落語の中の言葉157「都々逸(都々一)」
落語には都々逸がよく出て来る。
五代目柳家小さん「試し酒」
お酒飲む人花なら蕾、今日も咲け(酒)さけ明日もさけ
あだな立て膝鬢かきあげて、わすれしゃんすな今のこと
九代目桂文楽「試し酒」
明けの鐘、ゴンとなる頃三日月型の、櫛が落ちてる四畳半
雨戸叩いてもし酒屋さん、無理いわぬ酒頂戴な
六代目三遊亭円生「妾馬」
三日月は、やせるはずだよありゃ病み(闇)上がり、それにさからう時鳥
この酒を、止めちゃいやだよ酔わしておくれ、まさか素面(しらふ)じゃいいにくい
悪縁か、因果同士か敵の末か、添われぬ人ほどなお可愛いイ
六代目三遊亭円生「居残り佐平次」
浮き名立ちア、それも困るし世間の人に、知らせないのも惜しい仲
九代目入船亭扇橋「応挙の幽霊」
三途の川でも棹さしゃ届く、なぜに届かぬ我が思い
辞書によると
都々逸節があって、それを都々逸(一)坊扇歌が弘めたのか、都々逸坊扇歌が唄った節を都々逸と呼ぶようになったのかはっきりしない。
『守貞謾稿』巻之二十三には次のように書かれている。
よしこの節についてはあまり例を知らない。潮来節は『了阿遺書』中巻に
天明(1781-89)の昔、潮来曲あり、曰、須磨や明石のしほやき衣、きてはないたりなかせたり、了阿曰、詞のつゞき実に感心せり、
とある。また山東京伝『繁千話(しげしげちわ)』(寛政二年1791)には遊女たちが集まって話をするところに
これらの潮来節はすべて七・七・七・五となっているが、そうでない潮来もある。
ぶてのたゝけの しめろのと かもやはじろじゃ あるまいし(『部屋三味線』寛政年間?)
けいせいに まことなしとは 誰がいふた 目くろにのこせし
ひよくつか(『手管見通 五臓眼(めがね)』寛政年間?)
上図は歌川豊国の品川遊興の図の一部 寛政期のものなのでまだ都々逸はない
『守貞謾稿』には、よしこの節には「異章あまた」あるも「長短なく」とある。一方都々逸節には「章句長短あり」と書かれている。落語に出て来るものも七・七・七・五の他に五・七・七・七・五のものが多くある。
都々逸坊扇歌について『守貞謾稿』巻之二十八には
斎藤月岑も『百戯述略』(『燕石十種』解題、「明治初年東京府知事楠本正隆の諮問により、斎藤月岑の答申せし稿本なり。」)で
と述べている。
広辞苑には「ふつう七・七・七・五の四句を重ねる」とあるが、都々逸坊が活躍する五十年以上も前に流行った潮来も多くは七・七・七・五である。都々逸が最初ではない。また『守貞謾稿』にも『百戯述略』にも都々逸坊扇歌は客になぞを出させ唄って解いたとある。ただ『守貞謾稿』にある天王寺の塔を解いた歌は七・七・七・五になっていない。唄って解くことと都々逸を唄うことは別だったようである。
昭和に書かれたものであるが柳生四郎編『都々一坊扇歌』(今泉哲太郎『どゞ一坊のはなし』昭和九年の再録)には次のようにある。
謎を歌で解くことも天保より三十年も前の文化のはじめに流行っている。
『退屈晒落』(文化三年1806自序)の女郎買で芸者をあげて騒ぐところに、
七・七・七・五の歌は昔から有り、なぞを唄って解くことも都々逸坊が出る三十年も前に流行している。都々逸坊が流行らせたのは節回しだけだったようである。
また辞書類には主に男女相愛の情を唄ったものとあるが、都々一坊が唄ったものにはその種のものは少ないようである。俗謡は花街から流行り出すことが多いのではないかと思うが、都々逸は寄席からである。それが花街に波及して一層盛んになったようで、都々逸が情歌になったのは後のことのように思われる。
