落語の中の言葉135「江戸三大祭ー補足『附祭』」

 「附祭」について神田祭りを中心に少し補足しておこう。

 江戸の祭りの歴史を概観すると、初期は京や大坂に負けない盛大な祭りにする意向が幕府にもあったらしい。江戸が発展し町人に経済力が付くに従って益々盛大になったようである。それが幕政改革が行われるたびに縮小されるようになる。
 享保の改革では、やたいの禁止、人数の半減、寛政の改革では百以上あった「附祭」が三つに制限され、それまでと比べ大変さびしいものになったという。

 所々祭礼ニ付、ねり物幷人数之儀、左之通自今可相心得事
一やたひ一切無用可仕候事
一ねり物人数之儀、一組合又は壱町切差出候町々之人数高、多クハ三分一、其次ハ半分、其余ハ右ニ準、相応ニ減可申事
一ねり物一通之儀斗ニ用候衣類作り物等、兼而拵置候儀一切可為無用候、其節ニ至、在合之品用ひ可申事
一惣躰ねり物結構ニ仕間敷候事
 右之趣町中不残可触知者也
   (享保六年1721)丑四月 (『江戸町触集成』第四巻)


寛政三亥年(1791)四月十五日被申渡之内
一山王神田其外共祭礼之義、是迄差定候番組之外練物万度等一切令停止、附祭は惣祭町ニ而大神楽一組、外ニ二組、都合数三ツと定候間、其旨相心得、警固之者共も花美之衣類決而不相成候間、家主共衣類も小紋ニ而も紋付ニ而も勝手次第いたし、麻上下着用警固可致事 (『江戸町触集成』第九巻)

寛政三亥年(1791)八月廿六日被申渡之内
一祭礼之節、屋台ニ似寄り候事は無用ニ候、出しニも弐三人わらへ乗は格別、夫より多は如何ニ候、尤牛も壱疋ニ而牽、若し途中ニ而煩節之為、外ニ替牛壱疋為牽候ハ格別之事ニ候、附祭之儀、当亥年より惣番組之内三番ニ相定候間、是迄差出来候趣向も用、新規之儀無用ニ可致候
(中略)
一大人花万度持出候儀は無用可致候、かるく致、子供等差出候儀は前々之通たるへく候
 右之通相心得、其外は去々酉年之通可為候、尤宝暦十三未年、明神祭礼之節格別目立候衣類等も相見え、其外屋台ニ紛鋪致方も有之候間、弥以右躰之儀無之様仕、前書ヶ条之趣意急度相守候様、祭礼ニ罷出候者共江入念可申渡候(以下略) (同書)

此達し無之前は、祭差出候町毎に、番附之花出し一本、何も附祭と申踊家臺、其外練り物万度等を、町々に差出候事故、御定め三十六番之外に、附祭りさまざまの工風もの出候事、数の百も二百も有之故、朝六ツ時より夜の四ツ時過迄も、町々渡り候故目覚しき事共也、警固衣裳も右に准じ、美服心の儘に致し、唐織さまざまの物を着し、美事なる事に有りける、寛政度右被仰渡以後は、祭礼一通りにて、何も心留め候程の花やかなる事なし、予若輩の時分は、何事も右に順ぜしが、今おひ立ものは、格別の楽しみもなく過行なり、(『宝暦現来集』天保二年1831 宝暦十年生まれ七十二歳の老人の著)

 文政十年1827に寛政以前に戻され、附祭は町々勝手次第となったがその数は制限されている。

 当九月(文政十年)神田明神祭礼之節、附祭世話番幷御雇上物とも以来御差止ニ相成、寛政度以前之通、祭礼町々より附祭勝手次第可差出、併右之通相成候迚、付祭数多ク差出候様ニとの儀ニは無之、祭礼惣町ニ而相互ニ申合、踊台六ツ七ツ、引物練もの伊達警固取交り八ツ九ツ流用致、都合十五六位を目当ニ致、御慰ニ可相成もの差出可申候 (『江戸町触集成』第十二巻)


『武江年表』には神田、山王の附祭について次のように書かれている。

(文政十年)九月、神田明神祭礼、御雇祭止み附祭十六箇所に成る。一箇所より一品づゝを出す(曳物三、踊台七、練物六と定む。引万度と称する物此の時より止む)。

(文政十一年1828)山王祭礼附祭、今年より二十箇所づゝに成る(一ヶ所より一品づゝを出す)。

 それが天保の改革で再び制限される。

(天保十二年1841)九月、神田明神祭礼の時、今年より附祭十六箇所を改めて三箇所と成る。一箇所より三品づゝ出す(踊台、地走り踊、練物の三品なり。曳物は止む)。御雇祭こま廻し始まる(浅草田原町源水これを勤む。弘化四未年より弟子本所元町源弥これを勤む。こまの曲は万歳、打末、きぬた、山がら、掛はし、玉子の上、風車、立あふひ、水の上、きせる、風車、帆綱とり、又枕の曲は三重、八つはし、あや杉、すくひ、打抜、こまの曲、しやつきり、筆の先、三重の糸渡り、がんぜき、しの竹、扇、唐子遊び、階子のり、糸渡り、大ごま、以上初年の番組也。是れより年々少しく変りあり)。(『武江年表』)

