落語の中の言葉131「高尾の手紙」
「仙台高尾」に出てくる高尾の手紙は
夕し浪のうへの御帰らせ、御やかたの首尾いかにおはしますや、御げんのまま忘れねばこそ思ひ出さず候かしく
君はいま 駒形あたりほとゝぎす 三浦屋内高尾
やかたの君え
である。高尾の手紙と云われているものはいろいろなものに載せてあるが、少しずつ違っている。いくつか紹介する。
○燕石十種『高尾考』
夕しは浪のうへの御帰らせいよいよ御やかたの御首尾、つゝがなくおはしまし候や、御げんのまし忘れねばこそ思ひ出さず候かしく
君はいま 駒がたあたりほとゝぎす 高尾
御やかたの君え
なおこの前に長文の手紙があり、後ろに載せる。
○大田南畝『一話一言』巻之七
遊女三浦屋高尾手簡写
けさの御わかれ、なみのうへの御帰路、御やかたの御しゆびいかゞ御あんじ申候。わすれねばこそおもひ出さず候。かしく 高 尾
千里さま
○『北里見聞録』
常世媚(こび)たる遊女の文に、わすれねばこそ思ひ出さずと書事は、二代目高尾書出せし由、京町一丁目丸海老屋長右衛門内幸栄物語也、又ある人所持の高尾が筆跡を見るに、
今朝しは波のうへの御帰らせしよしはやかたの首尾つゝがなくおわしまし候や御げんのまゝ わすれねばこそおもひ出さず候かしこ
高尾は十一時(一説七代)あれども、其名さへあれば、人々二代目の万治高尾とする事也、され共此文体つゝまやかにして、殊に義理ふかう情あつく聞ゆれば、さもありなんか。
ところで手紙にある「わすれねばこそ思ひ出さず」という言葉については次のようにも云われる。
慕景集には、三歳の子を亡くした持兼の妻へ一周忌にあたり道灌が手紙に添えて送った歌とそれに対する持兼の妻の返歌が載っている。
道灌の歌は
「懐しく又恨めしき月日哉別れし去年のけふを迎へて」
持兼の妻の返歌は
「去年のけふ別し時も今とても忘らればこそ思出さめ」
であり、「わすれねばこそ思ひ出さず」とは表裏の表現である。
因みに慕景集には、三代目三遊亭金馬師匠の「道灌」に出てくる「急がずば濡ざらましを旅人の跡よりはるゝ野路の村雨」という歌も入っている。ただこの慕景集は道灌の集ではないという。
最後に燕石十種『高尾考』に載せる長文の高尾の手紙をあげる。ただ、はじめの部分は散らし書きになっており、かつ文字の大小の違いがあまりはっきりしないため読む順序がよくわからない。散らし書きは大きい文字を先に読んで、元に戻って小さい文字を読むきまりである。
なお、この長文の手紙については山本博文氏が『江戸人のこころ』の中でその一部を現代語訳をつけて紹介されている。
また、
尽す
事やと
さつと
めで度
の次の文字は「かしく」と読む。そのつぎの「さゝげ」の下にある文字は「まいらせ候」と読む。いずれも手紙特有の文字である。「かしく(かしこ)」は手紙の最後によく使われる言葉で、落語でも「駒長」(古今亭志ん生師匠)に出てくる。
間男をでっち上げて損料屋の丈八から品物と金を巻き上げる計画が「嘘から出たまこと」となり、長兵衛の女房お駒は丈八と逃げてしまうがその際の置き手紙に
「……書き残したき事は山々あれど、先を急ぐまゝ、粗々めでたくかしく」とある。
落語の中の言葉 一覧へ
夕し浪のうへの御帰らせ、御やかたの首尾いかにおはしますや、御げんのまま忘れねばこそ思ひ出さず候かしく
君はいま 駒形あたりほとゝぎす 三浦屋内高尾
やかたの君え
である。高尾の手紙と云われているものはいろいろなものに載せてあるが、少しずつ違っている。いくつか紹介する。
○燕石十種『高尾考』
