落語の中の言葉150「吉原の火事・下」

          古今亭志ん生「首ったけ」より

 仮宅は昼間の見物客も多かったようである。吉原大門の出入りに女は手形が必要であるが、仮宅は町の中なので自由であるため女の見物人が特に多かったという。
文政七年四月の大火後の仮宅を見物に出かけた十方庵敬順は次のように書いている。
当四月新よし原の一廓焼失して渡世取続の為、来酉年の二月迄普請中の間、一廓の者共願之通相叶ひ深川石場仲町の辺、又は浅草花川戸町山の宿辺へ仮宅して、五月より店ひらきし土地媚きて賑かなれば、見物せしやなどいふ人あれど、態々見物に罷らんは隙費也、又見ずして過すも負おしみに似たり、折もあらんと思ふ内、藤沢の遊行此節浅草日輪寺に留錫し、訳もなく群参夥きよし巷談すれば、(中略)彼是を含て五月尽の日独行に、杖を引て……(中略)

矢大臣門を出、花川戸山の宿等の仮宅をふらめく、但し扇や、大文字や、三浦屋等の大店の分はみな簾を下して、店を張たるは大商中店より以下のみと見ゆ、去ど凡四五十軒店を同ふし傾城ども集ひ座し、間近の明るく見るも又一興たり、但し見物群集するといひながら、八分は女にして弐分男たり、内町家の女は少く屋敷者ぞ多かりけり、四十三の條下に評せし三州岡崎の賤妓とは中々同日の論にあらず、芙蓉もしかず美人の粧と讃しも理かや、邂逅(タマサカ)には物思ひげなる、海棠の雨を帯し風情なれば、世人の人の銀遣(カネツカ)ふも無理ならず、(以下略)(『遊歴雑記』五編上)

ところで仮宅を許可される程の大火は新吉原に移ってから十九度あるという。
 明暦の大火で新吉原へ移ったので、火災類焼の心配はきわめて少なくなった。そのため明和五年の全焼に至るまでの一一二年の間に新吉原は延宝四年に一度全焼しただけという安全地に平和な営業を続けることが出来た。それなのに、この明和五年から慶応二年までに一八回も全焼することになったのである。前半と後半では、一対一八という顕著な数字の相違がある。同じ場所で、どうしてこのような極端な相違が現出したのであろうか、注目すべき現象である。(西山松之助「火災都市江戸の実態」『江戸町人の研究』第五巻)

画像 その一覧表をつぎにあげる(主に武江年表から作成)。火元が廓外で類焼した三回を除いた十六回はすべて吉原廓内からの出火である。うち一回は安政の大地震によるもの。一番左の数字は直前の焼亡からの年数である。明暦三年1657の移転開業から最初に全焼したのは19年後の延宝四年1676 、次はそれから92年後の明和五年1768である。ところがその後の約百年間は頻繁に全焼している。明らかに尋常でない。
 考えられる要因は、火事の頻度が増えた、あるいは小火で終わらずに大火になることが多くなったことであろう。この間吉原も客筋も変化している。天和(1681-83)頃から大名の吉原通いがなくなる。元文(1736-41)の頃に尾張宗春や榊原式部大輔が吉原通いをしたのは例外的なものである。二人とも処罰されている(徳川宗春の隠居謹慎は吉原通いのためばかりではないが、榊原侯は越後高田へ国替)。その頃のからは紀文・奈良茂に代表される幕府事業の請負により暴利を得た政商による豪遊もなくなる。宝暦七年1757からは太夫がいなくなり、一軒だけ残った揚屋も宝暦十一年には絶えている。嘉永四年1851から安政元年1854にかけては不景気のため「遊女大安売」の引札さえ出されている。
 その一方で吉原の遊女の人数は増えている。享保以降の約七十冊の吉原細見に載っている遊女+新造+禿の数を調べた山城由紀子氏によると、享和期に二千人台だった遊女の数は寛政から急増し寛政三年1791に三千人台、寛政七年1795に四千人台、寛政十四年(享和元年)1801には五千人台、天保1830-44には六千人台、弘化三年1846には一時的に七千人を超している。その後減少し文久以降は四千人台となり慶応四年1868は四千百人台である。それでも享保の二千百人台からは倍増している。
 享保より天明期頃の人口に比べれば、総体的に二倍の増加となるが、増加の階層が、一番無印、二番座敷持、三番部屋持と全て低い階層の者ばかりで、寛政期頃からの遊女の人口増加は、そのまま、遊女もしくは吉原の質の低下を示すものであり、ひいては遊客の質の変化を表すものと思われる。(山城由紀子「吉原遊女の人口」)

