落語の中の言葉154「裏長屋2/4・路次」
今回は裏長屋の路次をとりあげる。
京橋柳町の裏長屋(興津要『大江戸長屋ばなし』より)
町には木戸があって木戸番人(俗に番太郎という)がいるが、裏長屋の路次にも木戸があっって、夜間は閉められた。いつ閉められたかははっきりしない。三田村鳶魚氏は門限について述べたところで、見附について「朝の六ツにあけて、暮の六ツに締める。暮六ツ以後はどうするかと言いますと、潜り門があって、そこから出入りするのです」といい、続いて路次の木戸について次のように述べている。
もとになる史料の名はあげていない。路次の木戸には潜りはない。また「錠を長屋の月番に預けて置き」とあるが、木戸の鍵は家守(大家)が持っていることが多かったように思われる。
跡ト月をやらねは路地もたゝかれす 誹風柳多留初篇
下駄さげて通る大屋の枕元 誹風柳多留初篇
正月ハもみ手で路地のかぎをかり 誹風柳多留二篇
「元禄十三、十四年元禄咄聞書」(『元禄世間咄風聞集』)には(夜の)四つ半時分に成ったから路次の木戸が閉められないうちに帰ろうといっている。四つ半は十一時頃である。
大屋のかみさんも夜鷹稼ぎに出ているとあるが、家守にはピンからキリまであって、なかには「その日稼ぎ」の者もあった。天保二年米高値のためその日暮らしの者に御救米を支給するとき、その対象者を書き出す際の目安として次のように書かれている。
木戸を閉める時刻に戻ると、天明七年1787には、付火が多いため怪しい者は見かけ次第召捕、訴えよとの町触が出されたが、その中に三月いっぱい迄は、町木戸は四つに閉めて町送り、路次は暮六に閉めるよう命じている。
嘉永元年1848にも「夜分之儀ハ路次暮六時限〆切、路次内ハ店子之もの共申合、時半時小半時廻り共入念相廻シ、出火無之様守方町内限一同厚心得、情々相廻り可申候」と触れられている。
また天明と嘉永の中間である文化十一年1814刊の『柳髪新話浮世床第二編』の挿絵について
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに公開されている『浮世床』(岡安平九郎翻刻 明治十九年栄文舎刊)の挿絵で確かめると貼り紙の文字は「ろじ暮六時限」である。また「夕方六ッ時(日歿時をさす)」とあるが、暮六つは日暮れであって日歿ではないことは番外「明六つ」で述べた通りである。
路次の木戸を閉め切る時刻は時代や社会状況によって変わっているのであろうか。暮れ六つに閉めるといっても、鳶魚氏の云うように戸をたてるだけで鍵をしめるのはもっと遅かったのではないだろうか。
また、路次の溝(どぶ)や溝板について、落語には溝板がはねるから気を付けろ、あるいは壊れているから気を付けろなどと出て来るが、具体的な姿はわからない。
三谷一馬氏は『江戸庶民風俗図絵』のなかに、人情本『春色雪の梅』にある「長屋の門口」に基づく絵を出し、棟割長屋と呼ばれるものであるとことわった上で、
「路次は三尺、中央に三寸か七寸位の溝があり、(座敷の)広さは二畳か三畳で、他は板の間です。(以下略)」と書いている。
路次の幅が三尺ほどであれば、両側の家の廂を表通りのように長く出せば雨に濡れずに通れるはずであるが、路次に屋根を付けたり廂を長く出したりすることは禁止されていた。
享保四年のこの申渡しでは「路次之口も戸斗に致、上ニ鴨居等之物仕付候儀、無用可仕」とあるが鴨居を付けないでどのように戸をたてたのであろうか。前にあげたように百年ほど後の『浮世床』の挿絵では鴨居の上の屋根には忍び返しまで付いている。
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京橋柳町の裏長屋(興津要『大江戸長屋ばなし』より)
