落語の中の言葉147「吾妻橋」

             「文七元結」より

 枕橋で男に突き当たられた文七は五十両を取られたと思い、吾妻橋から身を投げようとする。吾妻橋、正式名称は大川橋である。隅田川に架かる橋は、幕末期には川上から順に千住大橋・大川橋・両国橋・新大橋・永代橋の五橋であった。
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        隅田川五橋(万宝御江戸絵図(嘉永三年改正)より)

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       「大川橋」(「江戸名所図会」より)
「大川橋」の図は川下から見たもので、右から流れ込んでいる川は源森川。深川と本所を結ぶ堀り割りである横川と隅田川を結ぶ。隅田川との合流部近くに架かる小さな橋が枕橋で、渡った先は水戸家下屋敷である。

 江戸の橋には幕府の費用で修復・架替えするものと、町方等で行うものとがあった。寛政の改革で町奉行所に新設された掛かりの一つである「江戸向橋掛」の大要について書かれたものの中に次のようにある。
 江戸の橋梁には幕府の費用で維持する御入用橋と、付近の武家・寺院・町などが組合でもつ組合橋と、単独でもつ一手橋とがあった。このうち御入用橋はおよそ一六〇~一七〇条で、その掛替えおよび修理はそのつど用達商人が請負っていたが享保一九年に白子屋勘七と菱木屋喜兵衛の定請負とした。定請負金は年額一〇〇〇両であったが、のちに、五〇〇両とし、代わりに木材一式の代金を交付するようにした。しかし普請は遅滞することが多く、また請負人の不正もあって、寛政二(一七九〇)年二月、定信の指図により定請負人を追放して、幕府の直請負と改め、町奉行所・勘定奉行所の支配することとした。双方(引用者註:南北両町奉行所)からそれぞれ与力一人・下役同心一人ずつを定掛とし、御入用橋の新規掛替えや普請修復にあたらせた。本所深川の橋は、従来どおり本所見廻り与力の扱うところであった。費用は本所深川の橋も含め一ヵ年金九五〇両としたが、焼失・流失の分はこのうちに含まなかった。橋の破損個所があるとそこの町役人が届出し、勘定奉行所・普請奉行所の役人ともども実地に赴いて調査した。完成した時も同様である。普請場に毎日出役して監督をすることなどは、いずれもこの江戸向橋掛である。(南和男『江戸の社会構造』)

 五橋のうち大川橋だけが最初から町橋として架けられた。
安永三年十月十七日 浅草川にあらたに橋をわたし大川橋と名づく。これは市人等乞てつくりしといふ。 (『浚明院殿御実紀』巻三十)

大川橋出来 (安永三年甲午)十月十日より浅草竹町の新規橋往来有之。橋の名宮戸橋又は吾嬬橋と称する由なりしが、遂に大川橋と御高札立。往来武家方相除、町人、出家、町医に至る迄二文づゝ取之。但舟渡も如前々有之。町方与力吉田忠蔵桃樹の工夫にてかけし橋なりといふ。 (大田南畝『半日閑話』巻十三)

 新大橋と永代橋はその後民間に下げ渡され、橋銭を取るようになる。永代橋については「永代橋」で触れたが、その際の資料には下げ渡しの経緯だけで橋銭のことが無かったので次にあげる。

一永代橋之儀ハ、元禄十一寅年1698伊奈半左衛門様御掛りニ而、御入用を以初而致出来候所、享保四亥年1719三月御取払被仰出候ニ付、深川町々より大岡越前守様御番所江御願申上、同年四月十七日、右橋幷東西橋附広小路共ニ被下置候に付、町橋ニ相成、同十一午年1726五月より七ヶ年之間、武士方を除、往来之者より弐銭宛取立、新規修復等致度旨相願候得ハ、願之通被仰付、同十八年1733丑六月朔日より渡銭取立相止、又候元文元辰年1736九月より拾ケ年之間、壱銭宛取立候儀願之通被仰付、年季明候ニ付、延享三寅年1746九月より又々拾ケ年之間、壱銭宛取立候儀願之通被仰付、右渡銭之儀ハ前書ニ有之名主方江預り置、修復等世話致来候

