落語の中の言葉145「盃洗と銚子」
十代目 桂 文治「浮世床」より
落語には時々「盃洗」が出てくる。「浮世床」でも芝居茶屋の女中が盃を浮かべた盃洗と銚子・お通しを持って二階へ上がってくる。この盃はぶつかってチンチロリンと音がしたり沈んだりしているので陶製の猪口のようである。実物の盃洗は見たことがない。現在でも使われているのであろうか。
鳥居清長の「美南見十二候」では盃洗に盃が六つ浮いている。盃洗がいつ頃から使われるようになったのかはよくわからない。正徳二年1712自序の『和漢三才図会』には盃洗は載っていない。燗徳利もない。酒の燗をするものとして載っているのは「鐺(とう)」、酒を注ぐための器としては「銚子」と「偏提(ひさげ)」である。
現在この形の銚子やひさげが使われるのは神前結婚式の三三九度くらいであろう。


美南見十二候 八月 月見の宴(清長は文化十二年1815歿)
「美南見十二候」の盃洗の右下にある小さい鉄瓶のようなものは銚子である。江戸の後期銚子と呼ばれた物はこれであり、本来の銚子は「長柄の銚子」と呼ばれたらしい。現在は燗徳利のことを「銚子」と呼んでいる。
幕末の「守貞謾稿」にある酒器を次ぎにあげる。
江戸後期の(酒を注ぐ器としての)銚子は酒鐺(しゆとう)(和名燗鍋)の系統のものであろう。本来は酒の燗をするためのものと思われる。酒鐺にくらべ小型化し注ぎ口が長くなっている。
燗鍋も燗をする器としての銚子(酒鐺(しゆとう))も直接火に掛けて酒の燗をした。
本来燗をする器である酒鐺・銚子・ちろりからそのまま酒を注ぐことも行われている。
林美一『時代風俗考証事典』によると、ちろりに替わって燗徳利が広く使われるようになったのは江戸の終わり頃からだという。
最後に燗徳利の描かれた浮世絵をあげる。歌川国芳の「三拍子娘拳酒」、嘉永(1848~54)期。燗徳利のはかまは角形である。
落語の中の言葉 一覧へ
落語には時々「盃洗」が出てくる。「浮世床」でも芝居茶屋の女中が盃を浮かべた盃洗と銚子・お通しを持って二階へ上がってくる。この盃はぶつかってチンチロリンと音がしたり沈んだりしているので陶製の猪口のようである。実物の盃洗は見たことがない。現在でも使われているのであろうか。
鳥居清長の「美南見十二候」では盃洗に盃が六つ浮いている。盃洗がいつ頃から使われるようになったのかはよくわからない。正徳二年1712自序の『和漢三才図会』には盃洗は載っていない。燗徳利もない。酒の燗をするものとして載っているのは「鐺(とう)」、酒を注ぐための器としては「銚子」と「偏提(ひさげ)」である。
現在この形の銚子やひさげが使われるのは神前結婚式の三三九度くらいであろう。


鐺 音は撐(トウ)、鎗(そう)〔同じ〕〔和名は阿之奈倍(あしなへ)〕、酒鐺〔俗に加牟奈倍(かむなへ)という〕
△思うに、酒を温めることを間といい〔冷熱の中間を佳(よ)しとするという俗語であろうか〕、それで間鐺〔湯桶詞の類である。恐らく鉄鍋の訓が誤ってこうなったものか〕という。けれども銚子の代わりに鐺から直ぐに酒を酌むのは卑賤な風習である。
銚 子 音は調〔和名は佐之奈閉(さしなへ)。今は字の音を用いて呼ぶ〕
△思うに、銚子は口二つと柄がある。官家では醋酬(さくしゆう)に必ずこれを用いる。礼式では長柄の銚子を用いる。また偏提(ひさげ)でこれに酒を加え入れる。二物は金銀の紙で雌雄の胡蝶を作ったもので飾り、松・花橘の二木を結び植える〔花橘はまた藪柑子(やぶこうじ)ともいう〕。
偏提(ひさげ) 注子〔俗に水左之(みずさし)という〕、偏提〔俗に比左介(ひさげ)という。また加奈以呂(かないろ)という〕
注子(みずさし)は形は徳利のようで、蓋・觜・柄がみな具わっている。