町には木戸があって木戸番人(俗に番太郎という)がいるが、裏長屋の路次にも木戸があっって、夜間は閉められた。いつ閉められたかははっきりしない。三田村鳶魚氏は門限について述べたところで、見附について「朝の六ツにあけて、暮の六ツに締める。暮六ツ以後はどうするかと言いますと、潜り門があって、そこから出入りするのです」といい、続いて路次の木戸について次のように述べている。
町家の路地路地にある木戸でもそうです。夜分は亥の刻(午後十時)限りで締めることになっている。長屋の路地などになりますと、おきまり通りでなしに、戌の上刻(午後八時)になると締めて、錠を長屋の月番に預けて置き、亥の刻に至って、はじめて本当に締める。それまでは、錠をかけずにおくのです。(以下略)(『江戸の生活と風俗』)
もとになる史料の名はあげていない。路次の木戸には潜りはない。また「錠を長屋の月番に預けて置き」とあるが、木戸の鍵は家守(大家)が持っていることが多かったように思われる。
跡ト月をやらねは路地もたゝかれす 誹風柳多留初篇
下駄さげて通る大屋の枕元 誹風柳多留初篇
正月ハもみ手で路地のかぎをかり 誹風柳多留二篇
「元禄十三、十四年元禄咄聞書」(『元禄世間咄風聞集』)には(夜の)四つ半時分に成ったから路次の木戸が閉められないうちに帰ろうといっている。四つ半は十一時頃である。
一 芝辺に住宅之牢人、女房を毎夜よたかに出し、其たりき(他力)を以一日一日と暮し居候処に、隣に罷有候牢人に咄合候は、「何といたし候ても、我が女房を見る見る数人に不儀をいたさせ気之毒存候間、いざ其方同意に候はゞ、其方女房を某(それがし)連れ可申候。左候はゞ其方は我等女房を同道いたし給候へ」と申候へば、「いかにも某もその通に存候間、今晩より其通にいたし候はん」とて、互にかへ合召連出候由。然所に最早四つ半時分に成候故、牢人申候は、「最早四つ半時分に成候故可罷帰候。門を打候はゞ入候儀難成候間、早々罷帰候はん」と申候由。女房申候は、「御気遣被成間敷候。今晩計(ばかり)は九つ・八つ時分迄居候ても不苦候」由申候。牢人申候は、「いかゞ存、左様に申候哉」と申候へば、「今晩は大屋様のかみ様も御出被成候間、不苦候」由申候と也。
大屋のかみさんも夜鷹稼ぎに出ているとあるが、家守にはピンからキリまであって、なかには「その日稼ぎ」の者もあった。天保二年米高値のためその日暮らしの者に御救米を支給するとき、その対象者を書き出す際の目安として次のように書かれている。
其日稼之者取調目当
一棒手振日雇其日暮之者
一諸職人手間取ニ出、其日之手間賃斗ニ而家内扶助之者
一道心者托鉢致其日暮之者
一地主共之内ニ候共、場末ニ而纔之住居地面上り高も無之、其日稼出候徳分斗ニ而大勢之厄介扶助之類
一家主共場末ニ至候而は金壱分弐朱之給金ニ而相勤、或は借家無代ニ而相勤候ニ付、自(虫損)其日稼ニ而家内扶助致候もの
(中略)
米相場高直ニ付其日稼之者共家内人数応じ、為御救白米被下置候間、御書上人別之分壱軒別ニ当米入物用意、明十六日霊岸島建添地江御自分御出勤可被成候
(天保二年1831)卯二月十五日 町会所年番肝煎
(『江戸町触集成』第十二巻)
木戸を閉める時刻に戻ると、天明七年1787には、付火が多いため怪しい者は見かけ次第召捕、訴えよとの町触が出されたが、その中に三月いっぱい迄は、町木戸は四つに閉めて町送り、路次は暮六に閉めるよう命じている。
且此節より来三月晦日迄木戸々夜四時限ニ〆切、右刻限過通行之者は、番屋々ニ而拍子木を打送り可申候、木戸無之所は竹矢来補理、入口を付右同様ニ可致、番屋江家主ニ不限裏店之ものニ而も人数相増詰居、手あやまち有之節ハ早速打消候様可致候、右之通ニ相成町入用も嵩ミ、難儀ニ可存候得共、類焼有之候而は甚難儀之事ニ候間、成たけ入用不相掛様町役人共勘弁致シ可申候、夫共右入用之儀ニ付実々難儀之儀も候ハヽ可申出候
但、路次暮六時ニ〆切、無拠用事等ニ而出入之者ハ、家主江相届候様可致候、尤路次内限りニ夜廻り可致候、万端家主心を附可申候