柳生四郎編『都々一坊扇歌』が再録している今泉義文「初代都々一坊扇歌のこと」に載っている扇歌作の都々一は次の通り。
白鷺が 小首かしょげて 二の足踏んで やつれ姿の 水鏡
たんと売れても 売れない日でも 同じ機嫌の 風車
親が薮なら わたしも薮よ 薮に鶯 啼くわいな
薮うぐいすの わたしじゃとても 鳴く音にかわりが あるものか
わたしや深山の 一ト本桜 八重に咲く気は 更にない
磯部田甫の ばらばら松は 風もないのに 気が揉める
こうしてこうすりゃ こうなることと 知りつつこうして こうや(な?)った
都々一も うたいつくして 三味線枕 こうも眠たく なるものか
今日の旅 花か紅葉か 知らないけれど 風に吹かれて 行くわいな(臨終の謡)
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五代目柳家小さん「試し酒」
お酒飲む人花なら蕾、今日も咲け(酒)さけ明日もさけ
あだな立て膝鬢かきあげて、わすれしゃんすな今のこと
九代目桂文楽「試し酒」
明けの鐘、ゴンとなる頃三日月型の、櫛が落ちてる四畳半
雨戸叩いてもし酒屋さん、無理いわぬ酒頂戴な
六代目三遊亭円生「妾馬」
三日月は、やせるはずだよありゃ病み(闇)上がり、それにさからう時鳥
この酒を、止めちゃいやだよ酔わしておくれ、まさか素面(しらふ)じゃいいにくい
悪縁か、因果同士か敵の末か、添われぬ人ほどなお可愛いイ
六代目三遊亭円生「居残り佐平次」
浮き名立ちア、それも困るし世間の人に、知らせないのも惜しい仲
九代目入船亭扇橋「応挙の幽霊」
三途の川でも棹さしゃ届く、なぜに届かぬ我が思い
辞書によると
流行俗謡の一。雅言を用いず、主に男女相愛の情を口語をもって作り、ふつう七・七・七・五の四句を重ねる。「潮来節」「よしこの節」より転化したという。天保1830-44年間、江戸の寄席でうたいはやらせた一人が都々逸坊扇歌。(『広辞苑』)
俗曲の一つ。雅言を用いないで、主に男女の相愛の情を口語をもって作り、普通、七・七・七・五の四句二六音から成る。潮来節を母胎にして文化文政の頃に尾張国熱田から伝えられた神戸節(ごうどぶし)を、天保年間に江戸の都々逸坊扇歌が新たに作詞改曲したもの。(『日本国語大辞典』)
都々逸節があって、それを都々逸(一)坊扇歌が弘めたのか、都々逸坊扇歌が唄った節を都々逸と呼ぶようになったのかはっきりしない。
『守貞謾稿』巻之二十三には次のように書かれている。
潮来節 常州行方(なめかた)郡潮来村に行はれし曲節にて、近世、諸国に行はれし唱歌、多くは鄙陋なり。その唱歌を伝へ知る人に遇はず。今世、江戸にて婦女等たまたま唄ふもの一章あり、左に誌す。
〽いたこ出嶋のまこもの中に、あやめさくとはしほらしや。
佃節 天保比よりか、あるひは天保より古きか。江戸深川の妓歌にて当所の名物とし、あらあら不易に似て今に廃せず。屋根舟、猪牙舟にてこれを弦唄すれば、その舟自づから迅走すと云ふ。最繁絃なり。
〽ふけや川かぜ、あがれよすだれ、中の小うたの顔見たや。
よしこの節 文政三、四年比より行はれ、三都ともに専らこれを唄ふ。娼妓も専らこれを唄ひ、宴席に興す。異章あまたあり。長短なく左に記すを原歌とす。
〽まゝよ三度笠、よこちよにかむり、たびは道づれ、世はなさけ。