附祭の数がわずか九品になったとはいえ神田明神祭礼は一日がかりである。

祭礼のせつ出し印、三十六番迄有り、
 一番 鶏の出し        大伝馬町
 二  猿の出し        南伝馬町
 三  翁能人形の出し     神田旅範町一丁目
(中略)
此外順々に町々の出し印有り、
(中略)
 三十六番 ゑびす人形の出し  神田松田町
是にて終る、社地より行列して引出すに、朝六ッ時より始めて、昼九ッ時まで、絶へずにつゞくなり、 (『そらおぼえ』)

寛政の改革で附祭が三つにされる前はもっと長時間になっている。御茶の水通りの桜の馬場集合が深夜二時ころ、町を引き回して田安門から江戸城内へ行列の先頭がはいるのが夜明け前の午前四時過ぎ頃、そして行列の最後が常盤橋門を出るのは夜である。普通は九月十五日(満月)であるから晴れていれば十分に明るいが、天明七年は神主からの願いで十一月三日に行われているので闇夜に近く灯りが必要だったであろう。

(天明七年1787十一月)明三日神田明神祭礼、前々之通田安御門江入、御曲輪之内罷通り候ニ付、刻限早ク練入候間、前夜八ッ時例之通御茶水通迄相詰、差図請可申旨、先達而申渡置候処、吹上於御覧所、種姫君様「御縁女様」被遊御透見候ニ付、右刻限無相違相揃、七ッ時過田安御門外江参り可申事
右之段猶又被仰渡候間、祭礼ニ罷出候者共急度相心得可申候、以上
  十一月二日         町年寄三人 (『江戸町触集成』第八巻)


  引用者註:「種姫君様」=田安宗武女、安永四年1775将軍家治養女。 「御縁女様」=島津重豪女、安永五年一橋豊千代に定婚、その後天明元年1781豊千代(家斉)が将軍家治の世子になったため「御縁女の御方」と呼ばれる。

  くらやみへ牛を引き出す十五日  誹風柳多留第七篇 安永元年
  まん月のせなかにあたるもどり牛 誹風柳多留第八篇 安永二年

 時間がかかるのは、祭りの行列が長いばかりではない。御雇祭にこま廻し、太神楽があることでもわかるように、所々で芸をしているからである。附祭の多くも踊や所作をしている。
 御雇祭は幕府が資金を出して町に請け負わせたもの。附祭の三品、踊台、地走り踊、練物というのは大略次のようなものである。
踊台は踊り手二三人を乗せた舞台を担いでいくもの、地走り踊は舞台を使わず踊り手も歩いて行く、なかには踊る時に使う台を引いていくこともあった。此の方は踊り手の数も踊台より多い。いずれも歌(長唄や浄瑠璃)と三味線弾きがつき、後ろに底抜け屋台(底抜け日覆)が附属する。これは枠だけで底がなく囃子方は枠の中で歩く。練物は仮装行列のようなものである。

 江戸城内の道筋は次にようになっていた。
天保六未年の御雇の太神楽を出した本材本町三、四丁目の世話番の書き上げ(『江戸町触集成』第十三巻)

田安御門江入、田安様御物見前通より御上覧相済、清水様御物見前相済暫時休足仕罷在、御用済之御下知相伺、竹橋御門出、一橋様御物見前通り、大手御門前より左江酒井雅楽頭様前通、小笠原大膳太夫様前通、酒井左衛門様御物見前より松平越前守様御物見前通、常盤橋御門出、(以下略)

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   左は嘉永二年近江屋板切絵図、右は文化十年雉子町肝煎の書上(『町触集成』第十一巻より)

 文政十年に「祭礼町々より附祭勝手次第可差出」とあるが、附祭の内容には制約がある。
*牛牽き禁制
  差上申一札之事
一附祭日覆台踊之類、何れもかつき台ニ仕、牛ニ而ハ牽セ申間敷旨被仰渡候ニ付、不残かつき台ニ仕、弥右之通相守、曾而牛ニ而牽セ申間敷候事
一出し牽候義ハ牛壱疋より多仕間敷候
   (宝暦十三年1763)未九月朔日  (『江戸町触集成』第六巻)

