類方へ同居いたし罷在候。然ル処、医者ハ不苦趣ニ付、何分旧所へかへり度願ひにて、不得已剃髪のよし。定而故あるべき事ながら、不自由なる事ニ相聞え、一笑ニ附スベし。(『曲亭馬琴日記』第一巻)
すでに「医者」で採り上げたように、医者は大部分が剃髪であり、また町人以上の扱いをされていたので武家地を借りて住むことが出来た。それで剃髪して医者に化けたのである。馬琴自身も旗本の地所に建てられた家に住んでいた。これは旗本の借地に建てられた家を買って息子宗伯と馬琴の妻を住まわせ、自分は娘とそれまでの飯田町の家に住んでいたが、娘婿に飯田町の家も家主役も名前の清右衛門をも継がせて宗伯の家に同居している。宗伯は松前藩に抱えられていた医者であるからこの禁令には触れない。
ちなみに馬琴の支払った地代は天保三年の記載では七月六日に「六月分迄の地代金弐両壱分」、十二月廿五日に「当七月ゟ十二月分迄、閏月共、地代金弐両弐分弐朱」である。一月当たり壱分弐朱になる。
門前町屋は家数が極めて少なく小さな「町」であるが、町並地とともに実質的に増えている。町数の増加には名目的なものも多い。浅草の旅籠町を例に見てみよう。
切絵図「東都浅草絵図」には「旅籠町」の文字を含む町が六つある。旅籠町一丁目代地、旅籠町二丁目代地、新旅籠町、新旅籠町代地、元旅籠町一丁目、元旅籠町二丁目。
浅草の町方書上に基づいて整理すると一部年度の不一致もあるが概ね以下のようになろう。
往昔、元旅籠町一二丁目の辺に「旅籠町」があった。
①寛文八年1668、その一部が火除地として召し上げられ代地を与えられて「新旅籠町」が出来る。
②享保十七年1732「新旅籠町」が類焼してまたもその一部が火除地として召し上げられ代地を与えられて「新旅籠町代地」が出来る
③元地の旅籠町が一丁目と二丁目に分かれる。
④享保三年1718に類焼した節、奥行二十間のところ十二間を火除地に仰付られたが、八間の残地と十二間分の代地となっては難儀であるから全部を代地にしてほしいと願出て代地を与えられ「旅籠町代地」ができる。
⑤召し上げられた旧地は、奥行十二間は火除地となり八間は空き地のままであった。享保五年1720その空き地を蔵地にしたいと願出て許され拝借地となり「元旅籠町」の名を命じられた。(その後享保十三年1728表五間の拝借上納を願って許可され、奥行十三間の土地になる。天明四年1784買取を願い出て許可される。)
その結果、旅籠町一丁目代地、旅籠町二丁目代地、新旅籠町、新旅籠町代地、元旅籠町一丁目、元旅籠町二丁目になった。その他本所に、本所林町三丁目、本所林町四丁目、本所緑町二丁目ができている。
旅籠町が特別ではなく何々代地あるいは新何々町という町名を持った町が多くある。また代地に移った際に新しい名前にしている所もある。慶長の三百町・明暦の五百町から天保の千六百以上に増えたといってもすべてが実質的増加だった訳ではない。またもともと町奉行支配であった町にも様々な事由から家数三十未満の町もある。したがって例えば蕎麦屋が江戸に何軒あったからといって、それを門前町屋を含んだ町数で割って一町に何軒と計算しては実態とは合わないことになる。
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