落語の中の言葉146「渡し」

         「岸柳(巌流)島」より

 渡し舟を舞台にした咄である。多くの咄家は御厩河岸の渡しとしている。志ん生師匠は駒形の渡しである。江戸時代後期の隅田川の渡しは、川上から橋場の渡し、竹町の渡し、御厩河岸の渡しの三つである。佃の渡しは船松町と佃島を結ぶ渡しで隅田川の両岸を結ぶ渡しではない。
この他に今戸と三囲稲荷辺を結んだ竹屋の渡しがあったというが、よくわからない。文化八年1811の分間図にも嘉永三年1850の近吾堂板切絵図、嘉永六年1853の尾張屋板切絵図にも載っていない。
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          万世江戸図(嘉永七年1854改正)より
一、御厩河岸の渡し
 御厩河岸の渡しは浅草三好町と本所中ノ郷を結ぶ。昔三好町の地先に御厩があったことからそう呼ばれ、渡し場付近の河岸は御厩河岸と俗称されている。
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       絵本江戸土産(西村重長画、宝暦三年1753刊)より

  文政八酉年1825十月、浅草三好町の名主黒右衛門の書上げは次の通り。(西暦は引用者補充)
一、三好町地先渡船場の儀は、先年同町地先に御厩これあり、右について御厩河岸の渡しと唱え来り候由申し伝う。右船渡し請負人南本所外手(そとで)町家持与左衛門ほか一人、右両人先年より茶船にて渡船二文ずつ、自分渡しこれあり候ところ、元禄三午年1690二月中町御奉行北条安房守様御勤役中、船渡し銭二文取り仰せ付けられ、表間口六間一尺、河岸撫垂(な だ れ)まで左右とも十三間四尺ほど、地所下し置かれ候由申し伝えに御座候。

一、高札場一ケ所、高さ九尺ほど、巾六尺、横四尺余
  高札の表左の通り
       定
 一、この所渡船一人につき、鳥目二文、馬一疋二文ずつ渡銭取りて渡すべし。
    但し、武士の面々は人馬ともにいつさい船賃取るべからず。たとえ、武士の召仕たりと云えども、主人の供をせづ、刀をもささざる輩は、その屋鋪より手形なくては、船賃二文ずつ取るべき事。
 一、火事・出水、惣じて何事によらず、常々より人多く渡り候については、早速に増し船出し、往還の滞りなきようにすべき事。
 一、番人ならびに船頭とも往還の人に対し、上下によらず無礼悪口などの事、あるべからざる事。
 右の趣、堅く相守るべきもの也。
    延享四年卯1747六月  奉行

右は支配には御座なく候えども、地先の儀ゆえ書き上げ申し候。万事本所外手町月行事持ちに御座候。 (『江戸町方書上・浅草上』)

二、竹町の渡し(駒形の渡し)
 竹町の渡しは浅草材木町(里俗「竹町」)と本所中ノ郷竹町を結ぶ渡しである。『浅草志』には次のように書かれている。
○材木町 俗竹町と云、渡し場あり、
花方渡 材木町、俗に竹町渡しといふ、本所中ノ郷へ舟渡し、渡銭壱人二文ッヽ、乗合十人に限る、御定り成とぞ、
或云、花方渡を舟方渡といひしとぞ、

『本所雨やどり』(享保十八年1733)には「中之江(郷)渡しとも、駒形之渡とも云」とある。

  同じく浅草材木町の名主 権左衞門の書上げは次の通り。
一、町銘の起こり、往古は小浜宿と唱え候由、その後町地に相成り候年代相知れ申さず、竹木渡世の者多く住居仕り候につき、材木町と唱え来り候義にこれあるべし。里俗に竹町とも相唱え候事。

一、町内川岸中ほどに船渡場これあり。昔は花方の渡しと唱え候由。当時竹町の渡しと相唱え候。同所に御高札これあり。右渡し守次郎右衛門義は、本所中の郷竹町住居の者に御座候間、右渡場の起立、その余御高札などのわけ、委細本所辺お調べの節お尋ね下されたく候事。 (『江戸町方書上・浅草上』)

『御府内備考』には御高札文言之写としてつぎのように書かれている。
  定
一渡船ニ人多乗せ込有危候由相聞江不埒ニ候、向後十人之外はのすへからす、
 若物乗有ら八人たるべし、於背は可為曲事者也
  寛保二戌年1742九月 奉行

 延享四卯年九月の高札は御厩河岸の渡しと同一である。

 両渡しとも渡し賃は一人二文で、馬も一緒。咄にもあるように武士は無料だった。

 渡し賃は川幅にもよったようである。戸田茂睡『紫の一本』巻三(天和二年1682 後の補筆あり)には〔一〕橋場の渡・〔二〕竹町の渡・〔三〕鎧の渡・〔四〕三文渡 の四つの渡しが揚げられている。