一新大橋之儀ハ、元禄六酉年1693御入用ニ而、初而出来いたし候所、延享元年1744子五月十八日、石河土佐守様御内寄合江本所深川之内幷小網町辺名主月行事被召出、新大橋自今御入用ニ無之候間、御取払ニ可被仰付候、併難儀ニ候ハヽ往来之者より渡銭取立、修復等仕、相続候様願候ハヽ、可被仰上旨被仰渡候ニ付、海辺大工町名主八左衛門、深川元町同八郎右衛門、清住町同弥兵衛幷森下町家持半七、御船蔵前町家持惣兵衛、右五人之者共引請、往来之者より渡銭弐銭宛永々取立、幷橋東西広小路ニ水茶屋等差置、右助成を以、橋相続候様可仕旨、土佐守様御役替ニ付、御跡役能勢甚四郎様江、同六月廿八日御願申上、同七月十二日願之通被仰付候旨承之候 (『江戸町触集成』第五巻)

 これによると永代橋の橋銭はずっと2銭だったわけではないようである。
 橋銭は渡るときに支払った。
永代橋、大(川)橋、新大橋は、〔割註〕一名あづま橋とも云。」是まで受負人ありて、橋の南北の詰に、板壁の小屋をしつらひて、番人二人をり、笊に長き竹の柄を付たるを持て、武士、医師、出家、神主の外は、一人別に橋を渡るものより、銭二文づゝ取けり。人のわたらんとするを見れば、件の笊をさし出すに、その人、銭を笊に投入れて渡りけり。(以下略)(曲亭馬琴編『兎園小説余録』天保三年)
  (引用者註:「一名あづま橋とも云」ったのは大川橋)

 また、橋銭は日によってはかなりの金額になったようである。
○渡銭 今春隅田川三囲いなり開帳にて、大川橋往来多、三月十五日などは一日に渡銭三十八貫文有之。十六日には二十貫文の余ありしと、浅艸庵〔割註〕いせや久左衛門。」語る。〔割註〕寛政十一未年1799」 (大田南畝『半日閑話』巻三)

 この橋銭は文化六年1809に廃止された。

文化六巳年二月晦日
一永代橋新大橋大川橋之義、是迄請負人有之、往来壱人より渡銭弐銭宛請取来候処、此度菱垣廻船積仲間之者共義、右三橋共渡銭相止メ、普請其外共引受度旨願出候ニ付、吟味之上願之通引受申付候間、已来諸往来人より渡銭差出ニ不及候、此旨町中可触知者也
  丑二月
右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中不洩様早々可相触候、以上
  文化六年二月晦日     町年寄役所
     (『江戸町触集成』第十一巻)

(文化六年)二月晦日より、三橋(永代橋・新大橋・大川橋)の渡銭をとらず。是は、菱垣船の主共より願ひてけりとぞ。近年ひがきに積荷物少き故は、ひがきは大船なるゆへ江戸着も遅く、又破船もたびく也。依之、諸国の荷物、近年多くは樽船につむ。運送の都合よく、破船も少し。されどもひがきは由緒あるものにて、此度右の趣を願ひ、大三橋の修覆等致度旨、外に新艘七艘を願ひたり。樽船へつむ荷物をもとのごとく、ひがきに積たきのよし也とぞ聞へし。 (加藤曳尾庵『我衣』)

三橋会所が出来て橋を管理した。ただこの三橋会所は文政二年1819に廃止されている。その後橋の管理は誰がしたのか、修理架替えの費用は誰が負担したのかよくわからない。
文政三年に新大橋修復の入札があったが、これは北町奉行所で行われている。(『江戸町触集成』第十二巻)
 文政七年には永代橋架替えが、また文政八年には大川橋修復が行われているがいずれも町奉行榊原主計頭が検視・巡視を行っている。(「文恭院殿御実紀」巻五十九・六十)

 また、不思議なのは、竹町の渡し(駒形の渡し)である。志ん生師匠が話しているように竹町の渡しは大川橋(俗称吾妻橋)のすぐ下流にある。

    あづま橋とはわが妻橋よ、そばに渡し(私)がついている

普通、橋が架かれば渡しは廃止になるであろう。渡し銭・橋銭はともに二銭。しかも橋銭は文化六年に廃止された。それにも拘わらず渡しは継続している。どんな理由があったのであろうか。
大川橋が出来ても渡しが廃止されなかった理由等についての史料は見ていないが、大川橋の橋銭が廃止された際のことについては「御府内備考」に竹町の渡し請負人の書上があり、次のように書かれている。
(前文略)又文化六巳年中大川橋渡銭御差留メニ相成候節乗船仕候者無数ニ相成難渋仕候段申上候処、同年九月中永田備後守様御勤役之節本所亀沢町御畳屋敷上納地御請負被仰付、右助成を以而渡船御請負相続仕候

幕府は助成までして存続させている。

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