*玄人の踊り禁制
踊子供はやし方共、都而渡世ニいたし候もの、或は芸者芝居稼之もの、一切差出申間鋪候、素人ヲ差出可申候
  但、踊台後見ニ男子差出申間敷候
   文政十亥年(1827)閏六月  (『江戸町触集成』第十二巻)

*歌舞伎似よりの禁制
山王神田両祭礼附祭等御曲輪内江引入候義、向後前々之通相心得、尤花美仰山之義は勿論、踊屋台地踊等差出候共、都而歌舞妓狂言ニ似寄候筋之品は決而差出候義不相成、且歌舞妓役者弟子筋其外右類ニ紛敷もの共ハ、是又一切差出申間敷旨、両祭礼町々江申通候様可致
  (安政六1859)未七月  (『江戸町触集成』第十七巻)

 附祭の内容も一月ほど前に明細書を町年寄へ提出してチェックを受けなければならなかった。
(安永八年1779)亥八月十七日
   奈良屋ニ而神田明神祭礼差出候町々江被申渡
     申渡之覚
 所々祭礼之儀ニ付、宝暦九卯年五月相触候御触之通相心得、番付幷練物人数囃子方等迄、惣而一組之内より出候練子供を始、少々之造りものたりとも、不残其品明細ニ書記、尤人数何程、何之装束ニ而、何之学ひを致候と申儀迄可書出候、勿論囃子物等は猶又役々委細ニ書分ケ可申候、若番付ニ洩候ハヽ、繰出之場所ニおゐて相改候上差戻候間、其旨相心得入念致吟味、不洩様可書出候(以下略)
 右之通相心得、一組限ニ帳面ニ致、来ル廿日迄之内持参可有之候
  亥八月  (『江戸町触集成』第八巻)

最後に附祭の例として嘉永四年の新石町一丁目の附祭、神代之学練り物・鹿嶋踊之学地走・神代岩戸之学踊台を紹介する。(『天下祭読本』(「嘉永四亥年九月神田明神祭礼御用留」)より)
  神代之学練り物
神代之学と認メ候幟壱本
 但白木綿江文字認メ黒絖ニ而縁ヲ取、竿之上江造物鉾ヲ取付、持人一人木綿之衣類幷白張ヲ着、烏帽子ヲ冠り申候
鉄棒引女子供 二人 
 但絖衣類幷絹裁付ヲ着
猿田彦之学女子供 一人
 但鳥兜ヲ冠り造物釼ヲ持、絹摺込模様之装束ヲ着、絹大口ヲ履、襟江天狗之面ヲ掛ケ、造物太刀ヲ佩、足駄ヲ履、後引抜後ニ而茶屋女之姿ニ成、絹小袖絖帯ヲ〆、紅絹前葉ヲ掛、団扇ヲ持、道化面を冠リ
仕丁之学女子供一人(引抜後三度飛脚之姿)
 以下詳細省略人数のみ
仕丁之学(男形、後肌脱)女子供四人・楽人之学(練歩行)女子供七人(猿田彦之学仕丁之学と同様手踊り)
大太鼓一つ持人二人 引台三枚(手踊りの節敷く、地車を付け引く)持人足十二人 後見女十三人 浄瑠璃語四人 三味線弾三人 囃子方六人 底抜日覆一荷持人六人 長柄日傘持人十五人 警固五人 世話役五人 床机持四人 弁当入長持二棹持人四人 茶小屋一荷持人三人 鉄棒引二人

  鹿嶋踊之学地走
神主之学女子供一人  仕丁之学女子供一人 鹿嶋踊之学女子供五人(以上七人浄瑠璃にて所作)
鹿嶋詣之学女子供三人 供奴之学男一人 駕籠舁男二人 旅侍之学男一人 旅女之学男一人 飴売学男一人(男形) 飴売学男一人(女形) 後見女十人 浄瑠璃語四人 三味線弾三人 長唄三味線弾女子供四人 囃子方七人 底抜日覆一荷持人六人 長柄日傘持人十五人 警固五人 世話役五人 床机持四人 弁当入長持二棹持人四人 茶小屋一荷持人三人 鉄棒引男子供二人

  神代岩戸之学踊台
岩戸隠之学(天照大神、引抜後田舎男之姿)女子供一人 天宇須女之学(引抜後田舎男之姿)女子供一人 (両人長唄にて所作)
後見女子供二人 長唄三人 三味線弾三人 囃子方六人 踊台一荷持人十六人 底抜日覆一荷持人六人 長柄日傘持六人 警固五人 世話役五人 床机持四人 弁当入長持二棹持人四人 茶小屋一荷持人三人 
  惣人数 〆二百五十二(四)人

「引抜」というのは、歌舞伎などで行う早変わりである。一日がかりなので弁当やお茶も必要である。

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