△思うに、偏提には糸柄があって提げ持つことができる。それでこう名づける。銚子と同じく婚礼の嘉祝の宴にこれを用いる。今は多く錫や白銅でこれを作り、俗に加奈以呂と呼んでいる。その名の由来は未詳である。
美南見十二候 八月 月見の宴(清長は文化十二年1815歿)
「美南見十二候」の盃洗の右下にある小さい鉄瓶のようなものは銚子である。江戸の後期銚子と呼ばれた物はこれであり、本来の銚子は「長柄の銚子」と呼ばれたらしい。現在は燗徳利のことを「銚子」と呼んでいる。
幕末の「守貞謾稿」にある酒器を次ぎにあげる。
燗 鍋 中古までは酒の燗にこの燗鍋を用ふ。銅製にて火上に掛け、燗(あたた)めしなり。
ちろり 銅製。京坂にてたんぽとも云ふ。近世、ちろりにて湯燗にせしなり
中古の銚子 鉄大形なり。また蓋も大なり。
近世銚子 専ら小形なり。ちろりにて燗め、これに移すなり。
京坂、今も式正・略および料理屋・娼家ともに必ず銚子を用ひ、燗陶を用ふるは稀なり。
燗徳利 江戸、近年、式正にのみ銚子を用ひ、略には燗徳利を用ふ。燗めそのまま宴席に出すを専とす。
この陶形、近年の製にて、口を大にし、大徳利口より移しやすさに備ふ。銅鉄器を用ひざる故に味美なり。また移さざる故に冷へず。式正にも、初めの間、銚子を用ひ、一順あるひは三献等の後は専ら徳利を用ふ。常にこれを用ふ故に、銅ちろりの燗酒はなはだ飲みがたし。大名も略にはこれを用ふ。京坂も往々これを用ふ。遠からずして京坂これを専用すなるべし。
江戸後期の(酒を注ぐ器としての)銚子は酒鐺(しゆとう)(和名燗鍋)の系統のものであろう。本来は酒の燗をするためのものと思われる。酒鐺にくらべ小型化し注ぎ口が長くなっている。
燗鍋も燗をする器としての銚子(酒鐺(しゆとう))も直接火に掛けて酒の燗をした。
本来燗をする器である酒鐺・銚子・ちろりからそのまま酒を注ぐことも行われている。
こゝの火鉢でかんをしやうと三勝はてうしへさけを入て火鉢へかける 〔勘二〕サ炭をつぎねへ(トさけのかんをする、程なくそばも来る) 〔通志〕サとんた事をやつた酒へ火がはいつた 〔三勝〕そこのをうめねへな (甘露庵『替理善運(かはりせん)』寛政六寅年1794)
〔喜之介〕御心安ひからそのまんまだしや 〔喜之介女房おせち〕ヲヤそれでも 〔ゑん次郎〕いゝわないゝわな(トいふゆへはかまのないちろりのまゝいだす) 〔しあん〕こいつア着ながしのちろりだの。しやれたもんだ (山東京伝『通言総籬』天明七年1787自序)
林美一『時代風俗考証事典』によると、ちろりに替わって燗徳利が広く使われるようになったのは江戸の終わり頃からだという。
さて私の調べによると、江戸で爛徳利が用いられだしたのは、文政の初め頃かららしい。私は草双紙の挿絵を年代順に調べてゆくという方法をとったが、文政五年(一八二二)刊の柳亭種彦作『忠孝両岸一覧』に爛徳利の中へ小粒金をかくす話が出てくる。文章にもハッキリ「かんとくり」と書いてあるし、挿絵にも何度も描かれているのだから、もうこの頃には普及していた証拠かと思ったが、その後の草双紙には一向現れず、相かわらず、ちろりに銚子ばかりで、十何年もたった天保十年(一八三九)頃から再びボツボツと描かれだすから、「忠孝両岸一覧」に爛徳利が出て来たのは、作者が爛徳利の出現を珍しがって、いち早く自作中の小道具に取上げたものと考えられる。
ところで天保十年頃から江戸で爛徳利が使われだしたといっても、一般には明治になるまでちろりや銚子が主として使用されていた事実は、既にのべたとおりである。
最後に燗徳利の描かれた浮世絵をあげる。歌川国芳の「三拍子娘拳酒」、嘉永(1848~54)期。燗徳利のはかまは角形である。
落語の中の言葉 一覧へ
この記事へのコメント