落語の中の言葉143「大工の手間」

          五代目古今亭志ん生「大工調べ」より

 大家の源六は質株なくして道具箱を質に取ったことをしかられるが、願い人が店子であることから過料として道具箱を留め置いた二十日間の手間を支払うことでゆるされる。奉行が大工の手間賃を与太郎に尋ねると、政五郎が代わって一日十匁と答える。
奉行は、日に十匁、二十日で二百目、金子に直して三両二分、払い遣はせと命じている。
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 「衣食住之内家職幼絵解之図」 江戸東京博物館 『大江戸八百八町』より

 大工の手間賃は年代によって様々である。目に付いたものをあげると、古くは享保十九年1734の小石川伝通院地内沢蔵司稲荷の開帳の古記録では壱人に付銀壱匁八分である。(『三省録後編』)

『馬琴日記』天保二年1831六月十四日の条では、手間は七分五厘上がって一日につき三匁七分五厘あてを支払っている。ただし食事を支給しているので飯料はない。

(天保二年六月)十四日癸巳(甲午) 曇 冷 昼之間薄晴 又薄曇
一今朝、大工寅吉来ル。机引出し、引わり直、昼後より、六角火鉢とりはなし、惣修復。夕七半時過、仕畢ル。夜食後、今日迄手間、金三朱わたし遣ス。但、手間七分五り(厘)づゝ上り、壱人三匁七分五り(厘)のよし也。手透之節、材木かひ取、上流し台所拵候様、申付おく。今日にて落成也。
  引用者註:十一日・十二日・十四日の三日分で銀十一匁二分五厘=三朱

弘化四年1847五月の時点では大火前の水準すなはち手間銀三匁、飯料同壱匁弐分の一割増しで手間賃銀三匁三分、飯料同壱匁三分弐厘である。これは弘化三年正月に大火があり、過去の例では一年もすると大火前の水準に戻るのであるが米の値段が高いために一割増しにしたという。
この時の大火直後の大工の手間賃はわからないが、鳶人足の賃銭は五割増しである。おそらく大工はそれ以上であったと思われる。

一鳶人足日雇類焼以前迄
  壱人ニ付
    銭三百文     但道具代共
    銭百四十八文   但此度大火ニ付早出居残道具代共半人増
   〆銭四百四十八文
右は類焼場町々鳶人足日雇賃銭、当分書面之通無不同受取度旨頭取共より申出候間、取調候処、先前大火之節振合も有之、不相当ニも相聞不申候間、私共限り承り置申候、尤以後増銭等申出候儀も御座候ハヽ、其節は御伺申上候様可仕候、依之此段申上置候、以上
               諸色掛り
  午二月九日          名 主 共
右之通北御番所江申上置候間、此段御達申候、以上
  午二月十日       島崎清左衛門
              千柄清右衛門
        (『江戸町触集成』第十五巻)

安政二年1855十月の大地震から半年後の安政三年四月では地震前手間銀三匁飯料銀壱匁二分から次の通りに限度額を定めている。

一大工壱人     平和手間飯料共 四匁弐分之処
             手間銀四匁五分 飯料銀壱匁五分
              但早出居残共

  実際はこれで収まったとは思えない。『三省録後編』は沢蔵司稲荷の開帳古記録として大工手間、壱人に付 壱匁八分宛をあげ、さらに次のように述べている。
大工手間代壱人に付壱匁八分、これ平人日雇壱人の価に少し増るのみ。今は大工手間平日にても四匁五分、又は五匁ならでは雇ふことなりがたし。其内屋根屋職などは五匁より以下の者なしとぞ。況や類焼等の場に至りては、いかに相対とはいふものゝ、金弐朱あるひは壱分とせり揚て雇はねば、来る大工壱人もなし。尤も官よりは、其時に厳しく難有命令も下るといへども、時勢のならひ人気悪様にのみ趨りて、其心を改めず。後は其罪を犯して、縲紲の耻を蒙るに至れり。返々も古代の質直見習たきものなり。