  引用者註:河岸見世は細見に載っていないのでそこにいる女郎の数は含まれていない。

 天保の改革直前の天保十三年正月の細見では4,429人だったものが天保十五年には6,225人、翌弘化二年(天保十五年に弘化へ改元)には6,762人と三年ほどで一挙に五割以上増えている。
天保の改革で岡場所は一掃された。天保十三年三月には酌取女・茶汲女等の名目で隠売女を抱えていた料理茶屋・水茶屋に対し、隠売女を吉原へ住替させて真っ当な茶屋になるか、吉原に入って遊女屋になるかせよと命じている(『町触集成』第十四巻)。その際に吉原に隠売女が大量に流入したようである。寛政期に急増したのも寛政の改革により岡場所取締が強化されたためかもしれない。

 人口が増えれば失火も多くなるであろうが、それだけではなさそうである。焼失した店の再建費用その他に多額の出費が必要であるが、それを上回って仮宅による儲けは多かったようである。そのため大火を待ち望む気持ちがあったらしい。
文化九年1812の仮宅について加藤曳尾庵は次のように云う。
吉原仮宅、山の宿、聖天町、三谷より外ならす。深川におゐて六ヶ所被仰付。所謂焼し当座は、所々に仮宿りしていたり。赤蔦や、柳橋の萬八楼に居る中、内々にて商売せしに数多客あり。露顕して手鎖に成。其外の遊女や今戸、浅草辺の寺院に居るものも内々にて売たり。其比所々に分散せしものも多くは隠し売したり。其繁昌誠に言語に絶す。和泉やとやらんいへる小みせに、十三人の女郎にて一昼夜に九拾壱人客をとりたり。大文字やの大井、今の全盛なり。昼拾壱両、夜十九両、都合三拾両、一昼夜の働、中々十間口の商人も叶わす。其外、夫々に客多く、誠に此節暇宅の賑ひ恐ろしき位也。さればこそ山の宿あたりは、早速に仮普請出来て、浅草の市まへには皆引うつるといふ評判也。人気の寛濶によるか、馬鹿者の多きか、いづれ少しの変なければ金銭はうごかぬものと見へたり。後の人此事誠とも思わじ。(『我衣』巻八 文化九年)
 
 また『江戸町方の制度』には
ここに奇なるは廓内の火事にて若干戸の妓楼焼残りたるときは、廓内の消防夫は殊とさらこれを焼き払う手段を廻らし、全然□(一字読めず)廓を灰燼に付し去らんことを努めたり。けだし当時の制焼残りの妓楼あれば仮宅の許可なきを以てなり。

 とある。
吉原のもの自身同様のことを云っている。
一、吉原町類焼之節、仮宅にて渡世いたし候得ば、揚代之外も、雑用も手軽に候間、一旦は格別に賑ひ、既に衰へ候遊女屋も、類焼後、却て繁昌いたし、身上取直候向も、前々より粗有之候に付、毎度類焼之節、未火鎮不申内、向々仮宅借受之対談に相懸り候儀も有之趣にて、右等之類は、自ら消防之方無精に相成、家財取片付にのみ相懸り候故、小火も及大火、吉原町一円之類焼にも相成可申に付、向後は、万一類焼に逢候とも、相互に申合、たとへ模合(モヤイ)にて成りとも、手軽に小屋懸補理、吉原内にて渡世いたし、可成丈、外町仮宅渡世之儀、御願不申上様可致事、(『新吉原町定書』)