どゞいつ節 よしこの一変してどゞいつ節となるなり。故にその節曲これに似て、わづかに転ず。章句長短あり。専ら恋情を作れり。今に至りて廃せず。宴席専らこれを弦歌して、あらあら不易に似たり。けだし曲節往々わづかに変ず。また三都ともにしかり。
〽あきらめましたよ、どうあきらめた、あきらめられぬと、あきらめた。
よしこの節についてはあまり例を知らない。潮来節は『了阿遺書』中巻に
天明(1781-89)の昔、潮来曲あり、曰、須磨や明石のしほやき衣、きてはないたりなかせたり、了阿曰、詞のつゞき実に感心せり、
とある。また山東京伝『繁千話(しげしげちわ)』(寛政二年1791)には遊女たちが集まって話をするところに
〔部屋持・月の戸〕鳥待さん。そりやアなんだへ 〔袖留新造・鳥待〕いたこを書た本ざんす 〔月の戸〕そつからちつとよんでお聞セなんしナ 〔鳥待〕誰が書たか、いつそよめんせんヨ (トかんざしをぬいてあんどうをかきたて) 「わしも一ト重に咲花なれど、勤あさまし八重に咲ク」こがれ死にももし死だなら、頼ますぞや跡の事「色をするなといはんすけれど、花じや若木じや散ぬうち」葉手にするなといはんすけれど、これは互に目にも立 〔番頭女郎・風荻〕きつい頃日のおめへと云もんだの 〔鳥待〕後生でござんさあな 〔月の戸〕跡をおよみなんしヨ 〔鳥待〕「人のうわきを笑ふたわしが、今はぬしゆへわらはれる」年と今宵ととりかへほしや、長し短しまゝならぬ「主に逢ふたるその翌日は、なまけ姿でうかうかと」つらい中にも又顔見れば、まゝよまゝよで日をくらす「手鍋さげよと口ではいへど、じつはのりたや玉の輿
これらの潮来節はすべて七・七・七・五となっているが、そうでない潮来もある。
ぶてのたゝけの しめろのと かもやはじろじゃ あるまいし(『部屋三味線』寛政年間?)
けいせいに まことなしとは 誰がいふた 目くろにのこせし
ひよくつか(『手管見通 五臓眼(めがね)』寛政年間?)
上図は歌川豊国の品川遊興の図の一部 寛政期のものなのでまだ都々逸はない
『守貞謾稿』には、よしこの節には「異章あまた」あるも「長短なく」とある。一方都々逸節には「章句長短あり」と書かれている。落語に出て来るものも七・七・七・五の他に五・七・七・七・五のものが多くある。
都々逸坊扇歌について『守貞謾稿』巻之二十八には
また今世江戸に扇歌と云ふ遊民坊主あり。三絃およびどゞ一節と云ふ小唄を能(よ)くし、寄せと云ふ席に出て、銭を募りてこれを行ふ。その時、諸人、何曾(なそ)を掛ける。たちまち三絃をひき、どゞ一の節を付け、これを解く。故になぞなぞ坊主とも云ひ、どゞ一坊とも云ふ。その謎の一、左に記す。ある人、天王寺の塔とかけたり。これ大坂にてのことなり。かけるは、問をかけるの略なり。たちまち三絃をひきて、「天王寺の塔とかけてはゑ(繰返し)、虎屋の饅頭と解くわいな(繰返し)、とうて五じうじやなひかいな」。天王寺の宝塔五重なり。また大坂名物高麗(こうらい)ばし虎やのまんぢう一価五銭、十すなはち五十文なり。十(と)をと塔と、五重と五十を通じ解けり。あに頓才ならすや。
斎藤月岑も『百戯述略』(『燕石十種』解題、「明治初年東京府知事楠本正隆の諮問により、斎藤月岑の答申せし稿本なり。」)で
○謎、永正十三年「御撰なぞ合」は、塙検校の「群書類従」に載有之、昔は掛ると解くとの二つに有之、後世は掛て解く、其心は何々と、三口に分け候儀に御座候処、文化十一戌年、奥州二本松より、なぞ坊主春雪と申、廿歳位に相見え候もの御当地へ出、浅草寺奥山に場を構へて、銭を受け、聴衆を入、なぞを掛させ、即座に解き聞せ候に付、世上に行れ、此まねをいたし候ものも出来申候、近年、都々一坊扇歌と申ものも寄せ場へ出、見物になぞを掛させ、三味線に合、其なぞを唄にうたひて解候趣に御座候、女にも、右を学び候て、寄せ場へ出候ものも御座候、
