落語の中の言葉140「武蔵野盃」

          五代目柳家小さん「試し酒」より

 咄に武蔵野という銘の大盃が出てくる。「野、見つくせない」と「呑み尽くせない」をかけた命名という。

   ○武蔵野盃 酒を戒むる隠語の盃の銘
吾吟我集の石田未得の狂歌に、
     盃の名にながれたる武蔵野に富士をたぐへて蓬莱の台
また、吉原伊勢物語にも、この座には上戸ありとて、大盃を出さんとす。男わびて、
     むさし野をけふはな出しそ大酒につまもこまれりわれもこまれり
と見えたり。大盃をむさし野といふよしは、節用集大全に、酒盃大者曰武蔵野也。言野見不尽之意也といへり。そは酒のおほくて飲つくされぬを、武蔵野のさしも広ければ、野の見尽されぬといふにいひかけしなり。(『三養雑記』天保十一年1839)

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摂河近郷の方言に、集会の酒宴闌(たけなは)に成、既に盃を納んとなすに及んで、客より主に乞て最早武蔵にして納め給へといふ事を例とす。按ずるに古代の作に武蔵野と号(なづけ)し大盃ありて内一面芒(すゝき)の描金(まきゑ)を書たり。正く此武蔵野を順盃にして納め給へと言しを後世略して武蔵といひ、又其風(なら)ひにて今様の盃の大なるを出して納(とり)の盃となすをも武蔵と言へるなるべし、平野の郷なる多治見氏の蔵せられしを、爰(ここ)に摸写して左に出せり。其品頗る名作にて至って薄く軽し、尤(もつとも)糸底なし、香台など附たるは総(すべ)て後世の作なるべし。
下地黒漆の上、惣金箔押たるが時代にて摺(すれ)はげ、所々に些づゝ金箔のかすり残りたり。芒金蒔画、露錫粉(すずのふん)。外(そと)同箔押摺禿蒔絵なし。則ち円きを月に擬(なぞら)へ、武蔵野の月の景色を象(かたど)りしなり。 (暁晴翁『雲錦随筆』文久二年1862刊)

そして『和漢三才図会』の「坏初は瓦器(かはらけ)を用ゆ、故に酒土器(さかづき)と名く、〔割註〕止と都と通ず。」を引いたあとさらに次のように云う。
爾(しか)有(あれ)ば古代の杯に糸底なきは、土器(かはらけ)に准(なぞら)ふが故なる事明けし。鎌倉雪之下大井氏の蔵する和田酒宴の盃、又同所教恩寺の蔵たる北条泰時の杯(さかづき)、径(わたり)四寸許黒漆地の上、総金箔押、描金ありて製作此武蔵野同様なり。又河内国錦部郡古野の極楽寺の什物たる、源廷尉義経朝臣より軍功によつて、那須与市宗高に賜はりし盃も尚是(これ)に同じ。


 和田酒宴の盃の図は『守貞謾稿』後集 巻之一にある。

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 瓶子に酒を入れし比(ころ)も土器のみにあらず、塗盃もありしなり。鎌倉時代の物、左に図す。今世とは形いさゝか異なるなり。
 盃も近年は漆盃を用ふこと稀にて、磁器を専用とす。京坂も爛徳利はいまだ専用せざれども、磁杯は専ら行はるゝなり。磁盃、三都ともに「ちよく」と云ふ。猪口なり。
 三都とも式正塗杯、略には猪口。式正にも初め塗杯、後猪口を用ふこと、銚子に准ず。

 和田酒宴所用盃 鎌倉雪下大井氏所蔵なり。同所大町教恩寺にまたこれと似たるの杯を蔵す。黒漆にて捻梅の蒔描きなり。重衝(ひげひら)と千寿前と宴す時、これを用ひし物と云ひ伝ふ。また同所妙本寺にもこれと似たる盃あり。

近世木塗盃
 惣朱漆、内金蒔絵を専らとす。

 並(とも)にはなはだ大小形あり。また式正には三つ組と称し、上小・中々・下大形を累ね、杯台に載するもあり。


画像 また『閑田耕筆』(享和元年1801刊)に載せる図は次の通り。これは伴蒿蹊が直に見たものではなく、或人が写したものをさらに写したもの。書かれている大きさも少し違う。
亘り四寸九分、深さ六分斗(ばかり)、裏上げ底亘り一寸六分、深さ五厘