〔三〕鎧の渡 八町堀、牧野因幡守屋敷の東河岸より、小網丁の渡を云ふ。いま壱文渡と云ふ。
〔四〕三文渡 霊岸島より向島への渡なり。

三文渡は大渡しとも呼ばれ永代橋が架かる前にあった渡しで、隅田川の最下流であるから川幅は最も広い。おそらく名前のように鎧の渡しは一文で大渡しは三文だったのではなかろうか。なお、『紫の一本』に御厩河岸の渡しが載っていないのは、この時点ではまだ幕府から許可されていなかったからであろう。許可されたのは元禄三年1690である。

 また、御厩河岸の渡しも竹町の渡しも渡し賃はずっと二文だったわけではなく、一時期一人一文に引き下げている。御厩河岸の渡しは武士の往来が増え船数や船頭も増したため引き合わず、値上げを願い出て十年間の期限付きで認められ、期限が切れる度に延長を許可されている。

 御厩河岸の渡しは文政十一年の時点では船八艘、船頭十四人、番人四人で行われている。また「佃祭り」では渡しは暮れ六つで終了しているが、御厩河岸の渡しは夜船もあった。ただし、船数は四艘である。
 『御府内備考』には舟渡請負人の次のような書上(文政十一年十一月)がある。
(前文略)(元禄三年二月四日)御評定所江被召出町御奉行北條安房守様被 仰渡候は、以前定船渡之儀相願候得共不申付候処船渡無之候而は不相叶場所殊ニ此度出火之節相働候為 御褒美定船渡申付候旨被為 仰付 御武家様方相除往来壱人より船賃弐銭取 御高札頂戴仕候、勿論 御成先 日光御道中筋御用之節御用船差出し、又は出水之節川船方御役所より千住河原其外所々渡船差出相勤来候、
其後竹町船渡壱人壱銭取之願人有之願之通被為仰付候ニ付御厩川岸之儀も竹町同様と相心得壱人壱銭取ニ私共より奉願上候、然ル処本所浅草御蔵江之往来其外御武家様方往来相増候ニ付段々船数相増渡船八艘水主之者十四人 幷ニ番人四人都合拾八人召抱置、年々船打替幷ニ修復其外入用多相懸り引合不申困窮仕候ニ付無是悲(非)延享三寅年八月中町御奉行能勢肥後守様御勤役之節船賃弐銭取ニ仕度段奉願上候処、翌卯年1747六月廿七日御奉行馬場讃岐守様御番所江被召出右願之通被為仰付候、其節御高札御書替被下置、尤卯年六月より丑年六月迄拾ヶ年之間船賃弐銭取被為仰付候、拾ヶ年相立候ハヽ又々 願出可申旨被為仰付候ニ付其後度々船賃弐銭取年延年季明ヶ毎ニ町御奉行所江奉願上候処願之通被為仰付相続仕難有仕合ニ奉存候

一右請負人持場間数
 西側之方同所三好町川岸通江之長サ六間壱尺五寸、川之方江六間四尺、但幅六間壱尺有之候 川之方江なだれ地共此惣坪五拾壱坪余
 東之方は本所外手町安頭(藤)対馬守様御蔵屋敷前川岸通江之長サ拾壱間三尺幅同断有之候、川之方江なだれ地五間南之方川之方江石垣之際迄弐間五尺北之方せき板迄四間此惣坪三拾二坪余
一船高九艘之内番は八艘ニ而相勤申し候
   夜船之儀は往来も無少御坐候ニ付船数四艘ニ而相渡申候
一船数        八艘
一船頭        拾四人
一番人        四人
                但  西之方弐間ニ三間居小家
                    東之方弐間ニ三間居小家

  「竹町船渡壱人壱銭取之願人有之願之通被為仰付候ニ付」とあるが、竹町の渡しは寛文七年1667に許可され、はじめは二銭であったが一銭での渡船を願い出る者が有り、やむを得ず一銭への引き下げを願い出て許可された(元禄三年1690)。その後大水で船が多数破損し二銭での渡船を願い出て寛保三年1743に五年の期限付きで許可され、その後期限切れの度に延年を願い出て許可されている。原文省略

 渡し賃は舟を降りてから払ったようである。

  いそぐのは渡しの銭をにぎりつめ 誹風柳多留第二篇


  追補
  「竹屋の渡」 安政三年1856新刻の尾張屋板切絵図「隅田川向嶋絵図」には三囲稲荷前の土手下に小さく「竹屋ノ渡」と書かれている。ここは以前から船を着けることが出来るようになっていた。
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この記事へのコメント

2022年06月17日 19:00
いつも興味深く拝見しています。
市中取締類集によれば、鎧渡の渡銭は従来一文(銭)だったものが、寛政十一年からは二文になっていたようです。

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