落語の中の言葉141「品川」
古今亭志ん朝「品川心中」より
吉原を北廓といい、品川を南、深川を辰巳という。いずれも江戸の中心からの方角である。品川宿は歩行新宿、北本宿、南本宿の三つから成っていた。
品川の橋を越スのハしわいやつ 誹風柳多留五篇 明和七年1770

また品川の客には僧と武士が多かったという。高輪辺には増上寺をはじめ寺が多く有り、また薩摩藩下屋敷ほか武家屋敷も多い。
品川の客にんべんのあるとなし 誹風柳多留七篇 明和九年1772
品川は山のいもよりさつまいも 誹風柳多留八篇 安永二年1773
ただしこれは明和安永の頃のことで幕末も同様であったかどうかはわからない。
品川には宿駅であるところから吉原とは違う特徴がある。
品川は鳥よりつらい馬の声 誹風柳多留四篇 明和六年1769
四つ手駕杉戸間近くよこにつけ 誹風柳多留七篇 明和九年1772
吉原では駕籠で行けるのは大門迄であるが、品川は見世に横付けできる。
また旅籠であるから僧が泊まっても不思議はない。したがって僧が医者に化ける必要もない。ただ実際は茶屋で羽織を借りて宿(しゆく)へ行くことが多いようである。
医者よりはやはり和尚でうれる也 誹風柳多留八篇 安永二年1773
浜風に屏風の衣吹おとし 誹風柳多留八篇 安永二年1773
実質は遊女であっても建前上は「飯盛女(食売女)」である。明和元年1764に品川宿全体で五百人に増員されるまでは、本宿は一軒に二人、新宿は一軒に一人と決められていたため張り見世も二、三人であり、衣服も華美なものは避けていたようである。飯盛女のいる旅籠であることを示す意味合いが強かったらしい。表からは見えない店のなかに「かげ見世」があり、見立て客があると、普段居る内見世からかげ見世へ出て見立てを受けた。名前も板頭を長く務めてたものでも「お染」(「品川心中」)であり、「文違い」(内藤新宿)では「お杉」、「藁人形」(千住宿)では「お熊」である。一方吉原では五人もの廻し客をとる下級の遊女でも「喜瀬川」(「五人廻し」)である。
追記:品川宿等の食売女の名がすべて「おの字名」だったわけではない。
品川の張り見世について『古契三娼』で品川出のお品は次のようにも話している。
『南閨雑話』(安永二巳年1773)では見世に入ったあとで、
かげ見世は品川だけではなく四谷内藤新宿も同様である。大田南畝が馬糞中咲菖蒲の名で著した『甲駅新話』(安永四年1775刊)にも谷粋と金七が新宿の茶屋坂見屋の女将の案内で女郎屋紀国屋へ行くところに
紀国屋の若イもの半兵衛 お出なさりまし
茶屋坂見屋の女将(後家) 半兵へどん、お見立だよ
若イもの半兵衛 あい(と、かげみせの方へ行て)お見立がごぜんすよ
とある。
品川は木綿の外は箱へ入れ 誹風柳多留初篇 明和二年1765
品川であれ切かのとたわけもの 誹風柳多留八篇 安永二年1773
杉戸へは二品三品出して置 誹風柳多留十九篇 天明四年1784
品川では表見世の背後は杉戸になっていたようである。
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吉原を北廓といい、品川を南、深川を辰巳という。いずれも江戸の中心からの方角である。品川宿は歩行新宿、北本宿、南本宿の三つから成っていた。
品川の駅 江府の喉口にして、東海道五十三駅の首(はじめ)なり。日本橋より二里。南北と分かつ(東海寺に南に傍(そ)ひて、貴船の社の側を流るる川を堺(さかい)とす。ある人云く、これすなはち品川と称するところの水流なり、と云々)。旅舎数百戸軒端を連ね、つねに賑はしく、往来の旅客絡繹(らくえき)として絶えず。江戸に近い歩行新宿と北本宿にいい見世が多かったという。「居残り佐平次」では河岸を変えて南へ遊びに行こうと誘われたものが、「品川もいいけど、たいそう高いってよ。橋向こうだってえと安い家があるけどね」と応えている。山東京伝は『古契三娼』(天明七年1787)のなかで品川出のお品に「橋向こう」について「大見世の若イ者は橋向へ遊びに行やす。吉原なら川岸(かし)へ行クといふものさ」と言わせている。
中の橋 品川駅舎の中間にあり(この橋をもて品川南北とわかてり)。ゆゑに号とす。この橋下を東流するものは、すなはち品川なり。(『江戸名所図会』)
品川の橋を越スのハしわいやつ 誹風柳多留五篇 明和七年1770

