落語の中の言葉138「あまざけ屋」
五代目柳家小さん「御慶」より
千両富に当り二割引かれて八百両を受け取った八五郎がお店の旦那がするような格好で年始回りがしたいと云うと、女房は何でも揃うからと市ヶ谷の「あまざけ屋」へ行くよう勧める。
実在の「あまざけ屋」は呉服屋で、品揃えが豊富で普通の店では置いていない御殿向の物まで揃えていたという。
あまざけ屋の本当の名は福永屋であった。
咄の枕などで人の真似をして失敗する例に甘酒売りをからかう話が使われ、江戸時代には甘酒は夏の食べ物であったと云われる。
江戸時代末期の江戸では一年中売られていたようであるが、ずっとそうだったわけではない。江戸時代の半頃までは、やはり冬の食べ物であった。それが四季に売るようになり、夏のほうが多くなったようである。江戸も昔は一杯六文であったが後に値が上がりして八文になった。
小寺玉晁は尾張藩の臣で『江戸見草』は天保十二年参勤に従い二月から十一月まで江戸に滞在した時の記録である。
註:「ゴサイ」 ゴサイは大奥女中のうち直雇いのなかの上級者が召し使う男の奉公人。
御小納戸大岡忠右衛門の女で、御年寄滝山を伯母に持ち、天璋院殿(十三代家定将軍の御台所)の御中﨟を勤めた大岡ませ子刀自の話すところによると
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千両富に当り二割引かれて八百両を受け取った八五郎がお店の旦那がするような格好で年始回りがしたいと云うと、女房は何でも揃うからと市ヶ谷の「あまざけ屋」へ行くよう勧める。
実在の「あまざけ屋」は呉服屋で、品揃えが豊富で普通の店では置いていない御殿向の物まで揃えていたという。
市ヶ谷のあまざけ屋は、御殿向のものが一切揃えてありましたが、あまざけ屋は御用達ではありませんでした。御用達はゴサイの持っているのと同じ御門札を持っています。本石町の井筒屋、後には北島屋といいました。京都から出ている染物屋でしたが、何でも間に合わせる家でした。ここへ都度都度言い付けました。(三田村鳶魚『御殿女中』)「ゴサイ」については文末に註記
あまざけ屋の本当の名は福永屋であった。
四谷市ヶ谷にあった呉服の老舗「あまざけ屋」は、店頭に大釜をかけておき、入って来るお客に甘酒を進呈していたことで人気があった。この店の屋号は福永屋であったが、誰もほんとうの屋号を呼ばず「あまざけ屋」で通っていた。(福永屋は山手から三多摩にかけて得意先を持っていた江戸時代からの呉服屋だったが、明治二十八年不振になり現在の伊勢丹に併合される。)(増田太次郎『引札絵ビラ風俗史』)
咄の枕などで人の真似をして失敗する例に甘酒売りをからかう話が使われ、江戸時代には甘酒は夏の食べ物であったと云われる。
甘酒売り 醴売りなり。京坂は専
ら夏夜のみこれを売る。専ら六文
を一碗の価とす。江戸は四時とも
にこれを売り、一碗価八文とす。
けだしその扮相似たり。ただ江戸
は真鍮釜を用ひ、あるひは鉄釜を
も用ふ。鉄釜のものは、京坂と同
じく筥中にあり。京坂必ず鉄釜を用ゆ。故に釜皆筥中にあり。(『守貞謾稿』巻之六)
江戸時代末期の江戸では一年中売られていたようであるが、ずっとそうだったわけではない。江戸時代の半頃までは、やはり冬の食べ物であった。それが四季に売るようになり、夏のほうが多くなったようである。江戸も昔は一杯六文であったが後に値が上がりして八文になった。
