落語の中の言葉133「隅田堤の桜」

 飛鳥山のついでに幕末の江戸で一番人気があったという隅田堤の桜についてふれておこう。
 隅田堤の人気が出たのは比較的新しいようである。安永(1772-80)から寛政(1789-1800)の風俗のあらましを述べた『昔ばなし』には次のようにある。
花見は、上野、日暮、飛鳥山、わけて日暮賑ひ申候。夫故、其頃は、歌、浄瑠璃、おどり、徘徊(俳諧)、狂歌抔の会は、多分日暮にていたし候。今のごとく向島へは、一向人参不申候。其頃のほつ句に、
  淋しさは十六日の隅田川
と申ほつ句御座候。是にて御推量、尤三月十五日は梅若殊之外賑ひ申候。

 大田南畝編『ひともと草』(寛政十一年(1799))に集録されている藤原安民「隅田河のはな」には
従者具して、菅の小笠打かづきつゝ、堤のかたにいたる、一木二木咲初たる花の露をふくみたる堤づたひを行程、何がしくれがしのやしろぬかづきて、右にみなしていそぐ、むかひのかたに、雲かとのみたどるばかりをしこりて咲出たる、さこそと心いさみて行、とくより出たる人にや、花みてかへるならん、二人三人行あひぬ、かほりを袖にうつしくるもめづらかなり、(以下略)

一方、同書の唐衣橘洲(小島源之助)「上野山花」には
  「花見の人、袖をつらね、踵をひき、げにも、車轂撃人肩摩ともいふべからんかし」とある。

賑やかになったのは享和・文化の頃からだったようである。
隅田堤の花王(さくら)は、享保年間に植させ給ひ、その後延享・明和・寛政年間と、度々に植添給ひ、冬は花王の根毎々々に寒糞(かんごえ)の御手入等ありて、堤の左右は一面に、木母寺の門前より南の方凡七八町が間、更に余木をまじえず、往来の両側に狭(挟(さしはさ))んで、花王の古樹幾千株、花形(くわげう)又あざやかに、その香芬(ふん)々(ぷん)として眺望いはん方なく、世上の春を爰にあつめたるが如し、(『遊歴雑記初篇』文化十一年(1814))

  三田村鳶魚氏は「三囲稲荷の鳥居」(『江戸の旧跡』)で次のように書いている。
ここ(隅田堤)の桜は、四代将軍家綱が初めて植えたので、八代の吉宗将軍も、享保二年と十一年と、桜・桃・柳を六百五十株植えたのだが、それは一向景気立ったものではなかった。

 寛政の初めに三股の中洲新地を取払いその土で隅田堤を大幅にかさ上げし、桜を植えた。隅田堤の人気が出たのはその桜が大きくなってからのようである。

 寛政頃を中心とした見聞巷談を記した『梅翁随筆』には
隅田川のつゝみに桜の並木を植しも、此頃のことなり。むかしは此堤高からず。さればみめぐりいなりの石の鳥居は、笠木堤の上へ出たりしが、三股中洲の新地とりはらひに成し時、其土を以て堤を高くして築上たり。さるほどに今も此辺を画くには、堤の上より鳥井の見ゆる画有。これにて思ひはかるべし。しかはあれど、其角が発句せし頃は、いかゞ有けんしるべからず。後の人の今をおもふ事も、今むかしを見るがごとく成べしと、おもふまゝ書しるしぬ。
とある。

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    ついでに中洲について紹介する。
  
   中洲全盛の事
 明和九辰年(1772)、御伝馬役大伝馬町名主馬込勘解由企にて、新大橋の際三ッ俣の所より、酒井修理大夫殿屋敷の際小橋の辺の川中に出洲有之、これを俗に中洲といふ、修理大夫殿やしき西の方入堀の角より、新大橋の方え、表通長サ二百壱間、裏の方にて百七拾三間、奥行西の方にて七拾五間、東の方にて弐拾八間の処埋立候て、新地出来、是を中洲三ッ俣富永町と云、地面堅候為とて、水茶屋、豆蔵等出る、中にも、彼の松川鶴市出、大芝居にもおとるまじき程見物有之候、無程家居も建続き、わけて夏気は夜のにぎやかさ、河岸通りへは葭簀張の水茶屋出来、掛け行燈は軒をならべ、遊興を催し候ものは、水茶屋にて酒肴など取寄、後には女芸者など数多出来申候、扨、建つゞく家々は、先ヅ河岸通りの方には、往来の道巾十間程もあけ、料理茶屋、或は留守居茶屋抔二階屋に出来、前の河岸には、よしず張の茶見世、表通りは商人家建続き、西の方の河岸通りには、舟宿、湯屋など出来、中にも、大橋の方之角に、四季庵といふ茶屋至て奇麗にて、籞(いけす)に鯉鱸を囲ひ、夏気は折ふし大名衆へ借し切にて、紫の幕など打、遊具有之候事、折々見懸申候、夜分は、茶屋々々にて二階下へ掛行燈などともし、分て中川より舟にて見候風景、誠に日本一の夜の涼と、皆人風聞いたし候、(中略)
 然処、寛政二戌年、家作取払被仰付、上の御入用を以、右埋立候地所如元の川となり、土の捨場は深川霊雲院地内本堂の後に大成地あり、是え土を取捨、幷本所回向院の地内に、出水の為にとて、高さ丈余の掻上げ土手出来、其外所々にも取捨候由、(中略)
其比風聞いたし候、近年良(やゝ)とも致候へば、近在所々出水仕、是と申も、川下に水捌不宜、年々御収納も薄く相成候趣きに付、如此御入用を以、如元川に被仰付候、(以下略) (『親子草』寛政九年(1797)撰)

  『増訂 武江年表』によると中洲新地の面積は九千六百七十七坪余りという。同書には次のようにある。
(寛政元年)十月より始まり、大川筋其の外川々御普請、中洲築地取払せられ、翌年に至り元の水面となる。
 筠庭云ふ、浅草川の洲を浚ひ、隅田川土手普請の土となる。土持人足かよひの為め仮橋かゝる。中洲取払の時、
  屋根舟もやかたも今は御用船ちつゝんは止みつちつんで行く

  明和九年・上図(少し見にくい)と天保十四年・下図の分間絵図から三派(みつまた)の部分をあげる。

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