また品川の客には僧と武士が多かったという。高輪辺には増上寺をはじめ寺が多く有り、また薩摩藩下屋敷ほか武家屋敷も多い。
(侍)ハテナ高輪の内には大分いゝ寺があるて、とかく品川の客は坊主が多イそふたてなア
(大和屋)ハイなる程坊主が五分武家方が三分町人は二分ほかござりませぬ、そこで女郎があつかいにくい武ざと是はしたり武家と坊主とくろめてゐるから深川なそとは違てあそひいゝほうでござります(『婦美車紫鹿子』安永三年1774)
品川の客にんべんのあるとなし 誹風柳多留七篇 明和九年1772
品川は山のいもよりさつまいも 誹風柳多留八篇 安永二年1773
ただしこれは明和安永の頃のことで幕末も同様であったかどうかはわからない。
品川には宿駅であるところから吉原とは違う特徴がある。
品川は鳥よりつらい馬の声 誹風柳多留四篇 明和六年1769
四つ手駕杉戸間近くよこにつけ 誹風柳多留七篇 明和九年1772
吉原では駕籠で行けるのは大門迄であるが、品川は見世に横付けできる。
また旅籠であるから僧が泊まっても不思議はない。したがって僧が医者に化ける必要もない。ただ実際は茶屋で羽織を借りて宿(しゆく)へ行くことが多いようである。
医者よりはやはり和尚でうれる也 誹風柳多留八篇 安永二年1773
浜風に屏風の衣吹おとし 誹風柳多留八篇 安永二年1773
実質は遊女であっても建前上は「飯盛女(食売女)」である。明和元年1764に品川宿全体で五百人に増員されるまでは、本宿は一軒に二人、新宿は一軒に一人と決められていたため張り見世も二、三人であり、衣服も華美なものは避けていたようである。飯盛女のいる旅籠であることを示す意味合いが強かったらしい。表からは見えない店のなかに「かげ見世」があり、見立て客があると、普段居る内見世からかげ見世へ出て見立てを受けた。名前も板頭を長く務めてたものでも「お染」(「品川心中」)であり、「文違い」(内藤新宿)では「お杉」、「藁人形」(千住宿)では「お熊」である。一方吉原では五人もの廻し客をとる下級の遊女でも「喜瀬川」(「五人廻し」)である。
追記:品川宿等の食売女の名がすべて「おの字名」だったわけではない。
品川の張り見世について『古契三娼』で品川出のお品は次のようにも話している。
見世を表見世といゝやす。どこのうちも、みな三人づゝさだまりで見世へ出やす。それを見世番と言やす。五ッにかはるのさ。此ことを正面をはるともいひやす。見世番でないものはみな、内見世におりやす。御見立といふとみんなかげ見世へならびやす。吉原は中(な)ヵ座といつて、まん中に居(すは)るが良い女郎衆だそうだが、品川じやア両方の端(はし)へすはるが良い女郎さ。
『南閨雑話』(安永二巳年1773)では見世に入ったあとで、
(茶や)お見たてが能ふ。ござりませふ (大ぜい)それがよかろふサアサア (大じん)(沢井)しからばと。頭巾まぶかに。影見せの前へゆき。はしからはしまで。ためつすがめつ (大じん)あの三番めの。赤イ着物のは (若イ者)菊さまと申ます (沢井)それから。こっちへ五人めのは (若イ者)秀さまと申ます (茶や)さよふなら。あのお二タ人 (大じん)(沢井)サアサアお身達も。見立見立 (幸治)(長七)私共はどふでも (大じん)ハテサテ入らぬじぎじゃ。能ヒのを極めよ極めよ (幸治)こっちの方から。六人めのこび茶の (若イ者)アイ琴浦さまで。ござります (長七)その次のは (若イ者)どれでござります (長七)エヽあの浅黄もくめのよ (若イ者)ヘエヽ々歌さまと申ます (茶や)サアサア極り極り。子供衆お茶ヲよとあって次の図をあげている。
かげ見世は品川だけではなく四谷内藤新宿も同様である。大田南畝が馬糞中咲菖蒲の名で著した『甲駅新話』(安永四年1775刊)にも谷粋と金七が新宿の茶屋坂見屋の女将の案内で女郎屋紀国屋へ行くところに
紀国屋の若イもの半兵衛 お出なさりまし
茶屋坂見屋の女将(後家) 半兵へどん、お見立だよ
若イもの半兵衛 あい(と、かげみせの方へ行て)お見立がごぜんすよ
とある。
品川は木綿の外は箱へ入れ 誹風柳多留初篇 明和二年1765
品川であれ切かのとたわけもの 誹風柳多留八篇 安永二年1773
杉戸へは二品三品出して置 誹風柳多留十九篇 天明四年1784
品川では表見世の背後は杉戸になっていたようである。
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