右之通町中不残可触知者也
右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中入念可被相触候、以上
(天明七年1787)十二月七日 町年寄三人
(『江戸町触集成』第八巻)
嘉永元年1848にも「夜分之儀ハ路次暮六時限〆切、路次内ハ店子之もの共申合、時半時小半時廻り共入念相廻シ、出火無之様守方町内限一同厚心得、情々相廻り可申候」と触れられている。
また天明と嘉永の中間である文化十一年1814刊の『柳髪新話浮世床第二編』の挿絵について
この絵では木戸口が明けっぱなしで、戸もなにもないように見えるが、実は取りはずされているのである。(中略)木戸口の板屋根には忍び返しがあり、下には敷居がある。はずした戸は木戸を入ったすぐ左側に、雨にねれぬように屋根庇を作って、その下にしまってある。(中略)
長屋の木戸の戸は、このように、開き戸ではなく引き戸であって(開き戸が皆無とは言えまいが、その例は非常に少ないようである)、この図の戸の上に「ろじ暮れ六ッ時限〆切」と貼紙のあるように、夕方六ッ時(日歿時をさす)になると戸をはめこんで締め、朝になると開けた。(林 美一『時代風俗考証事典』)
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに公開されている『浮世床』(岡安平九郎翻刻 明治十九年栄文舎刊)の挿絵で確かめると貼り紙の文字は「ろじ暮六時限」である。また「夕方六ッ時(日歿時をさす)」とあるが、暮六つは日暮れであって日歿ではないことは番外「明六つ」で述べた通りである。
路次の木戸を閉め切る時刻は時代や社会状況によって変わっているのであろうか。暮れ六つに閉めるといっても、鳶魚氏の云うように戸をたてるだけで鍵をしめるのはもっと遅かったのではないだろうか。
また、路次の溝(どぶ)や溝板について、落語には溝板がはねるから気を付けろ、あるいは壊れているから気を付けろなどと出て来るが、具体的な姿はわからない。
三谷一馬氏は『江戸庶民風俗図絵』のなかに、人情本『春色雪の梅』にある「長屋の門口」に基づく絵を出し、棟割長屋と呼ばれるものであるとことわった上で、
「路次は三尺、中央に三寸か七寸位の溝があり、(座敷の)広さは二畳か三畳で、他は板の間です。(以下略)」と書いている。
路次の幅が三尺ほどであれば、両側の家の廂を表通りのように長く出せば雨に濡れずに通れるはずであるが、路次に屋根を付けたり廂を長く出したりすることは禁止されていた。
奈良屋ニ而町中名主江被申渡
覚
一去月類焼之町々家作仕候ハヽ、路次之上ニ屋根仕間敷候、当分小屋掛ケハ勿論、重而普請仕 候共、右之通可相心得候、且又路次之口も戸斗に致、上ニ鴨居等之物仕付候儀、無用可仕候
一類焼以後、路次ニハ屋根不仕、路次通之庇家並ニ仕候場所も可有之候、ケ様之所ハ路次通之 庇ハ路次並ニ庇をも取放可申候
一去月類焼之町々、其外前々類焼之町々も、路次ニハ屋根不仕、路次通之庇家並ニ仕付候所も、 路次通之庇ハ取放可申候
一前々類焼之町々路次之上ニ屋根仕付候所ハ、当分其通ニ差置可申候、重而本普請之節ハ、右 之通可相心得候
一路次之奥裏店ニ而無之、家主抔住居ニ致、路次を門ニ用来り候而、路次之上ニ屋根無之候而 ハ、殊之外迷惑ニ候者も有之候ハヽ、委細絵図相認、明後四日四ツ時迄ニ可申来候
(享保四年1719)三月二日
(『江戸町触集成』第三巻)
享保四年のこの申渡しでは「路次之口も戸斗に致、上ニ鴨居等之物仕付候儀、無用可仕」とあるが鴨居を付けないでどのように戸をたてたのであろうか。前にあげたように百年ほど後の『浮世床』の挿絵では鴨居の上の屋根には忍び返しまで付いている。
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