『守貞謾稿』巻之五によると
 大坂大工雇銭定めあり、一日銀四匁三分なり。もし家を造るの主より三時の食を与ふ時は、一匁二分を減じ三匁一分を与ふなり。この一匁二分を飯料と云ふなり。
 けだし今世三都ともに、一日といへども中食ともに一日三度の休息ありて業をなすこと、その実大略二時ばかりなり。故にあるひは夙(つと)に来らしめて増銭を与ふ。これを朝出と云ふ。大略定制の半を増す。これを作料一人半と云ふ。すなはち六匁四分五厘なり。また夙に来り黄昏に帰る、これを朝出居残りと云ふ。大略一倍を与ふ。すなはち四匁八分(八匁六分の誤りか)なり。江戸もこれを唱へ、一倍あるひは半倍すること、これに准ずるなり。
 江戸大工雇銭定制なし。平日大略銀五匁あるひは五匁五分なり。もし大火等あるの時、諸国の工いまだ集来せざるの間は、十匁余をも与ふことなり。

 大火後には諸物価が急騰するが特に建築資材と建築関係諸職人の手間賃の上昇が著しい。
飯料込みで早出居残を含んでいるとしても一日十匁は大火直後の価に匹敵する程に高い。町奉行もそれを承知の上で認めているようである。

 ところで二十日間の手間銀二百目を金子に直して三両二分払わせているが、江戸は金遣いで手間や品物の代を銀で払うことは無かったようである。(志ん朝師匠は銀二百匁とだけ云っている) ちなみに銀二百目を正しく金子に直すと三両一分と銀五匁で、三両二分では銀十匁分過剰である。

江戸は小判一両価銀六十目の定価にて、日価これなし。一分十五匁、二朱七匁五分の定めなり。しかれども、もし銀子入用にてこれを買ふには日価あり。故に銀相場と云ひ、一両に六十幾匁と云ふ。そのこと金相場と同じといへども、他物の売買に価は銀をもつてこれを唱へ、代料金をもつてこれを贖ふの時は、銀六十目金一両に当つる定価なり。(『守貞謾稿』巻之八)

 前記のように馬琴は銀11.25匁(3.75x3日)に対して金3朱を支払っている。この場合はちょうど3朱ぴったりであるが、金に直して残った端数の銀がある場合はその時の銭相場で換算して銭で支払っている。同じく馬琴日記から拾うと。

嘉永元年六月十四日の条 夕方、畳屋宇八より、同人妻ヲ以、畳刺手間書出し、持参。都合、拾九匁四分也。此金壱分ト四百七十五文、渡し遣ス。(計算すると金一両=6476銭の相場のようである。以下同じ)

 品物の代金についても同様である。

天保五年十月廿六日の条 かつをぶし五百匁、壱〆目ニ付、代廿二匁之処、廿匁ニ引せ、拾匁也。三朱わたし、つり銭百四十文取。(金一両=6720銭の相場)

 銭建ての代金の場合も同様である。
天保五年正月十三日の条 元日・三日両日、供人足ちん六百文、此金一朱ト百八十一文わたし遣ス。(金一両=6704銭の相場)

 銭建てなのになぜ金で払うかというと銭はかさばる上に重いからであろう。
貨幣の重さは
 一分金(文政二年改鋳)は約3.3グラム
    (天保八年改鋳)は約2.8グラム
 二朱金(天保三年改鋳)は約1.6グラム
 二朱銀(文政七年改鋳)は約7.5グラム 南鐐という
 一朱銀(文政十二年発行)は約2.6グラム 二つで南鐐に当つるも、重さ南鐐に准ぜず
 一文銭(寛文八年改鋳)は約3.6グラム
 四文銭(明和五年発行)は約4.9グラム
 天保銭(天保六年発行)は約20.6グラム

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        日本銀行金融研究所HP「わが国の貨幣史」より(新しいものになっていて今はこの図は見られません)
  金1両=銭6,720文の銭相場の場合、1朱=420文
一朱銀は2.6グラム、420文は天保銭4枚と四文銭5枚で106.9グラム、四文銭105枚で514.5グラム、一文銭だと1512グラムにもなる。とても袂に入れては歩けない。それで普通は替えられるだけ金銀貨にして残りを銭にしたようである。嘉永元年の畳刺手間のうち銀15匁は一分金に替え、残りの4匁4分を銭四百七十五文で払っているのは一朱銀が天保八年1837に廃止されて二朱金銀が最小金銀貨になっていたからと思われる。最悪では八百文ほどを銭で受渡さなければならない。やはり不便だったとみえて嘉永七年1854一朱銀が再び発行されている。

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