ここには、なるべく仮宅はしないようにと申し合わせているが実際は一覧表のとおり仮宅は頻発しているのである。

 ちなみに『我衣』に「昼拾壱両、夜十九両、都合三拾両」とあるのを見ると、仮宅ではチョンノ間売りをしたようである。吉原では河岸にある切見世(落語「お直し」の舞台)は別にして昼夜の売りしかしなかったようである。落語「五人廻し」のように一人の遊女に客を五人も揚げるのは小見世にはあっても大見世には無かったらしい。明和から天明頃の洒落本では昼三の遊女は客がかち合うと片方の客には名代の新造を出している。一方幕末の『守貞謾稿』巻之二十二には深川の岡場所について述べるところに「廻し」について次のように書かれている。
 右の仲町、大新地、櫓下、新石場、本所弁天等、茶屋ありて、漂客はこの茶屋に往きて女郎芸者を迎へ、酒宴・双枕ともに茶屋においてす。俗にこれを呼び出しと云ふなり。この内大新地は府命前はなはだ衰微せり。仲町は昌(さかん)なりしなり。
 また裾つぎ、新地の大椿、古石場、本所常磐〔盤〕町、松井町、御旅等、別に青楼これなし。游客妓院に入りて酒宴・双枕ともに妓院においてす。俗、これをふせだまと云ふ。伏玉なり。故に呼び出しの娼妓を抱へたるものを子供屋と云ひ、伏玉には女郎屋と云ふ。けだし吉原は皆伏玉なり。上妓に呼び出しと唱ふ者あれども、仲の町に客を迎ふのみにて、吉原の呼び出し茶屋にて双枕せず、自家に客を迎へて双枕す。
 岡場所の呼び出しは自家(子供屋)に客を迎へず、青楼(茶屋)において双枕す。故に一人の女郎に一客なり。伏玉は自家(女郎屋)に客を迎ふ故に、女郎一人に二、三客あるひは四、五客を異席に臥し、一妓しばくこれに輪淫す。江戸の俗、これを方言してまわしと云ふなり。女郎はこれを廻しをとると云ひ、床を廻し床と云ふなり。吉原、これに同じ

幕末には吉原でも廻しは一般的だったのであろうか。もっとも天保の改革で岡場所から隠売女が大量に流入したことと、仮宅の常態化により、幕末の吉原は相当岡場所化していたようである。明治はじめの吉原について向井信夫氏は次のように述べている。
 北国・奥羽の戦乱も収拾し。明治政府が東京と改まった江戸の地に置かれることが決まると、市中の景況も活溌となり。就中、新吉原は掉尾の繁栄を迎えることとなった。客筋も大きく変り、新政府の高官や今出来の政商などが郭の上客と持て囃され、曾ては浅黄裏と軽蔑された西国誂りが、江戸前の大通などは筑羅が沖に吹飛す凄じさ、遊女と謂えば飯盛ぐらいしか知らない芋侍や京都では鼻抓みの鍋取公卿が俄かに成上って。憧れの吉原に繰込んできた訳である。吉原としてはここで日本一の格式を見せなければならない筈であるが、内実は既に往年の見識を失っていた。連綿二百年の大見世玉屋は別格とし、もう一軒の大見世久喜万字以下十余軒の交り見世の殆どが、天保の改革で岡場所から移った見世か、近々二十年程の間に局見世から成上ったものばかり。糅てて加えて安政の大地震以来度重なる仮宅稼業で、風儀も岡場所並に下落している。(以下略)(「新吉原の終焉と最後の遊女評判記」『洒落本大成』付録21)

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