あま酒は冬の物也と思ひけるに、近頃は四季ともに商ふ事になれり、我等三十歳頃(小川顕道は元文二年(1737)閏十一月生まれ。したがって明和三年(1766)頃)迄は、寒冬に、夜のみ売廻りけり、今は暑中往来を売ありき、却て夜は売者少し、浅草本願寺前の甘酒屋は古き者にて、四季に売ける、其外に四季に商ふ所、江戸中に四五軒も有しならん、(小川顕道『塵塚談』文化十一年1814)
同年(明和五年1768)のころ、御ぞんじあまざけといふ見世、並木にあり。今所々醴見世の元祖なり。すべてあまざけ又納豆など、寒中ばかり商ふことなるに、近きころは、土用に入と納豆を売きたる。あまざけは四季ともに商ふことゝなる。(『明和誌』文政五年1822)
天明(1781~89)中比迄は、醴一杯六文が古よりの定直段なりけるが、此時より七文に直上りける、其比予二十歳計の事なるが、三人連にていかゞ敷方より朝帰、互の袋中を探見るに、三人にて銭二十文ならではなし、何の食にも足らず、門跡前の醴一杯も呑んと立寄見れば、一杯七文と直段上りけり、左すれば一杯宛呑事ならず、一人は湯計呑んで帰けり、此比は気楽な面白事也、又其後いつの事なりしか、一杯八文が定直段と成けり、(『宝暦現来集』巻之七 天保二年1831)
あまざけ壱盃八文
至てあじなし。予申けるは、我国
でたべしとは大違ひ也、国のは誠
によろしくといへば、それは御尤
千万なり、第一御国とは米がちか
ひ升から、どふしてもうまくは出
来ませぬといひき。せうか入ると
いふことはなく、小せうを竹の筒
よりふり出し入る也。(小寺玉晁『江戸見草』天保十二年1840)
小寺玉晁は尾張藩の臣で『江戸見草』は天保十二年参勤に従い二月から十一月まで江戸に滞在した時の記録である。
註:「ゴサイ」 ゴサイは大奥女中のうち直雇いのなかの上級者が召し使う男の奉公人。
御小納戸大岡忠右衛門の女で、御年寄滝山を伯母に持ち、天璋院殿(十三代家定将軍の御台所)の御中﨟を勤めた大岡ませ子刀自の話すところによると
御年寄の部屋には、局一人、側六人、タモン(炊事を担当する、下女)四人、ほかにゴサイ二人、これは男ですから部屋へは来られません。毎日御広敷の裏にある勾欄(てすり)まで来ています。お下(した)(宿元のこと)への使い、その他の外用を働くものです。勿論、町の買いものをさせる。ゴサイは旦那(自分が遣われている女主人)の物を盗むのが仕事だといわれておりました。昼食は旦那の部屋から貰います。詰所は勾欄の向うにありました。銘仙の羽織に一本差しという風俗、部屋の者の供もさせます。ゴサイも株になっていて、世襲だったのです。ゴサイは、御中﨟なら一人、御年寄になると三人までつかいます。(中略)引用者註:「部屋の者」というのは大奥勤めの女性のうち徳川幕府から禄をうける直雇いではなく、直雇いの女中が召し抱える者(又ものとも云う)。
二人遣うゴサイの一人は、上ゴサイといって、永年変らずに勤めますが、一人の方は、下ゴサイと申して、年の若い者で、これは時々変ることがありました。ゴサイの給金は、一年に二両二歩です。革の袋にはいった御門札を腰に付けていました。滝山などは、御門札を三枚持っていました。私(老刀自)は一枚でした。御年寄は、男扶持三人、女扶持七人頂いておりますから、御門札も三枚、中﨟は男扶持一人ですから、御門札も一枚なのです。(これで高級女中の受ける男扶持は、このゴサイヘの給与であるのが知れる。御門札も、ゴサイのために下付を請求するものなのである。御広敷へ出入りする御用町人も、御門札の下付を受けているのは勿論だが、高級女中の請求した御門札は、ゴサイに持たせるためのものなのだ)(三田村鳶魚『御殿女中』)
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