と述べている。
広辞苑には「ふつう七・七・七・五の四句を重ねる」とあるが、都々逸坊が活躍する五十年以上も前に流行った潮来も多くは七・七・七・五である。都々逸が最初ではない。また『守貞謾稿』にも『百戯述略』にも都々逸坊扇歌は客になぞを出させ唄って解いたとある。ただ『守貞謾稿』にある天王寺の塔を解いた歌は七・七・七・五になっていない。唄って解くことと都々逸を唄うことは別だったようである。
昭和に書かれたものであるが柳生四郎編『都々一坊扇歌』(今泉哲太郎『どゞ一坊のはなし』昭和九年の再録)には次のようにある。
天保九年(一八三八)八月、都々一坊は初めて江戸牛込藁店の寄席にお目見得をし、持ち芸のトッチリトン都々一節、大津絵節、三味線曲びき、浮世噺、横笛、その他諸芸を演(や)って見せた。その美音と才芸は、たちまち江戸中の評判となり、江戸芸人仲間での名物男となった。ことに都々一坊はなぞ解きの名人で、俗になぞ坊主と云われ、お客から題をもらっては、その題を三味線ではやし、唄に唄いながら、何か何してなんじゃいな、という風に拍子をとり、そのなんじゃいなを三度くり返しているうちに、如何なる難題でも当意即妙の答を考えて、唄で解いて行った。
謎を歌で解くことも天保より三十年も前の文化のはじめに流行っている。
『退屈晒落』(文化三年1806自序)の女郎買で芸者をあげて騒ぐところに、
芸者三味線をとって。いたこ。いろいろあつて。段々にぎやかになるト。
〔客・重〕コレコレいたこはもふよして。何ぞはやり歌を。御願御願
〔皆々〕よふ御ざいましやう △此時芸者調子を二上りニしてはやり歌
△なぞなぞかけよがとかんすか。いぢのわるい女郎衆とかけてはへ。やぶれた。傘じゃと。とくわいな。其心はへ。ツチリチッツチリチッツチリチッさせそで。させんじゃないかいな。よふあてさんした。うそはない
七・七・七・五の歌は昔から有り、なぞを唄って解くことも都々逸坊が出る三十年も前に流行している。都々逸坊が流行らせたのは節回しだけだったようである。
また辞書類には主に男女相愛の情を唄ったものとあるが、都々一坊が唄ったものにはその種のものは少ないようである。俗謡は花街から流行り出すことが多いのではないかと思うが、都々逸は寄席からである。それが花街に波及して一層盛んになったようで、都々逸が情歌になったのは後のことのように思われる。
柳生四郎編『都々一坊扇歌』が再録している今泉義文「初代都々一坊扇歌のこと」に載っている扇歌作の都々一は次の通り。
白鷺が 小首かしょげて 二の足踏んで やつれ姿の 水鏡
たんと売れても 売れない日でも 同じ機嫌の 風車
親が薮なら わたしも薮よ 薮に鶯 啼くわいな
薮うぐいすの わたしじゃとても 鳴く音にかわりが あるものか
わたしや深山の 一ト本桜 八重に咲く気は 更にない
磯部田甫の ばらばら松は 風もないのに 気が揉める
こうしてこうすりゃ こうなることと 知りつつこうして こうや(な?)った
都々一も うたいつくして 三味線枕 こうも眠たく なるものか
今日の旅 花か紅葉か 知らないけれど 風に吹かれて 行くわいな(臨終の謡)
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