夕しは浪のうへの御帰らせいよいよ御やかたの御首尾、つゝがなくおはしまし候や、御げんのまし忘れねばこそ思ひ出さず候かしく
君はいま 駒がたあたりほとゝぎす 高尾
御やかたの君え
なおこの前に長文の手紙があり、後ろに載せる。
○大田南畝『一話一言』巻之七
遊女三浦屋高尾手簡写
けさの御わかれ、なみのうへの御帰路、御やかたの御しゆびいかゞ御あんじ申候。わすれねばこそおもひ出さず候。かしく 高 尾
千里さま
○『北里見聞録』
常世媚(こび)たる遊女の文に、わすれねばこそ思ひ出さずと書事は、二代目高尾書出せし由、京町一丁目丸海老屋長右衛門内幸栄物語也、又ある人所持の高尾が筆跡を見るに、
今朝しは波のうへの御帰らせしよしはやかたの首尾つゝがなくおわしまし候や御げんのまゝ わすれねばこそおもひ出さず候かしこ
高尾は十一時(一説七代)あれども、其名さへあれば、人々二代目の万治高尾とする事也、され共此文体つゝまやかにして、殊に義理ふかう情あつく聞ゆれば、さもありなんか。
ところで手紙にある「わすれねばこそ思ひ出さず」という言葉については次のようにも云われる。
東都吉原の傾城高尾といへるは、三浦四郎右衛門の抱へにて、代々体貌全きものをこれにあつとぞ。三代目の高尾といへるは尤奇才なり、或人の御許へ送る後朝の文に、今朝の御別れ、浪の上の御通路、心もとなく忘れねばこそ思ひ出さずと書けりとなん。其才見つべし、此高尾川辺にて殺害に逢しといひつたふるは、甚しき虚説なり、死したるは世俗に伝ふる通り夏なり。右碑に記せし辞世は冬なり。殺害に逢しもの、何ぞ辞世を案ずるのいとまあらんや、実に次第の有事なれど、説談の長きを厭ひて爰に記さず。右の文の詞に、忘れねばこそおもひ出さめと云下句は、昔の太田道灌入道の媳婦(よめ)孫の死せられし中陰に、哀傷の贈答の返しなり。高尾これを取て用ひたり、此道灌、歌は慕景集といへる家集に出たり、予これを此比刻して公にす。(田宮仲宣『愚雑俎』文政五年(1822)序)
慕景集には、三歳の子を亡くした持兼の妻へ一周忌にあたり道灌が手紙に添えて送った歌とそれに対する持兼の妻の返歌が載っている。
道灌の歌は
「懐しく又恨めしき月日哉別れし去年のけふを迎へて」
持兼の妻の返歌は
「去年のけふ別し時も今とても忘らればこそ思出さめ」
であり、「わすれねばこそ思ひ出さず」とは表裏の表現である。
因みに慕景集には、三代目三遊亭金馬師匠の「道灌」に出てくる「急がずば濡ざらましを旅人の跡よりはるゝ野路の村雨」という歌も入っている。ただこの慕景集は道灌の集ではないという。
最後に燕石十種『高尾考』に載せる長文の高尾の手紙をあげる。ただ、はじめの部分は散らし書きになっており、かつ文字の大小の違いがあまりはっきりしないため読む順序がよくわからない。散らし書きは大きい文字を先に読んで、元に戻って小さい文字を読むきまりである。
なお、この長文の手紙については山本博文氏が『江戸人のこころ』の中でその一部を現代語訳をつけて紹介されている。
また、
尽す
事やと
さつと
めで度
の次の文字は「かしく」と読む。そのつぎの「さゝげ」の下にある文字は「まいらせ候」と読む。いずれも手紙特有の文字である。「かしく(かしこ)」は手紙の最後によく使われる言葉で、落語でも「駒長」(古今亭志ん生師匠)に出てくる。
間男をでっち上げて損料屋の丈八から品物と金を巻き上げる計画が「嘘から出たまこと」となり、長兵衛の女房お駒は丈八と逃げてしまうがその際の置き手紙に
「……書き残したき事は山々あれど、先を急ぐまゝ、粗々めでたくかしく」とある。
落語の中の言葉 一覧へ








この記事へのコメント