古制の盃は高台がなく底が刳(く)ってあったようである。咄に「上げ底になってら」というのはこれを指すか。

画像また神田祭の山車を見ると人形の山車と草花等の山車があり、満月と薄のものは「武蔵野」と呼ばれている。
 武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花が末にかかる白雲 大納言通方「続古今和歌集」秋歌上
広く知られていたのは典拠不明の
 武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ
である。盃を満月に見立てて草を蒔絵にするのであれば、やはり尾花がふさわしいように思う。松に鶴、梅に鶯、牡丹に蝶、満月には薄である。

 ところで、三つ組の盃はは慶事に使うが、二つ重ねは忌むという。武家故実の伊勢貞丈は『貞丈雑記』に次のように書いている。
盃は、一ツ折敷(おしき)にすえて出す物なり。二ツ重ねて出す事は甚だ忌む事なり。その故は、軍陣の時、敵の大将の首取りたる時その首に酒のまする時も、又切腹する人に酒のまする時も、盃二ッ重ねて出して、二献呑まするなり。常に二献を忌むもこの故なり。しかるに今、世上にて、年始に盃二ッ重ねて出す所多し、いまいましき事なり。

盃をうつぶせて置く事は、いまいましき事なり。軍陣の時に、敵の大将・侍大将などの首を取りたる時、実検終りてその首に酒を飲まするに、土器二ッ出して逆手酌にて酒をかわらけに入れて、のまするまねして首の前に酒をこぼして、二ッのかわらけにてかくの如く二度して、かわらけを重ねてうつぶけて置くなり。これに依り、常には盃をうつぶけておく事をいむなり。しかるに今時、吸物膳のふちに盃をうつぶせ置きて人にすゆる事、いまいましき儀なり。

 ところで「盃の殿様」という落語もある。これは参勤で江戸に来た大名が吉原の花魁に馴染み、国元へ帰ってから足の速い家臣に盃を持たせて江戸と国元で盃のやり取りをする咄である。同様のことが三浦屋の高尾(西条高尾)と京の吉野太夫の間で行われている。

高尾、西条吉兵衛に、深く相馴て、或時吉兵衛に盃を乞ける、其盃の表青漆にて、内の方朱に、縁りに藤を蒔絵して、其盃に高尾自からが発句、
    くみかはす情は藤のうら葉かな
斯く物して興玩せしを、八月十五日に初めて、此盃を出し酒を汲かわすに、高尾より始て、吉兵衛にさす、是を吉兵衛押へて遣しける、高尾がいふ。此間(あい)を誰にか頼まんと。ふと存付、京朱雀なるけいせいよし野が方へ遣はしたるを、よし野もさる者にて押へて越したり。高尾又、押への間いを浪花新町の契情高窓方へ遣しける。互に盃の往来に付ての音信夥敷事いふべからず。目覚しき活興なりとて、其頃美談なりし由、此盃を号て都かへりと云。ゆへ有て、今角町に住ける河東か一列成蘭州所持す。又中の町の茶屋近江屋半四郎方に、二代目高尾が所持の盃とて持伝へたるあり。七合入の朱の大盃にて、三つ楓と九曜の比翼紋を蒔絵したり。此九曜は、北国の君の御替紋なり。其かみ箱に入有しよし、其箱は蓋に、高尾此盃にて一つ受たれど、飲得ずして残す酒を、国君なる御側の井上間(はざま)に、すけさす、間すけて、後又、一ぱい飲みしことを書附て置けり。其後、箱破れたればとて、今に其文字を服紗にうつして、盃を秘め置ぬ。 (石原徒流『洞房語園異本考異』)

後者の盃は『花街漫録』(文政八年1825序)に載っているが、比翼紋にはなっていないようである。また間(あい)をした御側衆の名も大森はさまとある。
高尾いかゝおもひけん一ッうけなはのミて残たるを大森はさま〔太守の近衆なるへし〕といへる者にさしけれハはさまのミて後また一杯と八分めかほとものミけるハいと見事なる事とも也

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